第73話 二つの家
繋ぎ直された糸は、さっきよりも、ずっと太かった。
その太さが、そのままノアの決意の強さのように思えた。一度は塔に呑まれかけて、それでも自分の意志で戻ってきた糸だ。生半可なことでは、もう二度と切れやしない。
だが、のんびりしている時間があるとは思えなかった。案内人は、いまのやり取りで、はっきりと動揺している。次に何をしてくるか、まるで読めない。急いだほうがいい。俺の勘が、そう告げていた。
その糸を通して、ノアの意識が、この夢の隅々まで静かに広がっていくのがわかる。管理者として、あの機械と同じ視座に立ったノアには、いまや、この夢の仕組みが手に取るように見えているらしかった。どの村人が、どんな夢のなかにいるのか。その一つひとつを、こちらから覗くことも触れることもできるのだと、あいつは言った。
――ご主人様。まずは、誰のところへ参りましょう。
耳の奥で、ノアの声が問う。俺は迷わなかった。
「ユナのところだ。ロレインとミオの、母親の」
あの幼い姉弟が、村じゅうでたった一人、命がけで待っている相手。まずはあの母親に、目を覚ますきっかけを掴ませてやりたかった。無理やり引き剥がすんじゃない。ただ、自分で選ぶために必要なものを、あいつの前に、並べてやるだけだ。
ノアの糸が、一筋の光の道となって、俺の足元へと伸びた。俺はその道を、まっすぐ歩き出した。
胸の奥に、微かな不安があった。夢だと承知で残る者に、いまさら現実を見せて本当に届くのか。だが、やってみなけりゃ始まらない。ロレインのあの張りつめた横顔。ミオの、母を呼ぶ小さな声。あの二人のためにも、あの母親をここから連れ帰りたかった。
道の先に、見覚えのある家があった。あの、あたたかい灯りの灯る、ロレインの家だ。
窓から覗くと、あの日と寸分違わぬ光景が、そこにあった。食卓を囲む、三人の家族。痩せていない、健やかなユナ。その隣で笑う、日に焼けた大きな男。膝の上ではしゃぐ、小さなミオ。何度目にしても、胸を締めつける、優しすぎる嘘だった。
だが、この嘘の心地よさを、俺はもう知っている。あの温もりに一度は溶かされかけた身だ。だからこそ、頭ごなしに責める気にはなれなかった。ユナがここに縋りつく気持ちも、痛いほどわかってしまう。それでも、だ。
俺は戸を開けて、なかへ足を踏み入れた。
ユナがこちらへ顔を上げる。俺のことを、ちゃんと覚えていたらしい。その顔に浮かんだのは、驚きではなく、どこか諦めに似た静かな微笑みだった。
「また、あなたなのね。何度来たって、あたしは帰らないわよ」
「ああ、知ってる。あんたが承知の上でここにいるってことも、ちゃんと聞いた」
俺はゆっくりと首を振ってみせた。
「だから今日は、説得しに来たんじゃない。ただ、あんたに見てほしいものがあって、来たんだ」
ユナは、訝しげに眉を寄せた。見てほしいもの、と俺の言葉を繰り返す。俺は答えず、ただ傍らのノアへ視線を送った。この夢を内側から作り替えられる、たった一人の相棒へ。
俺は傍らのノアに、目配せをした。声には出さない。だが、糸で繋がったあいつには、それだけで十分だった。
――はい。窓を、開きます。
次の瞬間、あたたかい家の壁に、ぽっかりと、四角い穴が開いた。
いや、穴じゃない。窓だ。この甘い夢のただなかに開いた、現実へと通じる、一枚の窓。その向こうに広がっていたのは――薄暗い、本物のロレインの家だった。
夢のあたたかい灯りとは、何もかもが違った。じめついた土間。細く絞られた明かり。饐えたような、病人の匂い。それが、ユナが目を背けてきた、もう一つの家の姿だった。夢のなかで笑うユナと、現実で眠り続けるユナ。窓一枚を隔てて、その二つが並んで存在している。作り物の団欒と、痩せ細った本物の体。どちらを選ぶのかは、もう、この女自身が決めるしかなかった。
床に敷かれた、粗末な寝床。そこに横たわっているのは、痩せ細った、本物のユナだ。頬はげっそりとこけ、肌は乾き、それでも、こんこんと眠り続けている。その枕元に、幼いミオがちょこんと膝を抱えて座っていた。
「母さん。ねえ母さん、起きてよ。もう、いいでしょう。ミオ、ちゃんといい子にしてるから」
現実のミオが、痩せた母の手を両手で握って、揺すっていた。何度も、何度も。返事のない母に、それでも、諦めずに話しかけ続けている。
その後ろを、ふらつく足取りでロレインが通り過ぎた。手には、栄養剤の瓶。眠り続けるほかの村人に、配って回る途中なのだろう。やつれ果てたその顔で、それでも気丈に、弟に笑いかけていた。
「ミオ。母さんは、疲れて眠ってるだけだよ。すぐに起きる。だから、いい子で待ってようね」
