第83話 白紙の地図
職人は、日の出とともに来た。
停留場に据えた鯨号の脇に足場を組んで、焼けた外板を剥がしにかかる。四十がらみの男が二人と、まだ若い弟子が一人。無駄口をきかず、手だけがひっきりなしに動いていた。
ハンマーの音と、剥がした板を放る音が、朝の停留場に規則正しく響く。若い弟子は道具を運ぶだけだが、その運び方に無駄がない。この街には、こういう手仕事が山ほどある。旧文明の遺物で飯を食う街だが、それを下から支えているのは、結局、こういう腕だった。
剥がされた板を見て、俺は、思わず息を止めた。
外側は、ただ薄く色が変わっているだけに、見えていた。だが裏返すと、板の内側が、細かい網目に割れている。指で押すと、そこがぼろりと粉になった。
「こりゃあ、なんに当たったんだ」
棟梁らしい男が、板を持ったまま、俺を見た。
「光だ」
「光で、こうなるか」
「なるらしい」
男はそれ以上訊かなかった。この街の職人というのは、たいてい、そういう作法を身につけている。旧文明の遺物を扱う仕事では、由来を訊きすぎる者から順に厄介ごとを背負う。
俺は剥がされた板を、しばらく、手に持っていた。
あの光は、塔と村をまとめて薙ぎ払った。俺たちは、端をかすっただけだ。それでこの有様なら、じかに浴びた案内人には、何が残ったのだろう。塵になった、とは聞いた。だが、塵にもならなかったのかもしれない。
あの機械は最後の最後に、村人を外へ逃がすためだけに、残りの力を使い切った。ついでのように、俺たちも押し出していった。その置き土産が、この板一枚ぶんの焦げだ。安かったのか高かったのか、俺には、いまだにわからない。
「クロウー、朝飯!」
足場の下から、リルが包みを振っていた。俺は板を職人に返して、梯子を降りた。
張り替えは、昼過ぎに終わった。
新しい板は、周りより色が明るい。鯨の腹に、四角い継ぎ当てが一枚。近くで見れば、そこだけ浮いて見える。
「目立つな」
「そのうち馴染みます。それに」
ノアが継ぎ当てに、そっと手を当てた。
「これは、あの村で受けた傷ですから。残っていても、かまわないように思います」
俺は少し笑った。俺も、同じことを考えていたのだ。
傷を隠さずに置いておく家というのは、たぶん、それだけで何かを覚えていられる。鯨号は、俺たちのもう一つの家だ。ならばこの継ぎ当ては、表札のようなものだった。
積み込みは、その日のうちに済んだ。
ノアが手にした一覧の項目が、上から順に、消えていく。
「これで、二十日ぶんは保ちます。切り詰めれば三十日」
「足りるか」
「足りない場合は、途中の村で買います。北の街道にも、人は住んでいますので」
夕方、停留場に人影が立った。
灰色の髪に、狼の耳。腕を組んで、鯨号を見上げている。
「支部長」
「見送りに来たわけではない」
そう言いながら、あの人は懐から一枚の紙を抜き出して、俺に押しつけた。
依頼票だった。
目を落として、俺は、眉を上げる。
依頼名の欄に、北方街道以北の踏査、とある。依頼主はアステライア支部。期限は無し。報酬の欄には、笑ってしまうような額が、書かれていた。
「安いな」
「銅貨で足りるところを、無理に銀にしてやったんだ。感謝しろ」
「そういうことじゃなくて」
「わかっている」
支部長は鼻を鳴らして、鯨号のほうへ顎をしゃくった。
「金の話じゃない。それを受ければ、お前らは、ギルドの仕事で北へ行くことになる」
俺は紙をもう一度見た。
そういうことか。
依頼票が一枚あるだけで、俺たちは、私事で消えた三人組ではなくなる。何かあったとき、ギルドが動く理由になる。逆に言えば、それがなければ、ギルドは何もできない。北へ向かった隊商が三つ消えても、依頼主が素性を明かさないかぎり、あの人は、指をくわえて見ているしかなかった。
この人はずっと、それが気に入らなかったのだ。ギルドは依頼主を詮索しない。その掟が、灰色の紋章にとっては、これ以上ないほど都合よく働いている。掟を破るわけにはいかないから、代わりに、別のところへ一枚の紙を差し込んだ。
安い報酬というのは、そういう意味だった。額を大きくすれば、理事会に見咎められる。銀貨で足りる仕事なら、誰も見ない。
