第79話 旅立ちの朝
塔が崩れてから、二日が過ぎた。
霧の高原に、すっかり朝の光が戻っていた。だが、その光が照らし出したのは、無残に変わり果てた村の姿だった。塔を貫いたあの光の柱は、中枢の球体だけでなく、その足元にあった村までも、まとめて薙ぎ払っていたのだ。あちこちで家々が屋根を落として崩れ、耕したばかりの畑は、黒く焼け焦げている。二日前まで、整っていた村とは、似ても似つかない、瓦礫の原だった。
それでも、そこには、生きた人の声があった。案内人が、その身と引き換えに、外へ逃がした村人たちだ。誰ひとり、命までは落とさなかった。焼け跡から、まだ使える材木を掘り起こす者。壊れた家財を、身を寄せ合って運び出す者。失ったものは、あまりに大きい。それでも、彼らはちゃんと目を覚まして、この痛い現実の朝を、自分の足で踏みしめていた。
塔のあった場所には、えぐれた大地と、崩れた瓦礫が、小さな丘のように残っていた。だが、もうそこから、あの禍々しい声が響くことはない。村人たちは時おり、その跡地に手を止めて、静かに祈りを捧げていた。自分たちを、長すぎる夢に閉じ込めた機械。だが、最後には自分たちを現実へ還し、その身を挺して逃がしてくれた機械でもある。誰に言われるでもなく、あの案内人を悼むその姿は、俺の胸に、じんとあたたかいものを残した。
あの機械は、たしかに道を誤った。優しさのつもりで、村ひとつを生きたまま夢に沈めた。それでも、最後には住人を本当の家へ還し、そのために、自らの身を捧げた。憎むにはあまりにも哀れで、忘れるにはあまりにも大きな存在だった。せめて、この村の人々の記憶のなかで、あいつが穏やかに眠れるといい。しばらくのあいだ、俺は黙って、崩れた瓦礫を見つめていた。
俺たちが村を発つ朝、ロレインたち一家が、見送りに来てくれた。
ユナは、まだ頬がこけて、足元もおぼつかない。だがその顔には、確かな血の気が戻っていた。
ひと月ものあいだ、夢のなかで亡き夫と過ごしてきた女だ。目覚めた朝の心境は、俺にはとても想像がつかない。愛した相手と、もう一度だけ引き裂かれて、それでも生きている子どもたちの手を選んだ。その覚悟の重さを思うと、軽々しい言葉は、かけられなかった。娘と息子に両側から支えられて、それでもしっかりと自分の足で立っている。
「あなたたちには、どれだけ礼を言っても、足りないわ」
ユナは深々と頭を下げた。
「あたしも、村のみんなも。あなたたちがいなかったら、あのまま夢のなかで朽ちていくところだった。ほんとうに、ありがとう」
「礼なら、あんたの娘に言ってくれ」
俺はそう言って、ロレインのほうを見た。
「この子が、たった一人で村を守り続けてたんだ。眠らずに、鈴を鳴らして。あんたたちを、一人も死なせないように。俺たちは最後に、少し手を貸しただけさ」
本心だった。夢のなかで案内人を止めたのは、確かに俺とノアだ。だが、その俺たちを外の世界に繋ぎとめていたのは、ほかでもないこの村の起きている者たちだった。栄養剤を配り、眠り手を運び、鈴を鳴らし続けた、ロレインたち。あの地道な支えがなければ、俺の体は、とっくに夢に呑まれていた。誰か一人でも欠けていたら、この結末は、なかったのだ。
ロレインの顔が、ぱっと赤くなった。ずっと気丈だったこの少女も、こういうことにはまるで慣れていないらしい。その様子が、なんだか無性に微笑ましく思えた。
足元では、ミオが、ノアの手をぎゅっと握って離さずにいた。夢のなかで母を呼び戻す手伝いをしてくれたノアに、すっかり懐いてしまったらしい。
「ねえ、ノアお姉ちゃん。もう、行っちゃうの?」
ノアはその場にそっと膝をついた。ミオと、目線を合わせて。
「はい。わたしたちには、行かなければならない場所があるのです」
「……また、来る?」
ノアは少しだけ言葉に詰まった。この旅の先に、無事に帰ってこられる保証などどこにもない。それを、あいつは誰よりもわかっている。だが、ノアはあの半分だけの微笑みを浮かべて、静かに頷いてみせた。
「ええ、きっと。あなたが、もっと大きくなった頃に」
その約束が果たせるものかどうかは、わからない。だがミオはぱっと顔を輝かせて、こくんと頷いた。子どもというのは、こういう時、大人よりずっとまっすぐ言葉を信じる。その信頼が、かえって俺たちの背を、そっと押してくれる気がした。必ず戻る。そう思わせてくれる、小さな灯りのように。
出立の間際、ロレインが、俺に小さな包みを差し出した。
「これ、持っていって。家は焼けちゃったけど、これだけは、逃げるときにとっさに抱えて出たの。うちに代々伝わる、古い地図の写しなんだ」
開いてみると、色褪せた羊皮紙に、この高原のずっと北の一帯が描かれていた。険しい山脈の、そのさらに奥。地図の果てに、ぽつんと奇妙な印が記されている。塔でも、村でもない。天へ向かって伸びる、細い塔のような何かの絵だった。