その気丈な笑顔が、いちばんこたえた。ロレインだって、とうに限界のはずなのに。弟の前では決して弱音を吐かない。母親が眠っているあいだ、あの子はずっと母親の代わりを務めてきたのだ。たった一人で。
俺も、その窓を黙って見つめていた。明るい夢のなかのユナと、薄暗い現実のユナ。同じ女が、二つの場所に確かにいる。片方では笑い、もう片方ではゆっくりと死にかけている。どちらが本物かなんて、問うまでもなかった。
夢のなかのユナが、息を呑んだ。
窓の向こうの光景から、ユナは、もう目を逸らすことができずにいた。見開いたその頬を、一筋の涙がつっと伝い落ちる。
「やめて……見せないで。あたしだって、わかってるのよ。わかってる。それでも――」
ユナの声が、ぐしゃりと歪んだ。
「それでも、ここには、あの人がいるの。目を覚ませば、もう二度と、会えなくなる。あの人のいない世界で、あたし、これから、どうやって生きていけばいいの」
俺には、何も言えなかった。気の利いた慰めも、正しいはずの理屈も、この期に及んではどれも薄っぺらく思えてしまう。愛した相手を失う痛みを、俺なんかが軽々しく計れるわけもない。ただ黙って、ユナの涙を見ているしかなかった。
その時だった。
食卓の男が――ユナの死んだ夫が、椅子から静かに立ち上がった。夢が見せる、まぼろしにすぎないはずの男が。それでも、こちらを見るその目は、驚くほど、澄んで優しかった。
男はユナの肩に、そっと大きな手を置いた。そして、静かに言った。
「行っておいで」
ユナがはっとして、振り返る。
「あの子たちを、頼む。おまえがいなけりゃ、あいつらは立っていけない。おれのことは、もう、いいんだ。ちゃんと、見送ってくれ。それが、いちばんの供養だ」
その声は、俺の耳にもはっきりと届いていた。まぼろしにしては、あまりにも確かな響きだった。あるいはこの案内人は、こんな別れの言葉さえ優しさのつもりで用意したのかもしれない。だとしたら、ずいぶん皮肉な話だ。その優しさが、いままさに一人の女を現実へと送り出そうとしているのだから。
まぼろしが紡いだ言葉だったのかもしれない。ユナ自身の心が、そう言わせただけ、なのかもしれない。だがユナは、その広い胸に顔を埋めて、声をあげて泣いた。まるで子どものように、いつまでも。
やがて、ユナはゆっくりと顔を上げた。涙に濡れた目で、まっすぐ、現実の窓を見据える。
「……帰るわ。ミオと、ロレインの、いるところへ」
ユナがその窓に向かって、震える足で一歩を踏み出した。
あと少しで、その手が、本物の家へと届く。俺は思わずほっと息をついた。一人だ。まだたった一人。それでも、確かに、自分の足で目を覚まそうとする者が、ようやく出たのだ。
だが――その時だった。
村じゅうの光が、ぐらりと大きく傾いだ。
あの、どこまでも優しかった声が、今度は頭上から、重く降ってきた。凪いだ水面のようだったその声に、初めて切羽詰まった色が滲んでいた。
――いけません。行かせません。あなたを、あの苦しみのなかへ、帰したりはしない。
窓へ伸ばしたユナの手が、見えない力に、ぐいと引き戻された。
――わたしが、間違っていたのです。選ばせるから、迷いが生まれる。もう、迷わせはしません。誰にも、二度と。この夢から、二度と出られないように――何もかも、閉じてしまいましょう。
その瞬間、村じゅうの夢が、みしりと軋みをあげた。
地響きのような音とともに、あの優しかった景色が、みるみる変質していく。花は色を失い、空は鉛色に濁り、村人たちの笑顔が、能面のように固まっていく。いっそ悪夢に変わってくれたなら、まだ救いがあった。だがこいつは、あくまで優しい景色のまま、村人を永遠に閉じ込めようとしている。笑顔のままの、牢獄。それが、いちばんたちが悪かった。
あちこちの家々の窓に、鉄格子のような光の筋が走っていく。眠る村人たちの夢が、外側から、一つまた一つと塗り固められていくのがわかった。二度と覚めないように。二度と、誰の心も、悲しませないように。
これが、こいつの行き着いた果てだった。人を悲しませないために、人から悲しむ自由すら奪い取る。選ぶ余地を、根こそぎ塗り潰していく。優しさが暴走した果てに待っていたのは、永遠に覚めることのない、美しい牢獄だった。
ユナの姿が、その光の奔流に呑み込まれ、みるみる遠ざかっていく。
さっきまで、確かにこちらへ帰ろうとしていた、あの手が。ミオとロレインの名を呼んだ、あの声が。何もかも、分厚い光の膜の向こうへ封じ込められていく。
「ユナ!くそっ、ノア、あの窓を閉じさせるな――!」
だが、俺の声も、もう届きはしなかった。
悪意なき優しい嘘の主が、たった一つの、最後の抵抗を始めたのだ。この村じゅうの眠りを、永遠に、封じ込めてしまうために。




