第82話 渦巻きと星
宿は、市場の裏手にある古い三階建てだった。
部屋に荷を置くなり、リルは着替えを引っつかんで、飛び出していった。廊下を走る足音が、階段の下へ、遠ざかっていく。
「元気だな」
「半月ぶりですから」
ノアは荷を解きながら、そう言った。買い込んだものを、ひとつずつ床に並べていく。乾し肉の包み、水の革袋、油紙にくるまれた蝋燭、手袋の束。ボズが見立てた外套は、思っていたより厚くて、持ち上げると、腕にずしりと来た。
「これ、着て歩けるのか」
「着ないほうが厳しいですから」
言い返せなかった。
外套の袖をめくると、内側に細い骨が仕込まれていた。指でなぞると、縫い目に沿って、硬いものが通っている。風を通さないための仕掛けらしい。ボズの見立ては、いつも見た目より仕事が丁寧だ。値の張るものを選ばずに、長くもつものを選ぶ。
俺は窓を開けた。夜の街の音が、下から、一斉に上がってくる。酒場の笑い声。荷車の車輪。誰かの怒鳴り声と、それを囃す声。この街は、日が落ちてからのほうが、騒がしい。
半月前、俺は、霧の高原にいた。眠り続ける村で、鈴の音だけが響いていた。あの静けさと、この騒がしさが、同じ世界の同じ月のうちにある。
「ご主人様。外板の職人は、明後日の朝に来るそうです」
「早いな」
「割り増しを払いました」
「払ったのか」
「時間を買いました。刻限は待ってくれませんので」
その言い方に、俺は、少しだけ黙った。あいつは、俺よりずっと正確に、残りを数えている。
夕食は、宿の一階の食堂でとった。
卓は油で黒く光っていて、椅子は、座るとどれかが軋む。出てきたのは、煮込みとパンと、酸っぱい葡萄酒だ。
煮込みの中身は、豆と、名前のわからない肉と、根菜の切れ端だった。塩がきつい。この街の安宿の飯というのは、たいてい塩で誤魔化してある。パンは前の日のもので、煮込みに浸さないと歯が立たない。
旨いというほどではない。だが、半月ぶりに人の作ったものを食う。それだけで十分だった。
湯から上がってきたリルが、髪を布で拭きながら、向かいに滑り込んできた。
「生き返ったー」
「大げさだな」
「だって、あの高原の水で体を拭いてたんだよ、ずっと。今日はもう、十回くらい入りたい」
この宿の湯殿は、地下の石組みを湯が通っているのだという。何かの遺物を使っているとも、ただの温泉だとも聞くが、宿の主人は訊いても笑うだけで教えてくれない。どちらでも、湯が出るならかまわなかった。
「宿代が溶ける」
「一回でいい」
リルはパンをちぎって、そのまま煮込みに突っ込んだ。この娘は、食っているときがいちばん幸せそうだ。
ノアは向かいで、皿には手をつけずに、座っている。当たり前だ。あいつは食わない。だが、いつも同じ卓につく。それが習いになっていて、あいつのいない席というものを、俺はもう思い出せなかった。
「明日は何するの」
「支度の残りだ。動力の予備と、山越えの綱と、あとは地図の写し。ノアが一覧を作ってる」
「あたしの分は?」
「杖の火薬。ボズが手配してくれた」
「やった!」
「それと、鯨号の外板だ。明後日の朝に職人が来る」
「あー、あの焼けたとこ」
リルが匙を持ったまま両手を上げたので、煮込みが、こちらへ跳ねた。俺はそれを袖で受けた。
「行儀」
「はーい」
なんてことのない、ばかばかしいやり取りだ。だが、こういう時間のために俺たちは頑張っているのだと思うと、なんとなく、腹の底が、あたたかくなる。この街のどの卓でも、たぶん同じような話がされている。それを守るために北へ行くのだと、口に出したら、たぶん二人に笑われる。
食い終わるころには、食堂の客も、まばらになっていた。
リルが髪を拭き終えて、首から下げていたものを外した。
鍵だ。
古い、金属の鍵だ。長さは指二本ぶんほどで、先の歯はすり減っていて、もう何の錠にも合いそうにない。地の色は分厚い飴色で、いくら磨いても、それより明るくはならない。
頭の部分に、細い彫りがある。渦を巻いた線と、その中心に置かれた、小さな星。
リルは布でその鍵を拭いて、それから、灯りにかざした。旅のあいだも、湯に入るときも、あいつは、これを外さない。外すのは、こうして手入れをするときだけだ。
「それ、まだ何もわからないままか」
「うん」
リルはあっさり頷いた。
「あたしが持ってた唯一のものなんだけどね。気がついたらこれ下げてて、それより前のことが、まるっきりない」
一年ちょっと前。目が覚めたら、この街の外にいた。それより前の記憶はない。名前だけは自分のものだとわかっていて、あとは何ひとつ。
