第84話 封じられた部屋
丘をひとつ越えたところで、視界の端から端まで、緑がせり上がってくる。木の背丈が、街道沿いのそれとは、まるで違う。近づくにつれて空の面積が減っていって、しまいには、頭の上を枝が塞いだ。
エルフたちの森だ。
「うわ、すっかり戻ってる」
俺も、同じことを思っていた。初めてここへ来たとき、この一帯は、白く石になりかけていた。俺たちが発つ朝には、半分ほど色が戻っていた。いまは、葉が重なりすぎて日が届かないくらいに茂っている。
庭は、すっかり手入れを取り戻したらしい。
里の広場へ鯨号を入れると、真っ先に、ミスラが駆けてきた。
「クロウ!来るなら先に文を寄越せと言っただろう」
「悪いな。いろいろとこっちにも事情があるんだ」
番人の娘は、相変わらずだった。俺の顔を見るなり眉を吊り上げて、それから、思い出したように口元を緩める。怒った顔と笑った顔の切り替えが、この娘はひどく下手だ。そこが、妙に信用できる。
「歌は、続けてるのか」
「もちろん毎日。雨の日も歌っている」
こともなげに言って、ミスラは、森の奥へ目をやった。
あの向こうで、ヴィリディスが、いまも脈打っている。一万年ぶん増やすことしか知らなかった心臓が、いまは、ひとりの娘の歌を頼りに森を整えている。頼りないと言えば、これほど頼りない繋がりもない。それでも、繋がってはいる。
「テオは」
「向こうで薪を割ってる。見ない顔だと思ったら、あんたたちか」
言われた方向を見ると、若い男が斧を止めて、こちらを見ていた。目が合うと、少しばつが悪そうに、手を上げる。俺も上げ返した。里の力仕事を引き受けているらしい。遺跡の力に手を伸ばして繭に沈みかけた男が、いまは、薪を割っている。人はちゃんと戻れるものだ。
長老のオルウェンは、里の中央で、待っていた。皺の刻まれた顔が、俺たちを認めて、わずかに動く。
「また来たか」
「久しぶりだな。あそこを、使わせてもらえるか」
「約束は約束じゃ。あの扉は、もうそなたらにも開いておる」
禁書庫は、里のいちばん奥にある。
古い石造りの建物だ。まわりの木造の家とは、そこだけ、時代が違う。屋根は苔をかぶって、壁の継ぎ目には、蔦が這っている。何百年、誰の目にも触れずにいた場所を、俺たちのために、一度だけ開いた。それが、あのときの礼だった。
オルウェンが鍵を回す。扉が、低い軋みを上げながら、開いていく。この音を、俺は覚えていた。
中は、石の匂いのする、しんとした部屋だった。
壁一面に古い木の棚が並び、無数の石板と巻物が、整然と収められている。高いところに明かり取りの窓が二つあるきりで、昼でも、ランプが要る。埃と、遠い時代の匂い。あのときと何ひとつ変わっていない。
「持ち出しはならぬ。それだけじゃ」
オルウェンはそう言い置いて、扉の外へ、下がった。
俺はランプを卓へ置いて、それから、棚を見渡した。
二度目でも、やはり気圧される。
前にここへ入ったのは、里が救われた夜だった。ささやかな宴が終わったあと、オルウェンに案内されて、俺たち三人だけで扉をくぐった。そして、東の空が白むまで読んだ。
あの一晩で、俺たちは〈置いていかれた者たち〉のことを知った。一万年前、旧文明の主は空の彼方へ去り、残された機械は、待てと命じられた。庭守も、ヴィリディスも、みんなその一体だった。
あのときのノアの横顔を、俺はまだ覚えている。読み進めるほどに指が止まって、しまいには一枚の石板を長いこと手に持ったまま、あいつは動かなくなった。まるで自分自身も、その中の――と言いかけて、あいつはそこで口を閉じた。
そして棚のいちばん奥にあった、最後の一枚。
遠いご先祖の書き置きだった。もし空の彼方からあの呼び声がもう一度聞こえたなら、それは主の帰還の報せか、あるいは全機目覚めよという恐ろしい号令かもしれぬ、と。
あれが、この旅の始まりだった。あの一枚がなければ、俺たちは、サーレへも行かなかった。眠り続ける村も、鈴を鳴らす娘も、案内人も、何ひとつ知らないままだった。
「読むのはノアだ。俺たちは運ぶ係だ」
「あたし、運ぶ係か」
「不服か」
「べつに」
言いながら、あいつは立ち上がって、ぐいと袖をまくった。文句を言いながらちゃんと働くのが、この娘の良いところだった。
ノアは既に、一枚目の石板を手に取っていた。
それから、三日が過ぎた。
三日というのは、書き記せばたった一行だが、この部屋で過ごすと途方もなく長い。俺は棚から棚へ石板を運び、ノアがそれを読んで、右と左に、束を分ける。読めない俺には、束がどちらへ行くかだけが、進み具合の目安だった。
窓から差す光の角度で、おおよその時刻だけが、わかる。飯は宿舎で食った。二日目の晩に、ミスラが焼いた木の実を差し入れてくれた。それが妙にうまかった。
ノアが顔を上げたのは、三日目の遅くだった。
