- 立夏に偲ぶ - (3)b
太陽はもちろん月も後を追いかけるようにして、地平線の彼方へと引っ込んでいった夜。
道らしき道もない、やや暗い乳白色の空間を、歩調を乱すことなく淡々と歩いている一人の人間の姿があった。
女性にしてはやや背が高く、口元はいつになく愉しそうな笑みが刻まれている。どこにでもいそうな特徴のない……いやいや。
休日出勤(結局ちょっと残業つき)していた時間と比べると、まるで別人である。
黒いシャツにパンツ姿。上に羽織っている丈の長い薄手の上着も黒。全身見事な黒ずくめの格好だ。化粧をしていない顔は、世の女性がうらやむほどの白皙だが、けして不健康そうには見えず、笑みを浮かべている口唇は、紅を刷いていないのに色鮮やかだ。
だが、一際目を引くのは眼だ。右眼は闇を塗り込めたかのような黒色、左眼は紺碧の海に月光を散りばめたかのような銀青色だった。
右手に縹色に染められた風呂敷包みを持ち、肩には瓢箪をひとつぶら下げている。
傍らには赤く光るものが、先導するかのように付き添っている。目を凝らせば、その光の中心は花びらの形をしているのがわかる。
夜とはいえ、人もまだ出歩く時間だが、あたりには不思議なことに誰もいない。
それもそのはず。この空間はこの世であってこの世でもない場所。
つまり、ここでは生きている人間は、彼女ただ一人であった。
迷いのない一定した足取りは、目的地に着いたためかわずかに緩まった。
前方は深い森の中を思わせる木々が見えてきた。ゆっくりと歩を進めると、ぽっかりと開けた場所に出た。
その中心を占めるのは、一本の枝垂れ桜である。樹齢は百年ほどとまだ若いが、見事な枝ぶりの八重咲きが見頃を迎えていた。
つぼみはほんのり桜色。綻ぶにつれ徐々に色濃く変化していく。役目を終える頃には、小豆色よりもなお濃い、まるで血の雫のように赤黒く染まった花びらが散っている。
周りでは、ふわふわ、ゆらゆら、色別できぬほどの色合いを持つ玉のようなものが、いくつも好き勝手に浮かんでいた。
全体を視界に入れるために少し手前で立ち止まると、目を細めてじっくりと眺めていた彼女の耳に、不機嫌そうな声が届いた。
「いつまで見てりゃ、気がすむんかえ?」
「綺麗なものはいつまででも見ていられますよ。特にあなたと同じものは、もう向こうでは見ることはできませんからねぇ」
柔らかく言い返すと、枝を傷つけぬように自分が通れるだけの隙間を作ってするりと内側に入り、枝先から幹に向かって歩を進めていく。
太い幹の根元に、独り坐しているものがいた。
女性と同じほどの年齢であろうか。江戸時代の武家の奥方のように裾の長い着物姿の女性のようである。桜色、鴇色、紅梅色。韓紅から蘇芳色と上に着ていくほど色を濃くさせて着重ねている。結っていない腰ほどまであるくせのついた檜皮色の髪と同色の帯には、蒼穹を練り固めたような蒼い玉かんざしが一本挿さっている。蘇芳色の双眸はやって来ようとしている女性の方へと向けられていた。
「一年ぶりだねぇ、櫻妃……」
坐しているものの前で立ち止まると、笑みを深く浮かべて訪いの挨拶をして傍らに座る。
「ああ、今年も逢えて嬉しく思うよ……シキ」
先程までの不機嫌さはすかっり消え、櫻妃も満面の笑みを浮かべている。
「さて、ではゆるりと愉しみますか」
やってきた黒ずくめの女性――シキは持ってきた風呂敷包みを広げた。




