第88話 上客
館に、朝は来ない。
通りは、昨日と寸分違わなかった。
前掛けの女が、鍋をかき混ぜている。子どもが、同じ角度で走っていく。一日ぶん、進んでいない。夕方には市が立つと女は言ったが、その夕方は、たぶん昨日も来なかった。
「気持ち悪いね」
リルが、小さく言った。杖を抱えて、住人のほうを見ないように歩いている。あいつは昨日、何人かに話しかけていた。返事はいつも決まっていて、三度目でやめた。
「クロウ。道は、わかるのか」
ヴェルナが、後ろから訊いてきた。
「わかる」
わかる、というのが、うまく説明できない。
俺の頭のなかには、館の図がある。この通りをまっすぐ行って、二度折れる。そう思うと、身体のほうが先に、曲がる場所を知っている。生まれた村の道を歩くときと、同じだ。
「ご主人様。その図を、紙に描いていただけますか」
ノアが言った。俺は足を止めて、少し考えてから、首を振った。
「描けん」
「描けませんか」
「道はわかる。だが、上から見た形が出てこない。目をつぶって歩けと言われたらできる。書けと言われると、何も出てこない」
ノアは短く黙って、それから、頷いた。
「知識ではなく、道順を渡されたのですね」
「そういうことになるな」
うまいことを言う。俺が受け取ったのは、地図ではない。地図を見た男の記憶だ。だから俺には使えるが、他人へは、渡せない。渡せないものを、俺は一人で抱えている。
あの機械は、そういうところが抜け目ない。
通りは、途中から、様子が変わった。
石畳は続いている。家も、並んでいる。だが、窓が暗い。
灯りのついていない家が、五軒、十軒と続いた。物干しには布が掛かっているのに、それが揺れていない。昨日見た布は、たしかに揺れていた。同じ館のなかで、こちらの一角だけが止まっている。
人も、いなかった。
「ノア」
「はい。ここは、空です」
あいつは家の壁に手を当てて、しばらく動かなかった。
「昨日の通りは、動いているものの上を歩いていました。ここは、違います。中身の抜けた入れ物が、並んでいるだけです」
俺は暗い窓のひとつを、覗いてみた。
中には、卓と椅子があった。皿が二枚と、匙が二本。誰かが飯の支度をして、そのまま置いていったように見える。
「引っ越したのか」
「人格が取り出されると、こうなるのかもしれません」
取り出す。売る、ではなく。
俺は自分の懐を、無意識に、押さえていた。抜かれたのは俺の側だ。だがこうして空の家を見ていると、抜かれるというのがどういうことなのか、少しわかる気がした。家は残る。皿も残る。中にいたやつだけが、いない。
リルが、俺の外套の裾を掴んだ。
「ねえ。この人たち、どこ行ったの」
「わからん」
「記録官に訊いたら教えてくれる?」
「教えるだろうな。値段をつけて」
言ってから、口が悪かったと思った。だが、訂正はしなかった。あれは、そういう機械だ。
ヴェルナが、そこで足を止めた。
鼻の頭に皺を寄せて、顎を上げている。犬が、やるのと同じ動きだった。
「匂う」
「なんだと」
「人だ。生きてるやつの匂いだ」
俺は、通りを見回した。住人なら、そこらじゅうを歩いている。
「いくらでも歩いてるだろう」
「あれは匂わん。昨日から一度もだ」
ヴェルナは短く言って、大鎌を担ぎ直した。
「そっちだ。汗と、脂と、煮炊きの匂いがする。二十人はいるぞ」
言われて、俺の背中が、じわりと粟立った。
この館へ入ってから、俺たちは何も感じていない。湯気の立つ鍋からも、店先の肉からも、人の群れからもだ。
この館のなかで匂うものは、外から持ち込まれたものだけだ。
広場は、街区を二つ抜けた先にあった。
石造りの井戸を囲んで、四角い空き地が広がっている。市が立つなら、ここだろう。だが、そこに立っていたのは市ではなかった。
天幕だ。
灰色の布を張った天幕が、六つ。荷車が三台。天幕のあいだには縄が渡されて、洗った布が干してあった。長く居ついた者の張り方だった。
そして、人がいた。
地面に直接、腰を下ろしている。二十人ばかりだ。皆、薄い上っ張りに、荷運びの靴。手も顔も汚れていて、爪の中が黒い。港でも、鉱山でも、街の裏通りでも見る顔だった。日銭で暮らす連中の、あの顔だ。
彼らは、匂った。汗と、垢と、飯の匂い。館へ入ってから初めて嗅ぐ、まともな人の匂いだった。それがこんなにありがたいものだとは、思わなかった。
「おい」
俺は、近くの男に声をかけた。四十がらみの、肩の厚い男だ。
男は顔を上げて、俺を見た。目は濁っていない。ちゃんと、生きている目だった。
「よそ者か。珍しいな」
「南から来た。あんたらは」
「雇われだ」
男は井戸のほうへ、顎をしゃくった。
「二番目の組でな。もう二月、ここにいる」
「何をしに来てる」
「座ってるだけだ」
「順番が来たら、あの機械の前に立つ。しばらく突っ立ってると、終わったと言われる。それで、また座る。日当は街の三倍だ」
「痛みは」
「ねえよ。何にも起きねえ」
俺は、そこで黙った。