「ご主人様。ありました」
差し出されたのは、掌ほどの、薄い石板だ。表面に、浅い文字が刻まれている。俺には、読めない。だが隣に置いたロレインの古地図の塔の絵と、石板の隅に彫られた図が、ぴたりと重なった。天へ向かって伸びる、細い塔。
「〈天ト地ヲ繋グ座〉。この板には、そう記されています」
「天の座か」
「はい。北の果て、雪に閉ざされた土地に築かれた、と。天と言葉を交わすための塔である、とも」
ようやく、形になった。
伝説でも、言い伝えでもない。旧文明自身の記録に、あの塔は確かに存在していた。地図の端の頼りない印が、俺のなかで、はじめて手触りのあるものに変わっていく。
「行けるのか、そこに」
「それが」
ノアの指が、石板の下のほうをたどった。
「――門ハ閉ザサレテイル。資格ナキ者ハ、座ノ前ニ立ツコト能ワズ」
「閉ざされてる?」
「はい。しかも、旧文明の側でそう書かれています。この記録が刻まれた時点で、既にあの塔は誰にでも開くものではなかった、ということかと」
思わず唸った。一万年前の連中ですら、あそこの門は叩けなかったということだ。
念のため、周りの石板も、当たらせた。門を力ずくで開こうとした一隊の記録が、出てきた。何が起きたかは、書かれていない。ただ、その隊はそれきり報告を寄越さなかった、とだけ残っている。
黒鴉が通じるかどうかは、正直、賭けだ。俺のこの二本は、これまで、大抵の機械に指を届かせてきた。だが門を守るのが、あの空の彼方の留守番と同じ格のものだとしたら。案内人ひとりを塵に変えた光を思い出すと、指先が粟立った。
「じゃあ、どうやったら開くんだ」
「それも、書かれています」
ノアは石板を持ち直して、そこだけ、声を落とした。
「門ヲ開クハ、座ヲ建テシ者ノ言葉ノミ」
建てた者の言葉。あの塔を設計した連中の口から出る合言葉でなければ、門は、動かない。俺は思わず、頭を掻いた。
「そいつら、一万年前に空へ行っちまってるんだろ」
「はい」
「じゃあ、訊きに行くわけにもいかないな」
「いえ」
ノアが、顔を上げた。
「訊けます」
その一言で、部屋の空気が変わった。壁ぎわに座っていたリルまで、いつのまにか立ち上がって、こちらを覗き込んでいた。
ノアが別の束から、巻物を、一本引き抜いた。
「旧文明には、人が身体を終えたあと、その人格をそのまま保管しておく施設がありました。記憶も、話し方も、癖も、丸ごとです。この記録によれば、天の座の建造に携わった技師たちの人格も、そこへ納められたそうです」
「待て。それは、なんだ。生き返らせるってことか」
「いいえ。生き返りはしません。ですが、話すことはできます」
しばらく、言葉が出てこなかった。
旧文明の遺した機械は、いくつも見てきた。庭を増やし続けるやつ、客を外に出さないやつ、村ごと夢に沈めるやつ。どれもたいがい狂っていたが、根っこにあるのは人の願いだった。死んだ者と、もう一度話したい。それもまた、ずいぶん人らしい願いに思える。
願いが素直なほど、あいつらは、大きな仕掛けを作る。そして大きな仕掛けほど、主を失ったあとに、厄介なことになる。
「その施設に、名前は」
ノアが巻物の縁をなぞって、その名を、読み上げた。
「〈アムネシア〉。人格保存施設アムネシアと、あります」
石の部屋に、その響きが、やけに長く残った。
死んだ人間に、道を訊きに行く。口に出してみると、われながら妙な話だった。だが旧文明という連中は、その妙な話を平気で仕組みにしてしまう手合いだ。門の鍵は、鍵の形をしていない。人の言葉の形をしている。
それなら、俺の得意な分野だった。剣で開かない扉は、話して開けるまでのことだ。
扉を出ると、外はもう夕暮れだった。
三日ぶりの風に、俺は、思わず目を細める。オルウェンに礼を言いがてら、その名を出してみた。長老の眉が、わずかに動く。
「北へ向かう隊商が、たまに口にする名じゃ。良い話は、ひとつも聞かぬ」
それから長老は、思い出したように付け足した。目録には載っているのに、棚に見当たらぬ石板が一枚あるという。
「番号でいえば、そなたらが今日読んだあたりじゃ」
俺は足を止めた。
「いつから無い」
「わしが目録を引き継いだ時には、既に無かった。誰が持ち出したかも、いつのことかも、わからぬ」
夕日が、里の屋根を、橙に染めている。ミスラが遠くで何かを呼んでいて、テオの斧の音が、まだ律儀に続いている。おだやかな里の夕方だった。
だが俺の頭のなかでは、その一枚だけが、ぽっかりと抜けていた。
二度と読み解かぬよう、ご先祖が封じた部屋だ。鍵は長老が代々持ち、扉は、あの夜まで一度も開かれていなかった。そこから、石板が一枚だけ消えている。
灰色の円に、鍵と歯車。
あいつらは、天の座の名を、俺たちよりずっと前から知っていたことになる。