どこで生まれたのかも、親の顔も、この鍵をくれたのが誰なのかも知らない。それでもこいつは、その日から一人で仕事を取って、飯を食って、この街に居場所をこしらえてきた。道々で名前を呼ばれるのは、その一年ぶんの積み重ねだ。
初めて聞いたときも、こいつは、こんなふうにあっさり言った。深刻ぶらないのは強がりではなく、たぶん本当に、あまり深刻に思っていないのだ。今日が楽しければそれでいいという、こいつの生き方が、そのまま出ている。
だが俺は、深刻に思っていた。
この鍵の紋章を支部長が見たとき、あの人の耳が、ぴくりと動いた。よく似たものを昔一度だけ見た、とだけ言って、それ以上は口を割らなかった。表に出すな、とも言われた。俺はまだ、それをリルに伝えていない。
伝えて、どうなる。
わかっているのは、この紋章を見て顔色を変えた者が、少なくとも一人いるということだけだ。その一人が、口を閉じている。渡せるのは中身のない不安だけで、こいつはそれを、たぶん笑って受け取るだろう。そして夜になってから、一人で鍵を眺めるようになる。
そう思って、先延ばしにしてきた。
「クロウ、なんか難しい顔してる」
「してない」
「してるって。ノアもそう思うでしょ」
「なさっていますね」
「ノアまでか」
俺は葡萄酒の残りを、飲み干した。やはり、酸っぱい。
言うなら、今かもしれない。北へ行けば、旧文明の遺したものに、いくらでもぶつかる。何が出てくるかわからない旅に、こいつを連れていくのだ。知らせずにおくのは、たぶんずるい。
口を開きかけた。
そのとき、ノアが、卓の上の鍵をじっと見ていることに、気づいた。
いつもの半分だけの微笑みが、消えている。
あいつがそういう顔をするのは、めったにない。夢の館で、自分の起源に触れたとき。それから、あの号令を初めて言葉として読み取ったとき。ほんの数えるほどだ。
「ノア?」
ノアは答えなかった。灯りのなかで、鍵の頭の彫りを、見つめている。渦を巻いた線と、中心の星。
リルが、自分の鍵とノアの顔を、交互に見比べた。
「え、なに。これ、なんかあるの」
「わたしは」
ノアの声が、少しだけ低くなった。機械の声というのは揺れない。だから、こういうときにわかる。揺れないまま、いつもより一段低いところに落ちている。
「この意匠を、知っている気がします」
卓の上が、しんとした。
食堂の隅では、まだ誰かが、酒を飲んでいる。厨房で鍋の鳴る音がする。だが、その卓の三人分の空気だけが、ぴたりと止まっていた。
「どこで」
俺が訊くと、ノアは首を横に振った。
「わかりません。思い出せるものが、ないのです。ただ、この形を見ていると、胸のあたりが」
言葉を探すように、あいつは、自分の胸へ手をやった。
「懐かしい、というのに近いのだと思います。ですが、わたしには懐かしむべき記憶がありません。中身のない懐かしさというものが、こんなに落ち着かないものだとは、知りませんでした」
リルが鍵を持ち上げて、ノアのほうへ、差し出した。
「持ってみる?」
ノアはしばらくためらってから、手を伸ばした。指先で、そっと、受け取る。
何も起こらなかった。
鍵はただの古い鍵のままで、光りもしなければ、音も立てない。ノアは何度かそれを裏返して、やがて、リルの手へ、戻した。
「いいえ。やはり、わかりません」
その声が、いつもより硬い。
海の底から拾い上げたときから、こいつには、何もなかった。名前も、来し方も、誰に造られたのかも。あの夢の館で、その入り口にだけ触れた。人を見守るために造られた機械の一体だと。だが、そこから先は、空白のままだ。
そのノアが、リルの鍵に覚えがあると言う。
一年前より先のないリルと、一万年前より先の見えないノア。二人のあいだに、何か細い線が通っている。そう思った瞬間、背筋のあたりが、ぞわりと、粟立った。
偶然にしては、俺たちは、揃いすぎている。
「クロウ」
リルが鍵を握り直して、まっすぐ、俺を見た。さっきまでの軽さが、少しだけ引いている。
「あたし、北で何かわかると思う?」
答えられなかった。
わかってほしいのか、わからないままでいてほしいのか。自分でも、どちらとも決めかねていた。
その夜、部屋に戻ってからも、俺はしばらく寝つけなかった。
窓の外では、街の灯りがまだ半分ほど生きている。誰かが遠くで歌っていて、その節が途中で切れた。寝返りを打つたび、藁の詰まった寝床が音を立てる。
支部長が言った、よく似たものを昔一度だけ見た、という言葉。
あの人は、どこで見たのだろう。




