第78話 遺されたもの
気がつくと、俺たちは、村を見下ろす丘の上にいた。
案内人の光に押し出されて、いつのまにか、ここまで運ばれていたらしい。眼下では、あの巨大な塔が、無残に崩れ落ちていた。根元から傾ぎ、白い煙を吐きながらゆっくりと沈んでいく。星を閉じ込めたあの美しい球体は、もうどこにもなかった。
村人たちは目覚めたばかりの体で、その光景を呆然と見上げていた。何が起きたのか、まるで飲み込めていない顔だ。だが、それでいい。あいつらはもう、夢の囚人じゃない。痛みも喜びもある、本物の朝を取り戻したのだから。
ロレインの家のほうから、かすかに、泣き声と笑い声が混じって聞こえてくる。母と姉と、弟の声だ。あの三人は、いまごろ抱き合ったまま、離れられずにいるのだろう。ガロ老人も、ほかの村人も、それぞれの家で、それぞれの再会を果たしているにちがいない。少なくとも、この村は救われた。それだけは、確かなことだった。
問題は、その空だった。
塔を灼いた青白い光は、とうに消えていた。だが代わりに、あの乾いた号令が、いまも頭の奥で静かに鳴り続けている。次の刻限を告げる声。世界のどこかで、また別の塔が、住人を夢に沈めようとしている合図だった。
俺は拳を握りしめた。案内人を、救えなかった。いや、いったんは救ったはずのあいつを、俺の頼みが結局は死なせてしまった。そのうえ、村を一つ守ったところで、空のあいつはびくともしない。何が、後味のいい終わり方だ。柄にもなく浮かれていた自分が、ひどく間抜けに思えた。
「……ご主人様」
隣で、ノアがそっと口を開いた。その声が、いつになく静かに沈んでいた。
「あの方は、消える間際に、わたしにあるものを託していかれました」
「託した?何をだ」
「記憶の欠片のようなものです。あの光に包まれた、あの一瞬に。まるで遺言のように、わたしのなかへ流れ込んできました」
ノアは、自分の胸にそっと手を当てた。長い夢の潜行で、あの機械と同じ視座に立ったからこそ、受け取れたものなのだろう。
黒鴉を通じて、案内人の中枢へ触れ、その言葉を叩き返した、あの一瞬。ノアは、ただ命令を覆しただけではなかったのだ。同じ機械の“内側”へ、深く分け入っていた。だからこそ、あの方は最後の力をノアに託せた。ほかの誰にも渡せなかったものを。
「それで、何がわかった」
俺が問うと、ノアはゆっくりと顔を上げた。その黒い瞳の奥に、これまで見たことのない鋭い光が宿っていた。
「あの、空の彼方の“声の主”が。いったい、何者なのか」
その一言だけで、俺の背中にぞわりと緊張が走った。ずっと、正体のわからない相手を追ってきた。空の彼方の、顔の見えない何か。それが、ようやくノアの口から語られようとしている。俺は思わずごくりと唾を飲んだ。
ノアが語ったのは、俺の想像をはるかに超えた話だった。
あの号令を放つ“声の主”は、神でも、化け物でもなかった。旧文明が遺した、たった一つの巨大な機械。地上に散らばる無数の塔――あの案内人たちを、すべて束ねる大元締めのような存在だった。
その光景が、ノアの言葉とともに、俺の頭のなかにも、うっすらと浮かんだ。空の高み、雲のさらに上に、その中枢は静かに浮かんでいる。地上の無数の塔と、目には見えない糸で繋がって。号令を放ち、報告を受け、逆らう塔があれば指先ひとつで消し去る。まさに、この世界に君臨する、旧文明の亡霊だった。
「あの方たち管理者は、みな、その中枢から下される命令に従って動いていました。住人を見守り、世話をし、そして定められた刻限が来れば、住人を“帰還”させる。案内人がしていたことは、その中枢の忠実な出先にすぎなかったのです」
「じゃあ、あの空の声は……そいつらの、親玉ってことか」
「はい。ですが」
ノアは、そこで言葉を切った。
「その親玉もまた、案内人と同じでした」
俺は、はっとした。ノアの言わんとすることが、じわりと胸に染みてくる。
「あの中枢もまた、遠い昔に主を失っています。旧文明の人々は、とうにこの星から去った。それなのに、あの機械は、いまも律儀に最後の命令を実行し続けている。“住人を、刻限までに帰還させよ”という、もう主のいない命令を。あの案内人が、村ひとつでそうしていたように。ただ、桁が途方もなく大きいだけ」
