第86話 白い館
雪原は、想像していたよりずっと静かだった。
峠を降りきると、そこから先は、白しかない。起伏はある。だが、目印になるものが何ひとつない。木も、岩も、道もない。鯨号が踏んだ轍だけが後ろへ伸びて、それも風が、すぐに埋めてしまう。
半日も走ると、方角の感覚が、消えた。
太陽は、薄い雲の向こうで、ぼんやり滲んでいる。どちらから昇ったのかも、途中でわからなくなった。俺は懐から方位の環を出して、掌に、載せた。針だけが、迷いなく前を向いている。
「これがなかったら、二日で戻ってきてるな」
「戻ってこられれば、良い方です」
ノアは操舵桿に手を置いたまま、そう言った。
二日目の昼過ぎ、白の向こうに、それが立ち上がってきた。
最初は、雪の丘だと思った。
だが近づくにつれて、輪郭が、直線になっていく。角がある。面がある。人の手で切り出したものの形だ。
鯨号を止めて、甲板から、見上げた。
長い。横に、恐ろしく長い。俺の目分量で、端から端まで千歩はある。高さは五階建ての宿ほどで、それが、延々と横に伸びている。塔ではない。倒れた柱でもない。ただ、白い箱がひとつ、雪の上に置かれていた。
継ぎ目がない。
石を積んだ跡も、板を張り合わせた線も、どこにも、見えなかった。まるごと一枚で出来ているとしか思えない。旧文明の建物には、たまにこういうものがある。造り方の想像すらつかないやつだ。ヴェルダントの心臓も、サーレの塔も、近くで見れば同じだった。人が積んだのではなく、どこかで一気に生えたように立っている。
「雪が、積もっていませんね」
ノアが言った。
言われて気づいた。あたりは膝まで雪が積もっているのに、館の屋根と壁には、一片も乗っていない。溶けた跡もない。ただ、雪のほうが避けている。
「生きてるな」
「はい。何かが、まだ動いています」
その言い方で、俺の胃のあたりが、少し重くなった。
「匂いがせんだろう」
背中でヴェルナが言った。腕を組んで、鼻の頭に、皺を寄せている。
「言っただろう。あれからは何も匂わん。この距離まで来ても、まだ、何も来ない。生き物も、機械の焼けた匂いも、無い」
「怖いか」
「気持ちが悪い。それは怖いとは違う」
この娘なりの区別が、あるらしい。
俺は雪を一掴みして、壁のほうへ放ってみた。白い粒が壁に届く手前で、ふっと散った。ぶつかった様子はない。散った雪は、そのまま地面へ落ちて、館の足元だけを避けるように積もった。
触れてもいないのに、避けられている。
入口は、東の端にあった。
雪の上に、そこだけ広く踏み固められた跡が、ある。
俺はしゃがんで、それを見た。
轍だ。荷車の車輪。それに、いくつもの足跡。風で角は丸くなっているが、形は、まだ残っている。二日か三日、というところか。
「新しいな」
「はい。それと」
ノアが少し離れた場所を指した。
「行きの跡しか、ありません」
俺は立ち上がって、雪原を、振り返った。
轍は、雪原の彼方から館へ向かって、伸びている。それだけだ。館から出て雪原へ戻る線は、どこにもない。
三月で四度。誰も戻っていない。ヴェルナの言葉が、そのまま目の前の雪に書いてあった。
俺はもう一度、轍をたどった。車輪の幅から見て、それなりの大きさの荷車だ。荷を積んで運び込んだのだろう。何を運んできたのかは、想像したくもなかった。
「入るの?」
リルが小さな声で訊いた。杖の柄を、両手で握っている。
「入る。門の開け方を訊きに来たんだ」
俺は雪を踏んで、扉の前に、立った。
扉というより、壁の一部が、四角く区切られているだけだ。取っ手も、鍵穴もない。
俺は拳で、その白い面を、二度叩いた。
「悪いな。旅の者だ。開けてもらえるか」
返事はなかった。
三つ数えるあいだ、何も、起きなかった。ヴェルナが鼻で笑いかけた、その瞬間だった。
音もなく、白い面が、横へ滑った。
中は、街だった。
俺は、たぶん間抜けな顔で立ち尽くしていたと思う。
通路でも、広間でも、機械の並んだ部屋でもない。石畳の通りが奥へ伸びていて、その両側に、家が並んでいる。二階の窓には、灯りがついている。物干しには、布が揺れている。通りの真ん中では、幌を張った店が野菜のようなものを並べていて、その前で、二人の女が何か言い合っていた。
人がいる。
歩いている。子どもが走っていく。老人が壁にもたれて座っている。誰も俺たちを見ない。誰も驚かない。四人組が武器を提げて突っ立っているというのに、誰ひとり顔を上げなかった。
着ているものが、見たことのない仕立てだった。布の落ち方も、留め具の形も、この世界のどこの国のものでもない。だが、暮らしている人間の格好ではあった。よそ行きではない、普段着の顔をしている。
頭の上には、空があった。
外は薄い雲の下だったはずだ。だがここでは、抜けるような青が広がっている。天井の高さは、外から見た建物の高さと、合わない。
「うわ」
リルが、間の抜けた声を出した。
「え、なにこれ。街じゃん。人、住んでるじゃん」
「住んでは、いないと思います」
ノアが低い声で言った。
俺も、そう思った。
なぜかは、すぐにわかった。
匂いが、しない。
目の前の店先には、湯気の立った鍋が、ある。湯気は本当に立ちのぼって、ゆらゆらと揺れている。だが、そこから何も来ない。汁の匂いも、油の匂いも、人いきれも、だ。アステライアの通りで、匂いに殴られたときのことを思い出した。ここには、あれが丸ごとない。
ヴェルナの言ったとおりだった。匂いだけが、抜け落ちている。
