- 立夏に偲ぶ - (3)c
漆塗りの三段重の一段目から、まずは杯を手に取り櫻妃に渡した。次いで瓢箪の栓を抜くと傾けて中身の酒を注ぐ。
するっと飲み干した櫻妃が、軽く眉を寄せていた。
「気に入りませんか?」
年に一度しか飲めないが、さすがにいつもと違う酒であると気づいたようである。
「いや。これはこれで良いが……あれはもう仕舞いか?」
おかわりと、ぐいっと杯を差し出してきたので注ぐと、新しい酒にした理由を告げる。
「愚か者のよくある話、ですかねぇ」
「天災ではないのか?」
「いえ、明らかな人災ですよ」
長く続いていた酒蔵だけに、酒問屋から話を聞いて心底がっかりしたものだ。
杜氏とその父親で九十に手が届くのにまだまだ現役の大杜氏、跡取り息子の三代で経営していた酒蔵だった。問題を起こしたのは三十過ぎのバカ息子。マルチ商法に投資詐欺、おまけに結婚して子供もいるのになぜか結婚詐欺にも引っ掛かった。よくもまあこんなにたくさんと呆れた。
あれよあれよという間に借金は膨らんでいき、親に泣きついたときには、土地家屋はもちろん商売品の酒も一滴残らず抵当に入ってしまった。従業員は逸早く去っていき、とうとう暖簾は畳まれたらしい。
「……誰かが買い占めているらしく、問屋にも出回らなくなりましたよ」
面白そうに聞きながらすいすい飲んでいたが、途中で重箱を指したので、二段目と三段目を広げる。
中は様々な惣菜を詰めてある。箸で取り分けると、口をひな鳥のように開けて待っている櫻妃に食べさせる。
次はこれが欲しいと指しながら、
「……では、もう飲めぬか……。仕方ないのう……」
長年愛飲していて未練は大層あるが、なくなってしまったものは仕方がない。なんとかしてくれとシキに頼めば、おそらくというか絶対に対処するであろうが、そこまでしてほしいとは思わない。それにこの酒も己の好みのものを見つけてくれたし……と納得させ、口に入れられた惣菜をもぐもぐ……ん?
「これも変わったか? だが、こっちは同じものであろう……」
確認するようにシキを見れば、含み笑いをしている。
「どう変わりましたか?」
本当にわかりますかと小首を傾げているのを、むっとしながらも、
「なんぞ若い感じがする」
「ええ、これは先が楽しみなほうに変わりましたよ」
惣菜はよく行く老夫婦が営んでいる小料理屋に頼んでいる。ところがお互いそろそろ体がいうことを聞かなくなってきたので、近いうちに店仕舞をと考えていたらしい。
しかしこれに待ったをかけてきた者がいた。孫の一人が跡を継ぎたいと頭を下げてきたという。
「これと、これ……それとこっちですね。その孫息子が作ったものですよ」
「うむ、まだおよばぬが、うまいな……」
気に入ったようだ。
櫻妃に与える間に自分も食べながら、少しほっとする。
彼女は酒もそうだが大体同じものを望む。たまに試作品を持っていくこともあるが、酒ともども気に入ることはあまりない。
だから作り手が変わらざるを得なくなったときは、最初の何年かは苦労する。今回はすんなりいって良かったなと胸をなで下ろすのだ。
あらかた食べ終わり、飲むペースも緩やかになったあたりで、
「ああ、そうだ……」
何かを思い出したのか、シキが一冊の本を出してきた。
「不思議な話を持ってきたんですよ」
たまに読んでくれることもあるからそれはいい。
だが、しかし。その口調と浮かべている表情に、櫻妃は思わずこの場所には現れたことがない、記憶の底にある天敵に遭遇したかのような目つきをする。
「そんな毛虫に遭遇したような目をしなくても……やめますか?」
疑り深く本とシキをじーっと見るが、まったく心内を読むことができない。諦めてゆるく首を振って本を指す。
どんな内容であろうと、シキの思惑が何であろうと、彼女の声はとても心地よいのだ。
紡がれる物語に、引き込まれるとするか……と己の本体に寄りかかり目を閉じた。




