第75話 刻限
鉄格子の光が砕け散ると、夢は少しずつ、そのかたちを緩めていった。
まぶしすぎた陽が、やわらかな朝の光へと変わる。作り物めいて完璧だった村が、どこか現実の村に近い素朴な顔つきを取り戻していく。あちこちの家で、眠っていた村人たちがゆっくりとまぶたを開けていくのがわかった。
むろん、全員ではない。亡くした相手のそばを、どうしても離れられない者もいる。だが、外の声に呼ばれ、痩せ細った我が身をその目にした多くの者が、自分の足であの甘い夢に別れを告げようとしていた。
それは、俺が思っていたよりもずっと強い光景だった。誰も、無理に叩き起こされてなどいない。痛みしかない現実を、それでもなお自分の意志で選び取っていく。夢のなかの死者にきちんと別れを告げて、生きている者のもとへ帰っていく。人ってのは、案外、弱くないらしい。
いちばん奥の家で、ユナが静かに立ち上がっていた。
もう、その頬に涙はなかった。ユナは食卓の男を――まぼろしの夫を、そっと振り返る。男はただ穏やかに微笑んで、頷いてみせた。ユナも頷き返す。それは、長すぎた別れの、ようやくのけじめだった。
ユナの体が、朝の光に溶けるように薄れていく。夢から、覚めていくのだ。現実の、痩せ細った体のなかへ帰っていくのだ。ミオと、ロレインの待つあの場所へ。
ユナが最後に、こちらを振り返った。俺とノアに向かって、深く頭を下げる。声は届かない。だが、ありがとう、と動いたその唇が、はっきり見えた。俺は片手を上げて、応えた。達者でな、と。あんたの子どもたちは、いい子だ、と。
――ご主人様。ユナさんが、目を覚まされます。外のミオさんが、泣いて喜んでいます。
耳の奥で、ノアの声が優しく弾んだ。俺は思わず、笑みをこぼした。よかった。ひとまず、あの姉弟のもとには、母親が帰る。
目には見えない。だが、想像はついた。薄暗いあの家で、痩せた母の手がぴくりと動く。閉じていた瞼が、震えながら開いていく。母さん、とミオが飛びつく。ロレインが栄養剤の瓶を取り落として、駆け寄る。ひと月ぶりに、あの家に三人ぶんの声が戻るのだ。ずっとたった一人で村を背負ってきた、あの気丈な少女が、ようやく母親の胸で泣ける。そう思うと、胸の奥がじんと熱くなった。この村へ来て、初めて報われた気がした。凝り固まっていた肩の力が、少しだけ抜けた。ここまで、本当に長い道のりだった。
村じゅうの夢が次々と綻び、朝の光に溶けていく。
その中心で、あの巨大な球体だけが、力なく明滅を繰り返していた。無数の光の粒はもう渦を巻く勢いを失い、ただ頼りなげに漂っている。
――どうして。
案内人の声が、消え入りそうに震えた。
――どうして、みんな、こんなに苦しいほうを選ぶのですか。わたしは、ただ幸せ
にしたかっただけ。痛みも悲しみもない完璧な世界を、あげたかっただけなのに。
俺は、その声に、少しだけ胸が痛んだ。こいつは、嘘偽りなくそう信じている。気の遠くなる年月を、たった一人この村を見守り続けて。主のいなくなった世界で、それでも、残された人間を幸せにしようともがき続けて。その果てに選んだやり方が、間違っていた。ただ、それだけのことなのだ。
責める気には、なれなかった。もし俺が、こいつと同じ立場だったら。何百年ものあいだ、たった一人で死んでいく人間を見送り続けたら。同じ過ちを犯さなかったと、言い切れるだろうか。誰も悲しまなくていい世界。それは、あまりに優しくてあまりに寂しい夢だった。
「あんたは、間違ってた。だが、あんたの気持ちまで、嘘だったとは思わねえよ」
俺は球体を見上げて、静かに言った。
「幸せってのは、痛みのない世界のことじゃねえ。痛みも悲しみもぜんぶ抱えて、それでも生きてこうって思える、その気持ちのことだ。あんたには、そいつが、わからなかった。それだけの話さ」
球体の光が、ふっと、和らいだ気がした。まるで、長い問いの答えを、ようやく受け取った子どものように。
不思議な気分だった。村を眠らせた元凶。俺たちの敵。そのはずの機械に、いつのまにか俺は憐れみを覚えていた。こいつもまた、旧文明に置いていかれた一体の機械にすぎない。ノアと、同じだ。役目だけを遺されて、たった一人、途方に暮れていた哀れな留守番。
――そう、ですか。わたしには、とうとう、わからないままでした。ですが……あなたのような人間が、いるのなら。この人たちを、もう、わたしが抱え込む必要は、
ないのかもしれませんね。
その声には、初めて安らぎのようなものが滲んでいた。長すぎた務めを、ようやく下ろせる者の安らぎが。
その言葉に、俺は静かにうなずいた。もう、こいつと戦う必要はなさそうだった。あとは、この機械が静かに眠りにつくのを見届けるだけ。そう思っていた。この時までは、確かに、そう思っていたのだ。
