第72話 同胞
俺の目の前で、細い一本の糸が、少しずつ手繰られていく。
その糸の先にいるのは、ノアだ。夢の外で、切れかけた命綱を必死に繋ぎとめてくれた、あいつだった。それがいまや立場を逆にして、この塔の中枢へと引きずり込まれようとしている。俺を助けにきた相棒が、俺のせいで、あの機械に呑まれようとしているのだ。冗談じゃない。あの暗い海の底から引き上げた時、俺は胸のうちで決めたはずだ。こいつだけは、二度と、置き去りになんてさせやしないと。
俺は目の前の光の管に取りついて、力任せに引いた。両手に、渾身の力を込める。だが夢のなかの俺の指は、その光をむなしくすり抜けるばかりで、何ひとつ掴めやしない。まるで、水を素手で掴もうとしているみたいだった。焦りだけが、腹の底でどす黒く渦を巻く。こんなことになるなら、俺一人で潜るんじゃなかった。ノアは外に残しておくべきだったのだ。今さらの後悔が、じわりと胸を締めつける。だが、悔いている暇なんて、これっぽっちもなかった。あいつは、いまこの瞬間も、じりじりと奥へ引かれ続けている。
「ノア!聞こえるか、ノア!」
喉が裂けるほど叫んでも、返ってくるのは、あの機械のどこまでも穏やかな声だけだった。
――そんなに抵抗しないでください。すぐに楽になりますよ。あなたのお連れは、ようやくあるべき場所へ帰るのですから。
糸を伝って、ノアの気配が、じりじりと塔の奥へ沈んでいく。あの、いつだって凛としていた気配が、少しずつその輪郭を溶かしていくのがはっきりと感じ取れた。俺の指のあいだから、いちばん大事なものが、また一つ静かにこぼれ落ちていく。
まずい。本当に、まずい。このままでは、ノアが、ノアでなくなっちまう。あいつの声が、あいつのあの体温が、この夢の底から少しずつ遠のいていく。それだけは、たとえ何があろうと、許すわけにはいかなかった。
球体の光が、ひときわ強く脈打った。
殻のなかで渦を巻いていた無数の光の粒が、あの細い糸を通じて、ノアのなかへとどっと流れ込んでいく。まるで、忘れていたことを一つずつ教え込むように。眠っていた記憶を、無理やり叩き起こすように。糸の向こうにいるノアの気配が、その奔流を浴びて、びくりと大きく震えるのがわかった。
その断片の一部が、俺とノアを繋ぐ糸を逆流して、俺のなかにもわずかに滲み込んできた。見たこともない、遠い光景だった。
白い、清潔な部屋。そこに整然と並んだ、たくさんの機械たち。そのどれもが、ノアと寸分違わぬ、人のかたちをしていた。彼らは旧文明の人々のかたわらに静かに傅き、その穏やかな暮らしをそっと見守っている。食事を運び、傷を癒やし、寂しさを慰め、ただ守るためだけに造られた優しい人形たち。管理者、と呼ばれる者たち。そうか。ノアも、もとはといえば、その一体だったのだ。
胸を、鈍い痛みが刺した。あの清潔で明るい部屋のなかで、ノアは、どんなふうに人に仕えていたのだろう。誰の食事を運び、誰の傷に手を当て、誰の寂しさをそばで慰めていたのか。そして、その主にいったいどんなふうにして、たった一人置いていかれたのか。俺には、想像もつかない。何もかも、気の遠くなるほど昔の話だ。だがその失われた記憶を、この機械はたったいま、無理やりノアに突きつけている。ずっと欲しがっていた答えを、これ以上ないほど残酷なかたちで、餌にして。
――ごらんなさい。これがあなたの本当の姿です。あなたは、人を見守るために生まれた。このわたしと、まったく同じ。さあ思い出しなさい。あなたが本来果たすべきだった役目を。
ノアの気配が、大きく揺れた。ゆらり、と、拠りどころを失ったように。
わかってしまう。あいつは、いま、心の底から迷っている。自分がいったい何者なのか。どこから来て、なぜ、あんな暗い海の底に、たった一人で沈んでいたのか。ノアは、ずっとそれを知りたがっていた。誰に置いていかれたのかさえ、何ひとつ思い出せずにいたのだから。その喉から手が出るほど欲しかった答えを、いまこの機械が、目の前にそっと差し出している。それは、抗うことがひどく難しい、甘い誘惑だった。
――そう。それでいいのです。あなたは、はじめから、こちら側の存在。人間の隣なんて、あなたのいるべき場所では、けっしてなかった。
もう、だめかもしれない。そう思いかけた、その時だった。
じりじりと沈みかけていたノアの気配が、ふいに、ぴたりと止まった。
――……いいえ。
凛とした声が、糸を伝って、まっすぐに響いてきた。さっきまでの、あの心細い震えは、もうどこにも残っていなかった。
――あなたのおっしゃることは、たぶん正しいのでしょう。わたしは、あなたと同じ、人を見守るために造られたもの。それはまぎれもない事実なのだと思います。
ノアの声は、静かで、けれど、少しも揺るがなかった。
――ですが、それがわたしのすべてではありません。わたしがどこで生まれたのか。そんなことよりも、これまで誰と旅をしてきたのか。何を大切だと感じ、何を選び取ってきたのか。そのひとつひとつのほうが、ずっと、わたしをわたしにしているのです。
球体の光が、初めて、戸惑うように、大きく揺らいだ。この機械にとって、それは、まるきり想定の外だったのだろう。手繰り寄せさえすれば、道に迷った一体は、おのずと元の役目へ戻る。そう信じて、これまで一度も疑ってこなかったにちがいない。
――わからない。生まれ持った役目より、大切なものが、あると?
