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レリック・ワールド ~最強の遺跡探索者、銀髪の少女と メイドの自動人形と、終わった世界の謎を解く~  作者: トンエリア
第04編〈海域〉アビス

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第82話 渦巻きと星

 宿は、市場の裏手にある古い三階建てだった。

 部屋に荷を置くなり、リルは着替えを引っつかんで、飛び出していった。廊下を走る足音が、階段の下へ、遠ざかっていく。


「元気だな」


「半月ぶりですから」


 ノアは荷を解きながら、そう言った。買い込んだものを、ひとつずつ床に並べていく。乾し肉の包み、水の革袋、油紙にくるまれた蝋燭、手袋の束。ボズが見立てた外套は、思っていたより厚くて、持ち上げると、腕にずしりと来た。


「これ、着て歩けるのか」


「着ないほうが厳しいですから」


 言い返せなかった。

 外套の袖をめくると、内側に細い骨が仕込まれていた。指でなぞると、縫い目に沿って、硬いものが通っている。風を通さないための仕掛けらしい。ボズの見立ては、いつも見た目より仕事が丁寧だ。値の張るものを選ばずに、長くもつものを選ぶ。

 俺は窓を開けた。夜の街の音が、下から、一斉に上がってくる。酒場の笑い声。荷車の車輪。誰かの怒鳴り声と、それを囃す声。この街は、日が落ちてからのほうが、騒がしい。

 半月前、俺は、霧の高原にいた。眠り続ける村で、鈴の音だけが響いていた。あの静けさと、この騒がしさが、同じ世界の同じ月のうちにある。


「ご主人様。外板の職人は、明後日の朝に来るそうです」


「早いな」


「割り増しを払いました」


「払ったのか」


「時間を買いました。刻限は待ってくれませんので」


 その言い方に、俺は、少しだけ黙った。あいつは、俺よりずっと正確に、残りを数えている。


 夕食は、宿の一階の食堂でとった。

 卓は油で黒く光っていて、椅子は、座るとどれかが軋む。出てきたのは、煮込みとパンと、酸っぱい葡萄酒だ。

 煮込みの中身は、豆と、名前のわからない肉と、根菜の切れ端だった。塩がきつい。この街の安宿の飯というのは、たいてい塩で誤魔化してある。パンは前の日のもので、煮込みに浸さないと歯が立たない。

 旨いというほどではない。だが、半月ぶりに人の作ったものを食う。それだけで十分だった。

 湯から上がってきたリルが、髪を布で拭きながら、向かいに滑り込んできた。


「生き返ったー」


「大げさだな」


「だって、あの高原の水で体を拭いてたんだよ、ずっと。今日はもう、十回くらい入りたい」


 この宿の湯殿は、地下の石組みを湯が通っているのだという。何かの遺物を使っているとも、ただの温泉だとも聞くが、宿の主人は訊いても笑うだけで教えてくれない。どちらでも、湯が出るならかまわなかった。


「宿代が溶ける」


「一回でいい」


 リルはパンをちぎって、そのまま煮込みに突っ込んだ。この娘は、食っているときがいちばん幸せそうだ。

 ノアは向かいで、皿には手をつけずに、座っている。当たり前だ。あいつは食わない。だが、いつも同じ卓につく。それが習いになっていて、あいつのいない席というものを、俺はもう思い出せなかった。


「明日は何するの」


「支度の残りだ。動力の予備と、山越えの綱と、あとは地図の写し。ノアが一覧を作ってる」


「あたしの分は?」


「杖の火薬。ボズが手配してくれた」


「やった!」


「それと、鯨号の外板だ。明後日の朝に職人が来る」


「あー、あの焼けたとこ」


 リルが匙を持ったまま両手を上げたので、煮込みが、こちらへ跳ねた。俺はそれを袖で受けた。


「行儀」


「はーい」


 なんてことのない、ばかばかしいやり取りだ。だが、こういう時間のために俺たちは頑張っているのだと思うと、なんとなく、腹の底が、あたたかくなる。この街のどの卓でも、たぶん同じような話がされている。それを守るために北へ行くのだと、口に出したら、たぶん二人に笑われる。


 食い終わるころには、食堂の客も、まばらになっていた。

 リルが髪を拭き終えて、首から下げていたものを外した。

 鍵だ。

 古い、金属の鍵だ。長さは指二本ぶんほどで、先の歯はすり減っていて、もう何の錠にも合いそうにない。地の色は分厚い飴色で、いくら磨いても、それより明るくはならない。

 頭の部分に、細い彫りがある。渦を巻いた線と、その中心に置かれた、小さな星。

 リルは布でその鍵を拭いて、それから、灯りにかざした。旅のあいだも、湯に入るときも、あいつは、これを外さない。外すのは、こうして手入れをするときだけだ。


「それ、まだ何もわからないままか」


「うん」


 リルはあっさり頷いた。


「あたしが持ってた唯一のものなんだけどね。気がついたらこれ下げてて、それより前のことが、まるっきりない」


 一年ちょっと前。目が覚めたら、この街の外にいた。それより前の記憶はない。名前だけは自分のものだとわかっていて、あとは何ひとつ。

 どこで生まれたのかも、親の顔も、この鍵をくれたのが誰なのかも知らない。それでもこいつは、その日から一人で仕事を取って、飯を食って、この街に居場所をこしらえてきた。道々で名前を呼ばれるのは、その一年ぶんの積み重ねだ。

