第85話 竜牙の峠
山道へ入って二日目に、鯨号の羅針盤が死んだ。
ノアが操舵室で、それに気づいた。針が、ゆっくりと、同じ向きに回り続けている。止まる気配がない。叩いても、置き直しても、針はぐるぐると回り続けた。
「見事に狂ってますね」
「爺さんの言ったとおりだな」
俺は懐から方位の環を出して、卓に、置いた。
こっちの針は、震えながらも、はっきりと一方を向いたままだった。羅針盤の針が三周するあいだ、環の針は指一本ぶんも動かない。
「効いてる」
「はい。これがなければ、いまごろ引き返す判断をしていました」
この道には、目印になるものが何もない。岩と、岩と、また岩だ。昨日通った岩と今日の岩を見分けろと言われても、俺には無理だった。
道は、そこから急に細くなった。
左は岩壁、右は谷だ。鯨号の車幅より、両側の余りが合わせて腕二本ぶんしかない。ノアが速度を落として、車体を、岩壁すれすれに寄せる。谷底は見えない。霧が溜まっていて、どれだけ深いのかも、わからなかった。
高いところへ来たぶん、風が変わった。
甲板に出ると、息が、白く散る。頬に当たる風が、細かい針のようだ。ボズが選んだ外套を、俺はようやく、ありがたく思った。
「クロウー、これ着ると動きにくい!」
「動けなくなるよりましだ」
リルが袖を振り回しながら、文句を言っている。あいつは首まで毛皮に埋まって、顔だけが出ていた。銀のサイドテールが、襟に押されて、妙な角度に跳ねている。
三日目の昼過ぎ、俺は、妙な感じを覚えた。
見られている。
根拠はない。だが、この手の勘は当たる。俺は甲板の縁まで出て、岩壁の上を見上げた。露出した岩と、そこに張りついた低い灌木。動くものはない。
だが、鳥がいない。
山へ入ってから、鳥の声はずっと聞こえていた。それが、いつからか途切れている。獣は、上位の何かが近くにいると黙る。街でも山でも、そこは同じだ。
「ノア。速度、落とせるか」
「わかりました」
黒鴉の柄に、指をかけた。
それは、上から来た。
空気を裂く音が聞こえた瞬間、俺は、横へ跳んでいた。
一拍遅れて、甲板が鳴った。
俺が立っていた場所に、太い刃が食い込んでいる。大鎌だ。柄の長さが、人の背丈ほどもある。板を裂いて、その下の骨材まで、達していた。
柄の先に、小柄な影が乗っていた。
水色の髪を二つに結んで、額の左右から、短い角が生えている。歳は、リルより下に見える。だが乗り方が違った。片手で柄を掴んで、鎌の刃を支点にして甲板の上に浮いている。腕一本で自分の重さを支えて、平然としている。
服は薄かった。この高さでその格好かと言いたくなるほど薄い。腕も脚もむき出しなのに、震えてもいない。手の甲には、鈍く光る手甲。首から下げた牙の飾りが、風に鳴っていた。
その口が、にっと裂けた。
「いま、避けたな」
「避けるだろ、普通」
娘は柄を蹴って身をひるがえし、甲板に、降り立った。着地の音がやけに重い。見た目の三倍は重さがある。
「私はヴェルナだ」
名乗ってきた。襲ってきた相手が、名乗った。
「この山は私の狩り場でな。下から強いのが上がってくると、匂いでわかる」
「匂いで、わかるのか」
「わかる。お前、強いだろう」
こちらの返事を待たずに、ヴェルナは、大鎌を甲板から引き抜いた。板が悲鳴を上げる。張り替えたばかりの外板が、これで、また傷ものになった。ボズの見立てた職人に、なんと言えばいいのか。
「悪いが、こっちは急いでる」
「三十数える。それまで持てば、通してやる」
話の通じない相手だと、俺は、諦めた。