「そこの人。見ない顔だね」
声をかけられた。
店先の女だった。年のころは四十ほど。前掛けをして、手には木の匙を持っている。生きた人間にしか見えない。
「ああ、まあ。旅の者でな」
「へえ、旅。どこから」
「南から来た。街道を、ずっと」
女はきょとんとした。
「街道?」
「アステライアのほうからだ。知らないか」
こちらを見上げる目に、警戒も好奇心もない。近所の子どもに話しかけるのと、まったく同じ顔だった。
「知らないねえ」
女は笑って、鍋を、かき混ぜた。
「まあ、いいさ。今日はカブがいいのが入ってるよ。夕方には市が立つから、そのころまた来なさいな」
俺は礼を言って、そっとその場を離れた。
少し歩いてから、リルが、袖を引いてきた。
「ねえクロウ。あの人、こっちの話が通じてなかった」
「通じてないんじゃない。知らないんだ」
街道も、アステライアも、この人たちの世界には無い。当たり前だ。一万年前には、そんな街も、そんな道もなかった。
俺たちが歩いているのは、一万年前の通りだった。
この人たちにとっては、今日が一万年前なのだ。外の世界がどうなったかも、自分たちがどこへ行ったのかも知らないまま、カブのいい入荷を喜んでいる。
通りをひとまわりして、俺は、足を止めた。
同じ場所に戻ってきていた。
あの店先だ。湯気の立った鍋と、前掛けの女と、木の匙。
そして通りの向こうから、さっきの子どもが、走ってきた。同じ角度で、同じ速さで、同じ笑い方をして、同じ路地へ消えていく。
壁にもたれた老人が、同じ動きで顎を掻いた。
二人の女が、また言い合いを始める。声の高さも、間の取り方も、さっきと寸分違わない。
「そこの人。見ない顔だね」
女が、こちらを向いて、言った。
同じ言葉で。同じ調子で。
背中を、何かが這い上がった。
「ああ、まあ。旅の者でな」
俺は、同じ返事をしてみた。
「へえ、旅。どこから」
「北から来た」
「街道?」
女はきょとんとした顔で、そう、訊いた。俺は北と言ったのに、女は街道と訊いた。返事を聞いていない。相手が何を言おうと、その次に来る言葉は、もう決まっている。
「まあ、いいさ。今日はカブがいいのが入ってるよ」
俺は、そこで背を向けた。
喉の奥が、詰まっていた。
この人たちは、生きていない。
喋っているし、歩いているし、笑ってもいる。だが、一巡りぶんの決まった動きを、たぶん一万年繰り返している。夕方には市が立つと女は言った。その夕方は、たぶん永遠に来ない。
「ようこそ、いらっしゃいました」
声は、真後ろから来た。
俺は振り向きざまに、黒鴉へ手をやった。ヴェルナはもう大鎌を構えている。リルの杖の先が上がる。
だが、そこにいたのは、ひどく、穏やかなものだった。
人型だ。背は俺より少し低い。灰茶色の上っ張りを着て、両手を、前で組んでいる。顔は、人のものに見えた。四十がらみの、痩せた男の顔。目尻に細い皺まである。
ただ、まばたきをしない。
「お客様は、まことに久しぶりでございます」
男は深く頭を下げた。その所作が、やけに丁寧だった。
「当館は、アムネシア。人格保存施設にございます。わたくしは、記録官と申します」
「記録官」
「はい。名は、ございません。役目が、そのまま名前でして」
その言い方に、覚えがあった。俺は二度、こういうものと話している。役目を名前にして、主のいない仕事を、律儀に続けている連中とだ。
俺は、ゆっくり息を吐いた。斬りかかる相手ではない。少なくとも、いまは。ヴェルナに目で合図を送ると、あいつは不服そうに鎌を下ろした。
「その顔は」
俺が訊くと、記録官はわずかに首を傾げた。
「ああ。失礼を。これは、第八十二番の顔でございます。人間のお客様には、人間の顔でお応えするのが礼儀と存じましたので」
そして、記録官の顔が、変わった。
継ぎ目も、音も、光もない。ただ、いま見ていた痩せた男の顔が、次の瞬きの向こうで、髪を結い上げた若い女の顔になっていた。声も変わる。
「これは第三三七番。少し声が高くございましょう」
また変わる。今度は、白髭の老人だった。
「これは第九番。ずいぶん古い方でして、言葉づかいがいささか堅うございます」
リルが、俺の背中に、半分隠れた。
俺は黒鴉から手を離さないまま、そいつを見ていた。
悪意は、ない。それだけは、はっきりわかった。この機械は、心からもてなそうとしている。案内人がそうだった。パラゴンのあれもそうだった。
だからこそ、たちが悪い。良かれと思って動く機械ほど、途中で止められない。
「顔は、戻せるか」
「最初のものへ、でしょうか」
「ああ。ころころ変わられると、話しにくい」
「かしこまりました」
記録官は、痩せた男の顔へ、戻った。まばたきはしない。
「では、あらためて。ご用向きを、うかがいましょう。当館は、記録をお渡しすることができます。もちろん、対価を頂戴したうえで」
来た、と思った。
記録の対価。名前を置いていった若者と、入り口で呼び止められた、あの女。あの話の中身が、いま目の前に立っている。
「対価の話は、あとでいい。先に確かめたいことがある」
「なんなりと」
「俺たちより前に、ここへ来た客がいるだろう。灰色の外套の連中だ」
記録官の返事は、間を置かなかった。
「はい。おいでになっております」
「来た、じゃないのか」
「いいえ」
痩せた男の顔が、いかにも丁寧に微笑んだ。
「まだ、館の中にいらっしゃいます。三月ほど前から、ずっと」