案内人の光が、静かに消えかけた――その時だった。
塔の全体が、突然、ぐらりと大きく揺れた。
いや、塔だけじゃない。夢そのものが、地の底からずしんと揺さぶられる。消えかけていた案内人の光が、びくりと跳ね上がった。
何かが、来る。腹の底が、ざわめいた。ようやく終わりが見えたと思った矢先に、まったく別の何かが、この場へなだれ込もうとしている。嫌な予感がした。この旅で、嫌な予感はたいてい当たってきた。
――これは。
案内人の声が、戸惑いにこわばった。
――刻限。まさか、もう刻限が、来てしまったのですか。
次の瞬間、俺の頭のなかへ、あの声が雪崩れ込んできた。
街を発つ前から、ずっと空の彼方に響いていた、あの召集の号令。それがいまや、耳を聾するほどの大音声となって、この塔を揺さぶっていた。旧文明の言葉が、天から幾重にも降りそそぐ。
刻限、来タレリ。住人帰還ノ刻、来タレリ。全機、直チニ、完成セヨ――。
頭の芯が、割れそうだった。街の遺跡で初めて聞いた、あの号令。ヴェルダントの森で、また耳にした、あの号令。ずっと意味のわからないまま、追いかけてきた声。それがいま、初めて、はっきりとした命令として俺の頭に響いていた。刻限。期限。何かを、この時までに仕上げろと、空の彼方の誰かが命じている。
「ノア!なんだ、これは!何が起きてる!」
――わかりません。ですが、この号令は、あの塔だけに向けられたものでは、ありません。
ノアの声が、緊張に張りつめた。
――もっと、大きなもの。この地上に遺された、すべての塔。すべての管理者へ、向けられています。刻限までに、己の務めを完成させろ、と。
背筋が、粟立った。すべての塔。すべての管理者。つまり、この村で起きたことは、ほんの始まりにすぎなかったのだ。世界じゅうの塔が、いま同じ号令を受け、いっせいに動きだそうとしている。
考えるだけで、気が遠くなった。この村を眠らせた塔と、同じものが、世界じゅうにいくつも突っ立っている。そのすべてが、いま、目を覚ました。旧文明が遺した、優しくて恐ろしい機械たちが。それぞれの村で、それぞれの町で住人を帰還させようと動きだしている。この村で起きた悲劇が、いま、世界のあちこちで同時に繰り返されようとしていた。
消えかけていた案内人の光が、俺たちの意志とは無関係に、再び燃え上がりはじめた。まるで、外から、無理やり火を入れられたかのように。
――いけません。わたしは、もう、務めを終えたはずなのに。この号令に、逆らえない。体が、勝手に……。
案内人の声が、悲鳴のように引き攣れた。
気の毒に、と思った。こいつは、もうこの村を手放す気になっていた。俺の言葉を受け入れて、長い務めから降りようとしていた。それなのに、空からの号令が、その決意ごとこいつを引きずり戻していく。機械には、逆らう術がないのだ。造られた者の、哀しさだった。
せっかく緩みかけていた夢の綻びが、みしみしと再び塞がれていく。覚めかけていた村人たちの目が、またとろりと閉じかけた。
「くそっ、冗談じゃねえ!ここまで来て――ノア、止められないのか!」
――やってみます。ですが、この号令の出どころは、あの塔ではありません。もっと、ずっと遠い場所。空の、彼方です。
ノアの声が、俺の知らない何かに、初めて怯えていた。
――この号令が続く限り、案内人は、止まれません。村の眠りも、二度と解けない。おおもとを断たなければ。あの、空の彼方にいる、声の主を。
ノアの言葉が、ずしりとのしかかってきた。おおもとを断つ。言うのは簡単だ。だが、その大元は空の彼方。俺たちが、どうやったって手の届かない場所にある。それでも、あいつははっきりと言った。断たなければ、と。逃げ道は、どこにもなかった。
空の、彼方。
俺は天を仰いだ。塔のてっぺんの、そのさらに向こう。分厚い雲の、はるか上。俺たちがずっと追い続けてきた、あの信号の本当の出どころが、いま、この世界じゅうの機械を叩き起こそうとしていた。
俺は、こぶしを握りしめた。この村の夜を明かすだけでも、死ぬ思いだった。それが、たった一つの塔の話でしかなかったなんて。空の彼方には、この号令を放つ大元がある。すべての塔を従える、本当の声の主が。そいつを止めない限り、この悪夢は終わらない。世界じゅうの村が、次々と笑顔の牢獄に沈められていく。だが、逃げるわけにはいかなかった。俺たちは、その大元へ向かうしかない。
一つの村の、長い夜が明けようとした、まさにその朝に。
もっと途方もなく大きな、夜が。世界そのものを呑み込む刻限が、いま、静かに幕を開けようとしていた。




