第87話 代価は記憶
「先客に会わせてくれ」
俺が言うと、記録官は、ゆっくりと首を振った。
「ご案内は、いたしかねます」
「なぜだ」
「あの方々は、お取引の最中でございますので」
三月前から、ずっと。取引に三月かかる。あるいは、三月かけても終わらない何かをあの連中は続けている。
「じゃあ、その取引の話を聞かせてくれ。俺たちも客だ」
「もちろんでございます」
記録官は両手を組み直して、また丁寧に頭を下げた。
「当館は、お客様の求める記録をお渡しいたします。ここには一万年ぶんの記録がございます。天の座のことも、門を開く言葉も、当館の棚にはすべてございましょう」
あっさり言われて、俺は思わず息を止めた。
あるのか。ここに。
禁書庫で三日かけて探し当てた行き先の、そのまた先の答えが、目の前の機械の口から、こんなにも簡単に出てくる。
「ただし、対価を頂戴します」
「記憶だな」
「はい。よくご存じで」
記録官は、少しも驚かなかった。むしろ、話が早くて助かるという顔をした。
「記録ひとつにつき、記憶ひとつ。等価であることが、取引の作法にございます」
「その等価ってのは、誰が決める」
「わたくしが」
俺はそこで、顎を引いた。
「こっちじゃないのか」
「はい」
記録官は、いささかも悪びれなかった。
「お客様は、ご自分の記憶の値打ちをご存じありません。人は、大事なものほど、数えずに持っております。ですから、こちらで見立てさせていただきます。ご安心ください。わたくしは、記憶の見立てを一万年やっております」
その言い方には、驕りがなかった。ただ事実を述べている。八百屋がカブの値を言うのと同じ調子で、この機械は人の中身に値をつけると言っている。
「見立てを間違えたことは」
「ございません。一度も」
ボズの店を思い出した。
あの爺さんは、光を溜める板をつまみ上げて、こう言った。値をつけるならこの十倍でも足りん。だが買い手を探すのに半年かかる。だから今日は五分の一だ、と。
相場を教えたうえで、五分の一を、出す。それが、あの店の作法だった。
目の前の機械は、相場を教えない。教えないまま、こちらの懐から、自分で選んで抜いていく。
それを取引と呼ぶのは、たぶん、間違っている。
だが、こちらには断る余裕がない。門の言葉を持っているのは、この機械だけだ。売り手が一人しかいない市場では、値は売り手が決める。それは、どこの街でも同じだった。
「やめときなよ、クロウ」
リルが袖を引いた。その声が、固い。
「あの人の話、聞いたじゃん。名前だけ抜けちゃった人の」
「聞いてる」
「じゃあ」
「聞いてるから、確かめる」
俺はリルの手を、そっと外した。
噂は噂だ。御者の話も、女将の話も、しょせんは又聞きだった。実際に何が起きて、どのくらい持っていかれるのか。それを知らないまま、この先の交渉は、できない。
「一度でいい。試させろ」
「クロウ」
止めたのは、ヴェルナだった。
この娘が真顔になるのを、俺は初めて見た。
「腕や脚なら、生えてこなくても諦めがつく。だが、中身を削られるのは違うぞ。削られたことにも気づけん」
「気づけないから、確かめるんだ」
言ってから、自分でも無茶だとは思った。だが、ここで引き返せば、俺たちは山を越えてきた意味を、全部捨てることになる。ロレインの地図も、禁書庫の三日も、ボズの環もだ。
俺は、ノアのほうを見た。
あいつは、何も言わなかった。ただ、いつもの半分の微笑みを消して、じっとこちらを見ている。反対も、しない。賛成も、しない。決めるのは俺だと、その目が言っていた。
「小さいのでいい」
俺は、記録官に向き直った。
「取るなら、どうでもいいやつにしてくれ。旅の途中で見た石ころの形とか、そういうのだ」
「小さい、大きいは」
記録官が、ひどく静かに言った。
「お客様がお決めになることでは、ございません」
もっともな話だった。だから、腹が立った。
「まあ、いい。渡す。何を寄越す」
「まずは、この館の見取り図を、お渡しします。それと、お客様がお探しの方々が
どの区画に納められているかを、お伝えいたします」
「天の座の技師どもか」
「はい。第四保管区。館の、いちばん奥にございます」
値としては、破格だと、思った。
だからこそ、こちらが払う額も、たぶん俺の思っているより大きい。
「やってくれ」
記録官が、そっと片手を上げた。
構えていたが、何も、来なかった。
痛みもない。眠気もない。頭を触られた感じもない。目の前がぼやけることもなければ、床が揺れることもない。ただ、記録官が手を下ろした。
拍子抜けするほど、あっけない。刃を抜き合っているときのほうが、よほど何かをやり取りしている感じがある。ここでは、こちらが構えているあいだに、もう終わっていた。
