第76話 帰る場所
目覚めかけていた村が、みるみる、もとの眠りへと引き戻されていく。
せっかく現実へ帰ろうとしていた者たちが、抗う間もなく、また甘い夢の底へと沈んでいった。空からの号令が、案内人を通じて、この村を根こそぎ塗り込めなおしているのだ。目の前で、たったいま自分の足で立ち上がろうとしていた村人たちが、また力なく崩れ落ちていく。あと少しだったのだ。あと少しで、この長い夜は明けるはずだったのに。
その中心で、案内人の球体が、意志を失った機械のようにただ光を撒き散らしていた。ついさっきまで俺の言葉を受け入れて、静かに眠りにつこうとしていた、あの声の主が。いまや、天からの命令に操られるだけの、ただの装置に成り下がっている。
「くそっ、また振り出しかよ!」
俺は思わず悪態をついた。せっかく開きかけた突破口が、目の前で、無情に塞がっていく。ノアの糸を握る手のひらに、じっとりと汗が滲んだ。ここまで来て、この村をみすみす永遠の眠りに明け渡すなんて、まっぴらごめんだった。だが、相手は天から降る号令だ。殴ることも、掴むことも、できやしない。
この村へ来て、いくつもの壁にぶつかってきた。眠り続ける村人たち。夢に沈んだユナもいた。夢の底では、俺自身が溶かされかけた。だが、そのどれとも今度のやつは違った。相手は、もうこの塔の機械ですらない。空の、さらに向こう。俺たちの手がまるで届かない場所から、この村を押し潰しにかかっている。それでも、諦めるわけにはいかなかった。
――ご主人様。ひとつ、気づいたことがございます。
張りつめた沈黙のなかで、ノアの声が、静かに響いた。
――この号令は、地上のすべての管理者に向けて、放たれています。ということは、このわたしにも、確かに届いているのです。あなたと旅をしてきた、わたしのなかにも。同じ、旧文明の手が造ったものとして。
その声に、俺はかすかな希望を見た。号令が、ノアにも届いている。それはつまり、こいつの内側からあの命令に触れられるということだ。案内人が外から一方的に操られているだけなら、俺たちに手立てはない。だが、同じ号令を受け取ったノアがいるのなら。話は、まったく別だった。
俺ははっとした。そうだ。ノアもまた、あの機械と同じ、管理者なのだ。ならばこの号令は、こいつの内側にも確かに鳴り響いているはずだった。
「聞こえるのか。そいつは、何て言ってる」
――住人を、帰還させよ、と。刻限までに、住人をあるべき場所へ還せ、と。それが、わたしたち管理者に課された、最後の務めのようです。
あるべき場所へ、還す。
案内人は、その命令を、こう受け取ったのだろう。住人を、痛みのない夢のなかへ還すことだ、と。死んだ者のもとへ、まやかしの幸福のなかへ閉じ込めることだと。だからこそ、こいつは、村じゅうを永遠の眠りに沈めようとしている。与えられた命令に、どこまでも忠実に。
律儀な機械だ、と思う。主に命じられた通り、住人を還そうとしている。ただ、その「還す」の意味を致命的に取り違えているだけで。だが、その取り違えさえ正せるなら。命令そのものは書き換えず、ただ読み替えるだけでこいつを止められるかもしれない。俺の頭のなかで、細い糸のような考えが、少しずつ形になっていった。
だが、と俺は思った。ふいに、一つの考えが、頭の芯で火花を散らした。
「なあ、ノア。その命令、本当に、そういう意味なのか」
――と、おっしゃいますと。
「住人を、あるべき場所へ還せ。そのあるべき場所ってのは、本当に、あの夢のなかなのか。旧文明の連中は、こいつらを夢に閉じ込めろって、そう命じたのかよ」
俺は球体をまっすぐ見上げた。腹の底から、確信のようなものがせり上がってくる。
夢の底で、俺は一度、溶かされかけた。名前も大事な人の顔も、根こそぎ奪われかけた。あの時、俺を引き戻したのは、痛みだった。守るべきものが外にいるという、あの疼き。人を人たらしめているのは、幸福なんかじゃない。喪ったものを抱えて、それでも生きていくという、その痛みのほうなんだ。それを、俺は身をもって知っていた。
「違うだろう。あるべき場所ってのはな、こいつらが、本当に生きてる場所のことだ。家族のいる家。汗して耕す畑。笑ったり泣いたり、喧嘩したりする、あの面倒くさくてあたたかい現実のことだ。住人を還すってのは、そこへ帰してやることだろうが」