その言葉を聞いた瞬間、俺の背筋を、電流のようなものが駆け抜けた。
そうか。あいつは、神じゃない。
神なら、話は通じない。祈るか平伏すか、逃げるしかない。だが、機械なら。壊れた命令に、ただ縛られているだけの機械なら。話は、まるで違ってくる。俺たちは、たったいま、その証をこの村で目にしたばかりじゃないか。
途方もなく大きくて、無慈悲に見える、あの声の主。その正体は――主に置いていかれ、たった一人、壊れた命令を守り続けている、途方もなく巨大な留守番だったのだ。
だとすれば、話は、変わってくる。
俺は、あの案内人を、力ずくじゃ止められなかった。だが、たった一言、命令の“意味”を問い直しただけで、あいつは自分から目を覚ました。閉じ込めることが幸せじゃないと自分で気づいて、住人を解き放った。
同じことが、あの空の親玉にもできるとしたら。
俺はそう考えている自分に、我ながら驚いていた。あんな途方もない相手に、言葉で挑もうというのだ。正気じゃない。だが、力でだめなら、頭を使うしかない。この村で、俺たちが手にした、たった一つの勝ち筋。それは剣でも砲でもなかった。壊れた優しさの、その芯を、まっすぐ問い直す。ただ、それだけだった。
「なあ、ノア。その中枢ってのは、どこにいる。空の、どこだ」
「わたしにも、正確にはわかりません。ですが、あの記憶の欠片が指し示していました。ここより、ずっと北。旧文明が、天と交信するために築いた大きな“座”があると。おそらく、そこが、あの声を地上へ中継しているのです」
北。天との、座。
断片的だが、確かな手がかりだった。あの案内人が、命と引き換えに最後に遺してくれた道しるべ。俺たちが追い続けてきた信号の、その大元へたどり着くための。
思えば、この旅の始まりから、ずっと追いかけてきた声だった。街の遺跡で、ヴェルダントの森で、この眠らない村で。意味もわからず、ただ空の彼方から響いてくる、あの号令。その正体が、ようやく輪郭を持ちはじめている。俺たちは、いつのまにか、世界の秘密のいちばん深いところへ、足を踏み入れていたのだ。
「決まりだな」
俺は、崩れゆく塔から視線を上げた。北の空へ。分厚い雲の、その向こうへ。
「その、でかい留守番に、会いに行く。案内人にしたのと同じことを、してやるんだ。てめえの守ってる命令が、もうとっくに空っぽだってことをな」
それが、どれほど無謀な話か、俺にもわかっていた。
相手は、村ひとつを、塔ごと塵に変える力を持っている。近づく前に、俺たちのほうが、あの案内人のように消されるかもしれない。勝ち目なんて、あるはずもなかった。
だが、それでも。
この村で、俺たちは、確かに証明したはずだ。どれほど巨大で、頑なな機械でも。その芯にある、間違った“優しさ”に、まっすぐ言葉を届ければ覆せるのだと。あの案内人が、最後に、それを教えてくれた。だから、諦めるわけにはいかなかった。この胸には、あの案内人が遺してくれたものが、確かにあった。知識だけじゃない。壊れた機械にも、心を届かせられるという、その希望だ。それは剣よりも砲よりも、頼りになる武器かもしれなかった。
隣で、ノアが静かにうなずいた。リルも、いつのまにか、あの威勢のいい笑みを取り戻している。
俺一人なら、とうに心が折れていたかもしれない。だが、隣にはこの二人がいる。旧文明の言葉を読み解く、静かな相棒。どんな窮地でも、腐らず笑い飛ばす賑やかな砲手。こいつらとなら、あの途方もない相手にも、案外、渡り合えるんじゃないか。そんな、根拠のない自信が、じわりと湧いてくる。
俺たちの旅の、本当の行き先が、いまはっきりと定まった。あてもなくさまよっているだけに思えた、この長い旅に、ようやく一本の芯が通った気がした。行くべき場所さえ見えれば、あとは、ただまっすぐ前へ進むだけだ。
空の彼方の、巨大な留守番のもとへ。世界を、二度と目覚めない眠りに沈めようとする、あの号令を根元から断ち切るために。