「北の地図が、白紙だと言ったな」
「言った」
「埋めてこい。ついでに、生きて戻れ」
その言い方が、あまりにいつも通りだったので、俺は、少し笑ってしまった。
「請け負った」
紙を畳んで、懐に入れる。安い報酬の、期限のない依頼。だが、たぶんこれは、この人が出せる精一杯の後ろ盾だった。
支部長は帰りかけて、それから、ふと足を止めた。
視線が、鯨号のタラップにいるリルのほうへ、流れる。荷を抱え直しているあいつの首元で、鍵が一度だけ揺れた。
あの人の口が、わずかに開いた。
何か言いかけて、閉じた。
「なんだ」
「なんでもない」
「支部長」
「気をつけて行け。それだけだ」
言いかけたものが何だったのか、たぶん、俺には見当がついていた。昨夜、宿の卓に置かれた鍵。渦を巻いた線と、中心の星。あの人はそれを一度どこかで見て、以来ずっと、口を閉じている。
いま追いかけて問い詰めれば、答えるかもしれない。だが、この人が黙っているのには、たぶん、この人なりの理由がある。
背を向けて、あの人は、歩いていった
翌朝、俺たちは街を出た。
まだ日の低いうちだ。市場はもう半分ほど動きだしていて、荷を降ろす男たちの声が、あちこちで上がっている。鯨号を停留場から出して、大通りを城門のほうへゆっくりと進ませた。
通りは、いつも通りだった。
パン屋のおかみが、竈の前で額を拭いている。串焼きの親父は、まだ火を熾しているところだ。子どもが二人、俺たちの車体と並んで走って、途中で飽きて別の路地へ消えていった。誰も、俺たちが何をしに行くのかを知らない。
半月前も、そうだった。俺たちがサーレへ向かったとき、この通りは同じように動いていた。塔が村を薙ぎ払ったあの朝も、たぶんこの街では、いつも通りにパンが焼けていたのだろう。
それでいいのだと思った。
この人たちは、明日も豆を煮て、パンを焼いて、値切って、そして笑う。空の彼方の号令のことも、東の湖の底で灯りはじめた何かのことも、知らないままでいい。知らないままでいられるように、誰かが向こうへ行けばいい。
城門の手前で、リルが甲板から身を乗り出して、大きく手を振った。
誰に向けたわけでもない。だが、荷車を押していた老人が顔を上げて、片手を上げ返した。それを見た隣の店の女も手を振り、そのまた隣が振り、しまいには通りのあちこちから、ばらばらに手が上がった。
「なにこれ!」
リルが笑いながら、両手で振り返している。
半分は、たぶん何が起きたかわかっていない。ただ、誰かが手を振っているから、振り返した。そういう街だ。俺は少しだけ喉の奥が詰まって、それをごまかすために、まっすぐ正面を向いた。
城門を抜けると、街道が北へ伸びていた。
「クロウ、このまままっすぐ北?」
操舵室で、リルが訊いた。
「いや。先に西だ」
「え、西?」
「ヴェルダントへ寄る」
リルが目を丸くしたので、俺は理由を言った。
北の果てまでの道は、ボズの環が、指してくれる。だが、たどり着いた先で天の座の扉をどう開けるのか、それを俺たちは何ひとつ知らない。案内人は、在処だけは教えてくれたが、中身までは、寄越さなかった。
「エルフの里の礼に、禁書庫を開けてもらっただろう」
「あー!あの、根っこの下のやつ!」
「そうだ。旧文明の記録なら、この世界で指折りだと言ってた。天の座のことが、一行でも残ってるかもしれん」
俺は懐から方位の環を出して、そっと掌に載せた。針は、俺の手のなかでも同じ方角を向いたまま、細かく震えている。
「だが、扉の開け方を知らずに世界の果てまで行って、そこで立ち尽くすよりはましだ。三日で見つける。それで駄目なら、諦めて北へ行く」
「三日!?」
「読むのはノアだ」
「わたしですか」
初めて、ノアが少しだけ困った顔をした。リルが吹き出す。俺も笑った。
街道の両脇には、まだ夏の残りの草が、伸びていた。風が渡ると、それが一斉に、同じ方へ倒れる。行く手には低い丘が並んでいて、そのずっと向こうに、緑の帯がうっすらと見えた。
俺は環を握り直して、北を向いた針を、もう一度確かめた。
まずは西へ。それから、北の果てへ。
壊れた神さまに会いに行く旅の、これが本当の一歩目だった。