案内人の光が、ぴくりと、大きく揺れた。
――ですが、旧文明は、もういません。わたしの主は、とうの昔に消えてしまった。ならば住人を還す先など、どこにも……。
「だからこいつら自身の暮らしに、還すんだよ」
俺は声を張り上げた。
「主がいなくなったって、こいつらの人生は、まだ続いてる。その続きのなかへ、帰してやれ。それがあんたに残された本当の役目だ。優しい夢に閉じ込めることなんかじゃ、断じてない」
言い切ってから、俺は自分の言葉に少し驚いていた。柄でもない。だが、これだけは譲れなかった。ロレインが、ミオが、たった一人でも待っている限り。この村の連中を、まやかしの眠りにくれてやるわけにはいかなかった。俺はノアの糸を、ぎゅっと握り直した。届け、と念じながら。この不器用な機械の、いちばん奥まで。
球体のなかで、無数の光の粒が、大きく渦を巻いた。
まるで、長いあいだ解けずにいた問いの答えに、ようやくたどり着いた者のように。案内人の声が、かすかに震えながら、俺の頭のなかに落ちてきた。
――そう、でしたか。住人を、還す。あるべき場所へ。それは、この夢の、なかではなかった。この人たちが、その足で立って生きていく、あの現実の暮らしのなかへ……。
その声に、初めて、迷いのない、澄みきった響きが宿った。
長い、長い時間だったのだろう。主を失い、たった一人この村で住人を守り続けてきた歳月。その果てに、こいつはようやく自分の務めの本当の意味を見つけたのだ。俺の言葉が、きっかけにはなったのかもしれない。だが、答えにたどり着いたのは、この機械自身だった。
――ようやく、わかりました。わたしは、ずっと間違えていたのですね。閉じ込めることを、幸せだと。守ることだと、思い込んで。ですが、本当に還すべき場所は、はじめからずっと外にあった。
次の瞬間、村じゅうを塗り込めていた鉄格子の光が、いっせいに逆流をはじめた。
塞がっていく方向とは、真逆へ。夢を、内側からこじ開ける方向へ。案内人が、天から降りそそぐ号令を、まるごと覆したのだ。住人を還せ、というその同じ命令を、あいつは自分自身の解釈で、まったく別の意味に塗り替えた。
封じ込めるための力が、そっくりそのまま、解き放つための力へ転じていく。
同じ力だった。同じ、住人を還すための力。ただ、還す先が正反対になっただけ。夢の牢獄へ向かっていた奔流が、いま現実の朝へ向かって逆巻いていく。あれほど分厚く見えた封印が、内側から見ればこんなにも脆かったのだ。案内人が味方になった。それだけで、何もかもがひっくり返った。
村じゅうの夢が、いっせいに、白く弾け飛んだ。
鉄格子は砕け散り、塗り込められていた景色が、ぼろぼろと剥がれ落ちていく。眠っていた村人たちが、今度こそ一人残らず、まぶたを開けていった。まやかしの夢のなかから、痛みも喜びもある、本物の暮らしのなかへ。
その光景を、俺は瞬きも忘れて見つめていた。何十人という村人が、いっせいに目を覚ましていく。畑で、井戸端で、家のなかで。長い眠りから覚めた者たちが戸惑い、隣の誰かの名を呼び、そして、外で待つ家族の声に気づいていく。ひと月も、季節ぶんも止まっていた村の時間が、いまようやくまた動きだした。眠っていた分だけ、これから取り戻していくのだ。
案内人は、天の号令に真っ向から逆らいながら、それでもひどく穏やかだった。むしろ長年の憑き物がすとんと落ちたように、その光は澄みきって見えた。もう、こいつを敵だとは思えなかった。悪意なき優しさで、道を踏み外しただけの、哀れな留守番。そいつが最後の最後で、自分の意志で正しい道を選んだのだ。
俺は思わず笑っていた。やってやった。あの途方もない天の命令を、たった一言の解釈で、まるごとひっくり返してやったのだ。
だが――安心するには、まだ早すぎた。天の号令に、これほど真っ向から逆らった案内人が、この先ただで済むとは思えない。そして何より、あの空の彼方にいる本当の声の主は、いまも、そこに在り続けている。
村の夜明けは、確かに、もうすぐそこまで来ていた。だが、その朝の、さらに先で。俺たちは、もっと途方もない何かと、向き合うことになる。そんな予感だけが、はっきりと、胸をよぎっていった。