最初の一撃は、横薙ぎだった。
大鎌が、甲板の上を、水平に走る。俺はそれを飛び越えずに、下へ、潜った。頭の上で刃が唸る。
潜った先へ、蹴りが来た。
膝で受けた。それだけで、腕まで痺れた。この小柄な体のどこに、これだけの重さが入っているのか。腹の底から力が出る種族だとは聞いていたが、聞くのと受けるのでは話が違う。
俺は黒鴉を抜いた。青白い光が二本、甲板に、伸びる。
「おお」
ヴェルナの目が、はっきりと輝いた。
「いい得物だ」
「褒めても手加減はしないぞ」
「してくれるな」
そこからは、ただの打ち合いになった。
大鎌の間合いは長い。だが長すぎて、懐へ入れば使えない。俺は踏み込んだ。ヴェルナは柄を短く持ち替えて、逆に石突きで突いてきた。持ち替えの速さが尋常でない。長物を短く使う稽古を、ずいぶん積んでいる。
こういう相手が、いちばん厄介だ。力任せに見えて、実は間合いの引き出しが多い。遠くで薙ぎ、近くで突き、詰めれば爪が来る。どの距離にも答えを持っている。
俺は距離を捨てた。当たるのを承知で、内側へ入る。肩で一発受けて、その代わりに一歩ぶん近づいた。ヴェルナの目が、そこで初めて驚きの形になった。
三合、四合。刃と柄がぶつかるたび、甲板が、鳴った。
五合目で、ヴェルナが鎌を手放した。
指の間から、鈍い爪が伸びた。金属の爪だ。手甲に仕込んであったらしい。それが下から跳ね上がってくる。
俺は身体を捻って、それを、首の脇へ逃した。頬をかすめて、外套の襟が裂ける。
「ほう」
「危ないだろ」
「危なくないと、面白くない」
背後で、リルが杖を構える気配が、した。
「撃つな」
俺は、振り向かずに言った。
「なんで!」
「ここは谷道だ。壁を崩すと、鯨号ごと落ちる」
それに、と俺は続けなかった。
こいつは、殺す気がない。爪も鎌も、当たれば死ぬ角度で来ていない。首の脇、肩の上、脇腹の外側。全部、寸前で逸れる線を、通っている。強い相手と打ち合いたいだけだ。子どもが、力いっぱい遊んでいるのと変わらない。
ノアが刃を抜きかけて、途中で、止めた。あいつも、たぶん同じことに気づいている。
二人がかりでやったら、この娘はきっと怒るだろう。
決着は、あっけなかった。
俺は片方の刃で爪を絡め取り、もう一本を、ヴェルナの喉元へ滑り込ませた。同時に、あいつの膝が俺の腹へ入っていた。
止まった。
黒鴉の切っ先が、ヴェルナの首の皮一枚のところ。ヴェルナの膝が、俺の腹を押し込んだところ。どちらも、あと少しでけりがついた。
しばらく、どちらも動かなかった。
先に笑い出したのは、向こうのほうだった。
「ははっ」
喉の奥から、心底楽しそうな声が、出る。
「いいな、お前。久しぶりだ、こういうのは」
「こっちは息が上がってる」
「上がってから、あと三合はやれる顔だ。わかるぞ」
ヴェルナは膝を引いて、後ろへ、跳んだ。俺も刃を下ろす。首筋に、細い赤い線が一本。だが本人は気にしてもいない。
「三十は数えたか」
「二十四だ」
「まけてやる」
まけるも何も、と言いかけて、やめた。この手合いに理屈を返しても、たぶん通じない。
リルが杖を下ろして、大きく息を吐いた。ノアは甲板の傷を見て、静かに首を振っている。街で張り替えてもらったばかりの板が、また裂けている。あの職人の顔が、なんとなく浮かんだ。
そのあと、なぜか一緒に飯を食う流れになった。
ヴェルナは鯨号の食堂の椅子に胡座をかいて、リルが出した乾し肉を、三人分たいらげた。角を気にする様子もなく、遠慮という言葉も持ち合わせていないらしい。