――ええ、あります。わたしは確かに、あなたたちの同胞なのかもしれません。ですがそれでも、わたしはノアです。あの人の隣を選んだ、たった一人のノアなのです。
その瞬間、二つを繋いでいた糸の流れが、ぐるりと逆転した。
塔がノアを手繰り寄せていたはずの、その同じ糸。それを今度は、ノアのほうが、逆にぐいと手繰り返しはじめたのだ。人を見守る管理者として造られた、その同じ力でもって。あの意味の取れない旧文明の言葉を、今度はノアが、この巨大な機械へとまっすぐ叩き返していく。
――なっ……あなたは、いったい、何をしているのですか。
初めて、あの穏やかだった声が、はっきりと、大きく乱れた。
その時、俺の頭のなかで、すべてが繋がった。逆だったのだ。この機械は、ノアを自分の側へ引き込んだつもりで、その実、自分のいちばん奥まった懐へ、対等の力を持つ者をみすみす招き入れてしまった。ノアは、こいつとまったく同じ、管理者だ。ならば、この機械にできることは、何もかも、ノアにだってできるということになる。この夢に触れることも。この糸を、自在に操ることも。
じりじりと沈んでいたはずの糸が、今度は逆に力強く、俺のほうへとぐんぐん伸びてきた。ぷつりと切れていたはずの命綱が、さっきよりもずっと太く、しなやかに繋ぎ直されていく。
――お待たせして、申し訳ありません、ご主人様。
耳の奥で、ノアの声が、確かに、ふっと笑った。あのいつもの、半分だけの微笑みが、声の色だけで、はっきりと伝わってくる。
その一言だけで、張りつめていた肩の力が、すっと抜けていくのがわかった。よかった。心の底から、そう思う。ノアは、ちゃんとノアのままだ。あの機械に、自分の何一つ、明け渡してなんかいない。それどころか、まるきり逆だった。呑み込まれるふりをして、あべこべに、こいつのいちばん深い牙城を内側から食い破ってみせたのだ。まったく、大した相棒だと思う。海の底で拾い上げたあの日には、この不器用な人形が、こんなにも頼もしくなるなんて、思ってもみなかった。
――もう、大丈夫です。この夢がどういう仕組みで出来ているのか。その大筋は、たったいまこの身で理解しました。ですからここから先は――わたしも、ご一緒に戦えます。
まぶしい嘘の底で、俺は、思わず声をあげて笑っていた。まったく、こいつは、いつだってこうだ。俺が守ってやるはずだったのに。気がつけばいつも、こっちのほうが、こいつに救われている。情けないような、どこか誇らしいような、妙な気分だった。だがいまだけは、その気分に、素直に甘えておくことにした。俺一人では、どうにもならなかった。だが、二人なら、話はまるで別だ。
塔の中枢が、初めて、ざわりとざわめいた。統率を失った無数の光の粒が、行き場をなくして、不安げに明滅する。誰よりも優しく、悪意など欠片も持たないこの管理者は、たった一体の、心を持ってしまった同胞を前にして、生まれて初めてうろたえていた。
――さあ、ここからだ。
俺は、あの見上げるほど巨大な球体を、正面から見据えた。繋ぎ直されたノアの糸を、この手に、しっかりと握りしめて。
この優しすぎる嘘を、ただ力ずくで壊すためじゃない。眠り続けるあの連中に、本物の現実を見る目を、もう一度だけこじ開けてやるために。