「頂戴いたしました」
「もうか」
「はい。お渡しいたします」
その瞬間、俺の頭のなかに、館の絵が入ってきた。
通路の枝分かれ、階段の位置、区画の並び。誰かに教わったのでは、ない。もとから知っていたことを思い出したような感じだった。第四保管区は、この街の通りをまっすぐ抜けて、二度折れた奥にある。
図の広さに、俺は少し気圧された。表から見た白い箱は、たしかに横に長かった。だが頭のなかに入ってきた図は、それの何倍もある。地の下へ、階が幾重にも重なっていた。
「気持ちの悪い渡され方だな」
「慣れていただくほかございません」
俺は自分の頭を、二度ほど叩いてみた。
何も、変わった感じが、しない。指の数も、リルの顔も、ここへ来た理由も、全部ある。ノアの名も、リルの名も、ヴェルナの名も出てくる。ヴェルクの家のことも、ギルドのことも覚えている。
拍子抜けした、というのが正直なところだった。
「これで終わりか」
「はい。お取引は、成立しております」
鯨号へ戻ったのは、日が落ちてからだった。
あの街に、夜はない。天井の青空は、いつまでも青いままだ。館を出て、雪原の本物の夕暮れを見たとき、俺は妙にほっとした。
リルが、厨房で鍋をかけている。ヴェルナは甲板で大鎌を研いでいた。俺は食堂の椅子に腰を下ろして、頭のなかの見取り図を、もう一度たどっていた。
湯気が立ちのぼって、豆と塩の匂いが、流れてくる。
その匂いを吸い込んで、俺は、ふと思った。
匂いのある飯というのは、いいものだ。あの館には、これがなかった。
「ご主人様」
卓を拭いていたノアが、ふいに手を止めた。
「ひとつ、うかがってもよろしいですか」
「なんだ」
「ご主人様の、故郷の家の朝は、どんな匂いがしましたか」
妙なことを訊く。
俺は口を開いて、そこで止まった。
ヴェルクの家。石造りの狭い家で、竈が土間にあった。母親がいて、朝は早くから、何かを煮ていた。それは覚えている。全部、覚えている。
だが、匂いが出てこない。
思い出そうとすると、そこだけが、白い。煮ていたものの名前も、湯気の立ち方も言えるのに、鼻のほうに何も来ない。
「わからん」
「そうですか」
ノアは布を置いて、まっすぐに、俺を見た。
「ご主人様は、以前わたしにこう仰いました。うちの朝は、いつも煙と、麦を炒る匂いがしていた。あれを嗅ぐと、腹より先に足が台所へ向かった。だから今でも、朝に麦の匂いがすると、その日は上機嫌になるのだ、と」
俺は、その言葉を聞いていた。
誰かが、いい話をしている。そう、思った。
自分が言ったという実感が、まるでない。他人の身の上話を、卓の向こうから、聞かされている。それだけだった。
「言ったか、俺が」
「はい。二度」
「二度も」
「一度目は、海の底から拾っていただいた年に。二度目は、リルさんが加わった晩に」
ノアは覚えている。この機械は、俺が言ったことをひとつも落とさない。
俺が失くしたものを、ノアが持っている。それは救いのようでもあり、そうでないようでもあった。持っていてくれるのは、あくまで言葉のほうだ。匂いそのものは、もうどこにもない。
鍋の音が、やけに遠く聞こえた。
持っていかれたのは、それだった。
母の顔でもない。家の間取りでもない。名前でも、ない。ただ、朝の台所の匂いひとつ。
言葉にすれば、それだけだ。それだけのことなのに、いま俺の胸のなかには、蓋の開いた箱みたいな場所がひとつできている。中に何が入っていたのかも、もうわからない。
「よくできてやがる」
俺は、思わず、笑った。
「痛くもないし、困りもしない。飯は食えるし、剣も振れる。生きていくのに、何ひとつ支障がない」
「はい」
「だから、誰も文句を言わないんだ。名前を置いてきた奴も、それで困ってないと言った。そういう選び方をしてる」
あの機械は、こちらが日々使わない場所から、抜いていく。日々の役に立たないもの、無くても回るもの。
役に立たないものから順に取っていく。
人が、その順で大事にしているわけがないのに。
厨房から、リルが、顔を出した。
「クロウ、できたよ。食べる?」
「食べる」
俺は立ち上がった。
卓につくと、豆の匂いが、はっきりと立ちのぼってきた。塩がきつくて、たぶん明日には忘れる味だ。それでも、いまは匂う。
俺は一口すすってから、ノアに、言った。
「奥に行くぞ。第四保管区だ」
「はい」
「技師どもに会って、門の言葉を訊く。それと」
俺は匙を置いて、館のある方角へ、顎をしゃくった。
「灰色の連中を、探す。三月ぶんも取引を続けてる客が、まともなわけがない」
道は、頭のなかにある。行き先も、決まった。
だがそれを買うために、俺はもう、ひとつ払っている。
次に何を抜かれるのかは、俺には選べない。
それでも、行くしかなかった。