 初めて聞いたときも、こいつは、こんなふうにあっさり言った。深刻ぶらないのは強がりではなく、たぶん本当に、あまり深刻に思っていないのだ。今日が楽しければそれでいいという、こいつの生き方が、そのまま出ている。

 だが俺は、深刻に思っていた。

 この鍵の紋章を支部長が見たとき、あの人の耳が、ぴくりと動いた。よく似たものを昔一度だけ見た、とだけ言って、それ以上は口を割らなかった。表に出すな、とも言われた。俺はまだ、それをリルに伝えていない。

 伝えて、どうなる。

 わかっているのは、この紋章を見て顔色を変えた者が、少なくとも一人いるということだけだ。その一人が、口を閉じている。渡せるのは中身のない不安だけで、こいつはそれを、たぶん笑って受け取るだろう。そして夜になってから、一人で鍵を眺めるようになる。

 そう思って、先延ばしにしてきた。


「クロウ、なんか難しい顔してる」



「してない」


「してるって。ノアもそう思うでしょ」


「なさっていますね」


「ノアまでか」


 俺は葡萄酒の残りを、飲み干した。やはり、酸っぱい。

 言うなら、今かもしれない。北へ行けば、旧文明の遺したものに、いくらでもぶつかる。何が出てくるかわからない旅に、こいつを連れていくのだ。知らせずにおくのは、たぶんずるい。

 口を開きかけた。

 そのとき、ノアが、卓の上の鍵をじっと見ていることに、気づいた。


 いつもの半分だけの微笑みが、消えている。

 あいつがそういう顔をするのは、めったにない。夢の館で、自分の起源に触れたとき。それから、あの号令を初めて言葉として読み取ったとき。ほんの数えるほどだ。


「ノア?」


 ノアは答えなかった。灯りのなかで、鍵の頭の彫りを、見つめている。渦を巻いた線と、中心の星。

 リルが、自分の鍵とノアの顔を、交互に見比べた。


「え、なに。これ、なんかあるの」


「わたしは」


 ノアの声が、少しだけ低くなった。機械の声というのは揺れない。だから、こういうときにわかる。揺れないまま、いつもより一段低いところに落ちている。


「この意匠を、知っている気がします」


 卓の上が、しんとした。

 食堂の隅では、まだ誰かが、酒を飲んでいる。厨房で鍋の鳴る音がする。だが、その卓の三人分の空気だけが、ぴたりと止まっていた。


「どこで」


 俺が訊くと、ノアは首を横に振った。


「わかりません。思い出せるものが、ないのです。ただ、この形を見ていると、胸のあたりが」


 言葉を探すように、あいつは、自分の胸へ手をやった。


「懐かしい、というのに近いのだと思います。ですが、わたしには懐かしむべき記憶がありません。中身のない懐かしさというものが、こんなに落ち着かないものだとは、知りませんでした」


 リルが鍵を持ち上げて、ノアのほうへ、差し出した。


「持ってみる?」


 ノアはしばらくためらってから、手を伸ばした。指先で、そっと、受け取る。

 何も起こらなかった。

 鍵はただの古い鍵のままで、光りもしなければ、音も立てない。ノアは何度かそれを裏返して、やがて、リルの手へ、戻した。


「いいえ。やはり、わかりません」


 その声が、いつもより硬い。

 海の底から拾い上げたときから、こいつには、何もなかった。名前も、来し方も、誰に造られたのかも。あの夢の館で、その入り口にだけ触れた。人を見守るために造られた機械の一体だと。だが、そこから先は、空白のままだ。

 そのノアが、リルの鍵に覚えがあると言う。

 一年前より先のないリルと、一万年前より先の見えないノア。二人のあいだに、何か細い線が通っている。そう思った瞬間、背筋のあたりが、ぞわりと、粟立った。

 偶然にしては、俺たちは、揃いすぎている。


「クロウ」


 リルが鍵を握り直して、まっすぐ、俺を見た。さっきまでの軽さが、少しだけ引いている。


「あたし、北で何かわかると思う?」


 答えられなかった。

 わかってほしいのか、わからないままでいてほしいのか。自分でも、どちらとも決めかねていた。

 その夜、部屋に戻ってからも、俺はしばらく寝つけなかった。

 窓の外では、街の灯りがまだ半分ほど生きている。誰かが遠くで歌っていて、その節が途中で切れた。寝返りを打つたび、藁の詰まった寝床が音を立てる。

 支部長が言った、よく似たものを昔一度だけ見た、という言葉。

 あの人は、どこで見たのだろう。

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