「北へ行くと言ったな。何をしに」
「塔を探してる」
「あの白いのなら、峠の向こうにあるぞ」
俺は口を止めた。
「見たのか」
「見た。近寄ってはいない」
ヴェルナは干し肉をかじりながら、なんでもないことのように言った。
「あそこは気味が悪い。私は鼻がきくが、あれからは匂いがしない。生き物の匂いも、機械の匂いもだ。何もないのに、建っている」
その言い方に、背中のあたりが、粟立った。この娘は、たぶん理屈ではなく、体で嫌がっている。獣の勘というやつだ。
「もうひとつ訊いていいか。この峠を、最近誰か通ったか」
「通った。何度もな」
ヴェルナが指を折った。
「三月で、四度だ。荷を担いだ隊が二つと、身軽なのが二つ。全部、灰色の外套を着ていた」
四度。ギルドが把握していたのは、三つだった。
「そいつら、戻ってきたか」
「一度も見ていない」
ヴェルナは、あっさりそう言った。この娘にとっては、山へ入って戻らない者など珍しくもないのだろう。だが四度というのは、多い。しかも一度も戻らないまま、また次を送り出している。
俺は、リルと目を合わせた。あいつも、さすがに笑っていない。
灰色の連中は、俺たちより先を歩いている。しかも、戻ってきていない。先に着いた者が誰も帰らない場所へ、俺たちはこれから行く。
話が終わると、ヴェルナは椅子から降りて、大鎌を肩に、担いだ。
帰るのかと思った。だが、そいつは扉ではなく、奥の通路のほうへ、歩きだした。
「おい」
「寝床はどこだ」
「は?」
「私も行く」
俺は椅子から半分立ち上がった。
「待て。なんでだ」
「面白そうだからだ」
それだけだった。
金の話も、大義の話も、恩の話も出てこない。ヴェルナは肩越しに振り返って、こう、付け足した。
「気味の悪い建物に、強い男が乗り込むんだろう。見ないと損だ」
リルが吹き出した。ノアは、半分だけの微笑みを浮かべている。俺だけが、まだ状況に追いついていなかった。
「食う量が三倍になるぞ」
「働く」
「何をする気だ」
「何かあったら戦ってやる」
ノアがそっと俺の袖を引いて、耳打ちしてきた。
「食料の見直しが要ります」
「だろうな」
「二十日ぶんが、十五日になります」
「聞こえてるぞ」
通路の奥から、ヴェルナが言った。耳もいいらしい。
もう、どうにでもなれと思った。
北の果てへ向かう道連れが、一人増えた。金にも義理にも興味がなく、ただ面白そうだという理由だけでついてくる。頼りになるのかどうかは、まるでわからない。
だが、さっきの打ち合いを思い出す。あの速さと、あの重さ。まともに敵に回したら、俺は無傷では済まなかった。
思ったより上等な拾い物かもしれない。そう考えて、俺は自分で少し笑った。
その日の夕方、鯨号は、峠の頂へ出た。
甲板から見下ろすと、山肌が向こう側へ落ちていって、その先に、白い平地が、広がっていた。雪原だ。地の果てまで、まっさらな白が続いている。
その白の上に、ぽつんと影がある。
遠すぎて、大きさがわからない。角ばった、長い影。雪の上に横たわった舟のようにも見えた。
「あれか」
「あれだ」
ヴェルナが隣に来て、顎をしゃくった。
俺は懐から方位の環を出した。針は、迷いなく、その影を指している。ここまで運んでくれた、旧文明の道具だ。
「明日には着くな」
この先に何が待っているのかは、まだ誰も知らない。だが、頭数が増えたぶんだけ、こちらの手札も増えた。
剣で開かない扉なら、話して開ける。話しても開かないなら、そのときは、あの大鎌に働いてもらえばいい。