「夢守の一族には、昔から言い伝えがあってね。北の果てに、天と地を繋ぐ古い塔があるって。ご先祖様が、いつか、そこからすべての夢の声が降ってくる、って書き残してるの」
俺は思わず、ノアと顔を見合わせた。
天と地を繋ぐ、塔。案内人が遺していった、あの“天の座”と同じものに違いなかった。偶然にしては、できすぎていた。いや、あるいは、これも案内人の最後の采配だったのかもしれない。ノアに記憶の欠片を託し、そしてこの村に、行き先を指し示す地図をそっと残しておく。まるで、俺たちの旅をあと押しするように。考えすぎだろうか。だが、そう思いたくなるくらい、その符合は、俺の胸に静かに響いた。探す当てもなかった行き先が、この少女の手から、はっきりとした形になって、俺たちのもとへ転がり込んできたのだ。
「助かる。ちょうど、そこを探してたところだったんだ」
俺が礼を言うと、ロレインは少しだけ得意げに笑った。それから、ふと真顔になって、俺の袖をそっと掴んだ。
「ねえ。あなたたちが行くの、危ない場所なんでしょう。……無理は、しないで。ちゃんと、生きて帰ってね」
胸の奥が、きゅっと締めつけられた。この子は、これまで、誰かに守られる側ではなかったのだ。母も弟も村も、たった一人で守り続けてきた。それが、こうして、当たり前の子どもの顔で他人の身を案じている。夢守の重荷をようやく下ろせたのだと思うと、それだけで、この村へ来た甲斐があった気がした。
その言葉に、俺は思わず頭を撫でてやりたくなった。ついこの間まで、たった一人で村じゅうの命を背負っていた子どもが。いまは、こうして俺たちの身を案じてくれている。
村を出て、高原の道をしばらく下る。
振り返ると、瓦礫の残る村の外れで、ロレインたちがいつまでも手を振っているのが見えた。ミオが飛び跳ねながら大きく腕を振っている。俺も片手を上げて、それに応えた。
もう二度と、会うことはないかもしれない。旅とは、いつも、そういうものだった。見知らぬ土地で誰かと出会い、少しだけ心を通わせて、そして別れていく。それでも、この村のことは、きっと忘れないだろう。眠らない村で、鈴を鳴らし続けた、あの気丈な少女のことは。
やがて、丘の陰に鯨号のあの見慣れた影が見えてくると、リルがうんと伸びをした。
「はー、やっと帰れる!あたし、もうしばらく村はいいや。つられて眠くなりそうでさ」
その軽口に、張りつめていたものが少しだけほどけた。俺は笑って、鯨号のタラップを上っていく。
久しぶりに踏む鯨号の甲板は、どこか懐かしかった。硬い金属の感触も、かすかに響く機関の唸りも、俺たちのもう一つの帰る場所だ。リルが慣れた足取りで、操舵室へと駆けていく。その背中を見送りながら、俺は大きく息を吸い込んだ。さあ、次だ。北の果ての、天の座へ。
甲板から、北の空を見上げた。分厚い雲の、そのはるか向こう。あの空の彼方に、世界じゅうの機械を束ねる、途方もない留守番が、いまも壊れた命令を律儀に守り続けている。次の刻限を告げる、あの号令は、いまもかすかに鳴りやまない。
容易な道でないことは、わかっていた。だが行き先は決まった。北の果ての、天の座。あの禁書庫にも、何か手がかりが眠っているかもしれない。旧文明の遺物について、この世界でも指折りの記録を蔵しているという。ヴェルダントで結んだ、同盟が、こんなに早く生きてくるとは思わなかった。天の座のこと。号令のこと。あの空の彼方に君臨する、巨大な留守番のこと。手がかりは、多いに越したことはない。まずは、あの森の同盟者たちを頼って、あの塔の正体をもう少し探ってみるのもいいだろう。
隣に立ったノアが、俺と同じように北の空を見上げていた。
夢の館で、あいつは、自分の出自の入り口に触れた。人を見守るために造られた、管理者。案内人と、同じもの。だが、その先に、いったい何があるのか。ノアが、どこから来て、誰に置いていかれたのか。その本当の答えは、きっと、あの空の彼方で俺たちを待っている。
だが焦って答えを暴くつもりは、なかった。ノアが、自分から話したくなるまで、待てばいい。あいつが何者であろうと、旧文明の造った機械であろうと、そんなことはどうでもよかった。俺にとってノアは、海の底から拾い上げた、かけがえのない相棒だ。それは、この先、何がわかっても、決して変わらない。
「行くか、ノア」
俺が声をかけると、ノアはこちらを向いて、いつもの半分だけの微笑みを浮かべた。
「はい、ご主人様。どこまでも、お供します」
俺たちの、新しい旅が始まる。あの空の彼方の、壊れた神さまに会いに行くための旅が。
まだ見ぬ、北の空へ。鯨号は、朝の光のなかを、まっすぐに進みはじめた。