何も起きない。俺も昨日、そう思った。何も起きなかったから、拍子抜けさえした。そして今朝、母の台所の匂いが、俺のなかから消えている。
「あんた、名前は」
訊いてみた。男は、少し考えた。
「シェルド、だったと思う」
「思う、か」
「札に書いてある。財団の腕章に、番号と一緒にな。それを見れば思い出す」
男は袖をめくって、腕に巻いた布を見せた。灰色の布に、円と、鍵と、歯車。その下に、名前と数字が刺してある。
「四度目のときに飛んだんだ。字が読めるやつに読んでもらって、ああそうだった、と」
「四度も前に立ったのか」
「六度だ。まだ足りんと言われてる」
俺は、返す言葉を持たなかった。
この男を、馬鹿だとは思わない。俺だってヴェルクにいたころ、もっと安い値で、もっと危ないことをやった。三倍の日当というのは、そういう人間の前に置かれると、理屈より重い。
「ここにいるのは、二十人ばかりだな」
「入れ替わる。済んだ組から、南へ帰るんだ」
「帰ったやつを、見たか」
男は、少し黙った。
「見送っちゃいねえな。夜のうちに発つらしい」
この館に、夜はない。
言いかけて、俺は口を閉じた。ヴェルナの声が、頭の隅で鳴っていた。三月で四度。戻ってきたのは、一度も見ていない。
「お困りでしょうか」
声は、天幕の向こうから、来た。
男が一人、こちらへ歩いてくる。
背が高い。痩せている。灰色の外套を、袖に通さず、肩へ引っかけていて、下に着ているものの仕立てが良かった。髭は、きれいに当たっている。歳は、俺と同じか、少し上か。
目についたのは、手だった。
荒れていない。爪も、割れていない。山を越えてきた人間の手では、なかった。この男は、運ばれてきたのだ。
「オルダーグレイ財団、北方調査部。クレイスと申します」
男は胸に手を当てて、軽く、頭を下げた。
「その装備を拝見するに、探索者の方々でしょうか」
「クロウだ。北の塔を探してる」
「天の座を」
即座に、返ってきた。俺は、表情を動かさないようにした。
「知ってるのか」
「ええ。当財団が、この十年ほど追っているものです」
クレイスは、なんでもないことのように言った。俺はそれを、余裕だと受け取った。
「この連中は、あんたらのか」
「そのとおりですが」
「何をさせてる」
「支払いを」
クレイスは天幕を振り向いて、それから、俺へ向き直った。
「当館の作法はご存じでしょう。記録ひとつにつき、記憶ひとつ。ですが記憶というものは、一人がいくつも出せるものではありません。抜かれた者は、しばらく使いものにならない」
「だから、頭数を集めたのか」
「そういうことです」
「他人の記憶で、あんたが買い物をしてるわけだ」
「彼らのものを、彼らの同意を得て、買っております」
クレイスが懐から、折り畳んだ紙束を出した。びっしりと文字が並び、下のほうに、拇印がいくつも押してあった。
「相場の三倍を、前払いで。それを当館へお渡ししている。誰も騙してはおりません」
「あの男は、自分の名前を札で確かめてたぞ」
「本人が承知のうえです」
クレイスの声は、少しも荒れなかった。
「わたくしは、彼らに選ばせています。二月歩いて三倍を取るか、街で普通に働くか。彼らは前者を選んだ。それを止める権利は、わたくしにはありません」
理屈は、通っていた。
通っているから、腹の底が重くなった。
「お客様。おそろいでございますね」
いつのまにか、記録官が立っていた。
痩せた男の顔のまま、両手を前で組んでいる。この機械は、足音を立てずに、現れる。
「取引をやめさせろ」
俺は、言った。
「あれは、まともなやり方じゃない」
「まともではない、と申されますと」
「自分の記憶を出すのと、他人のを買い集めて出すのとは、別の話だ」
記録官は、少しだけ首を傾げた。
まばたきをしない目が、俺を見ている。ただ、言われた言葉の意味を、丁寧に確かめている顔だった。
「当館の作法は、記録ひとつにつき記憶ひとつ、でございます」
「ああ」
「どなたの記憶か、とは、定めておりません」
俺は、そこで言葉に詰まった。
定めていない。定める理由が、この機械にはなかったのだ。一万年前、ここへ来る客は皆、自分のことを話しに来たのだろう。他人を連れてきて並ばせる客が現れるとは、これを作った連中も考えなかったに違いない。
穴の開いた決まりごとほど、律儀な機械の手のなかでは、恐ろしいものになる。
「それに、お客様」
記録官は、ごく穏やかに続けた。
「当館は、多く納めていただいた方から順にお答えしております。これは、公平のための決まりでございます」
「順に、だと」
「はい。三月のあいだに、こちらの皆様からお預かりした記憶は、四百七十六」
俺は、その数字を頭のなかへ置いた。
四百七十六。
「お客様は、一つでございます」
天幕のほうで、誰かが咳をした。井戸の滑車が、ぎいと鳴る。
クレイスが、静かに笑った。嫌な笑い方では、なかった。それがいちばん、たちが悪い。
「そういうわけです、クロウさん」
男は外套の肩を直して、こちらへ一歩、近づいた。
「それで、あなたがたは、いくつお持ちですか」




