第70話 呼び戻す声
道はどこまで行っても同じ景色だった。
まぶしい陽が照り、畑は青々と実っている。村人たちはあちこちで笑いさざめいていた。俺はその真ん中を、ただ歩き続けた。どこかにあるはずの出口を探して。だが、どれだけ歩いても村は終わらない。角を曲がっても、また同じ井戸があり、同じ畑があり、同じ笑顔がある。行けども行けども、同じあたたかさが俺を包んで、離してくれなかった。
おかしい、と訝る気持ちさえ、だんだん薄れていく。おかしくて、けっこうじゃないか。どこまでもあたたかくて、どこまでも優しい。それの、いったい何が悪いというんだ。そんな囁きが、頭の芯で、少しずつ大きくなっていった。
――そんなに急がなくてもいいのですよ。
あの声がまた、耳のそばで囁いた。姿はどこにもない。村じゅうの空気そのものから、優しく染み出してくるようだった。
――ここには、いやなことが何ひとつありません。痛みも飢えも、別れもない。あ
なたはもう、十分に頑張ったでしょう。ここで、ゆっくりお休みなさい。
足が少しずつ、重くなっていく。歩いている理由が、だんだん思い出せなくなっていく。俺は何のために、こんなところまで来たんだったか。たしか、誰かを探していたはずだ。大事な、誰かを。だがその名前も、その顔も、もううまく浮かんでこない。指の隙間から、さらさらと零れ落ちていくみたいに。
それでも、胸の底には、まだ小さな錘のようなものが、残っていた。この温かさに、身を委ねてはいけない。理屈ではない、その頑なな拒みだけが、辛うじて、俺をこの場に押しとどめていた。だが、それさえも、今にも押し流されそうだった。
まずい。頭の隅でかすれた声がした。これはまずいぞ。この夢は俺から、俺という人間そのものを、ゆっくり溶かしにかかっている。名前も、思い出も、大事なものも、片っ端から溶かしていく。
だがその警告すら、あたたかい光のなかへじわりと溶けていった。抗おうという気力が、もう湧いてこない。まぶたが、重い。
その頃、外では。
ロレインの家の床で、俺の体は深い眠りに沈んでいた。
ノアは枕元で、黒鴉を握りしめていた。ついさっきまで、その翼を通してかすかに届いていたご主人様の気配。それがふつりと途絶えたのだ。糸が切れた。
「クロウ!おい、起きろってば!」
リルが肩を揺さぶっても、俺はまぶた一つ動かさなかった。ただ口元に、うっすらと幸せそうな笑みを浮かべている。あの眠り続ける村人たちと、そっくり同じ顔だった。
ロレインが青ざめて、鈴を鳴らした。ちりん、ちりん、と。何度繰り返しても、俺の笑みは崩れない。それどころか、眠りはいっそう深く、遠くなっていくばかりだった。
「うそでしょ。ねえ、クロウ、冗談やめてよ」
リルの声が、だんだん細くなる。いつもの威勢のよさが、すっかり消えていた。
無理もなかった。目の前で、気のいい仲間が、あの村人たちとそっくり同じ顔になっていく。ゆうべまで隣で軽口を叩いていた男が、手の届かない場所へ、音もなく沈んでいくのだ。リルには、その現実が、受け止めきれずにいた。
「だめ……こうなったら、もう手遅れだよ」
ロレインの声も震えていた。
「館の奥まで連れていかれた人は、鈴くらいじゃもう戻らない。何人も、そうやって沈んでいくのを見てきた。あたしの手には、負えないの」
その言葉に、リルがくちびるを噛んだ。俺の体を揺さぶる手が、力なく止まる。だがノアだけは動かなかった。ただじっと、俺の寝顔を見つめている。やがて、静かに口を開いた。
「いいえ。まだ、間に合います」
ノアは黒鴉を、自分の胸の前へ掲げた。赤い目が、暗がりのなかでひときわ強く灯っている。
「あの塔は、わたしの名を呼びました。この村へ着いた夜から、ずっと。ならばわたしの声もきっと、あの塔まで届くはずです。糸が切れたのなら――今度はこちらから、無理にでもつなぎ直します」
「ノア、あんた、いったい何をする気」
「ご主人様を、あんな場所にひとりで置いてはおけません」
ノアの声は静かだった。だがその奥に、俺の知らない硬い決意が宿っていた。
ノアは目を閉じ、低い声で詠いはじめた。俺たちにはまるで意味の取れない、古い旧文明の言葉だった。それはまるで祈りのように聞こえた。あるいは、命令のようにも。ひと言ずつ紡ぐたびに、黒鴉の赤い目がその声に応えて、いっそう強く燃え上がっていく。やがて灯った光は一筋の糸となり、眠る俺の額から、まっすぐ天の塔へと、細く長く伸びていった。
ロレインが、息を呑んだ。夢守を務めてきた少女でさえ、こんな真似は見たことがないのだろう。あの塔へ向かって、自分から糸を投げ返そうとする者など。ノアの白い額には、いつしか、うっすらと脂汗が滲みはじめていた。機械のはずのこいつが、それでも、歯を食いしばって何かに耐えている。
「リル、ロレイン。わたしの体を、しばらくお願いします。わたしも少しだけ、あちら側へ意識を傾けますから」
「か、傾けるって。あんたまで戻ってこられなくなったら、どうすんのよ!」
リルがノアの腕にすがりついた。ノアはその手にそっと自分の手を重ねて、うっすらと微笑んだ。いつもの、半分だけの微笑みだった。
「わかりません。それでも、やります。ご主人様がこれまで、ずっとそうしてきたように。困っている誰かを見つけたら、放ってはおけないのです」
あたたかい光のなかで、俺はもう、目を閉じかけていた。
――もう、いいか。ここはあたたかい。ずっとこのまま、ここにいれば。何も、考えなくていい。
その時だった。
――ご主人様。
声が聞こえた。
遠くて細くて、けれどまっすぐな声だった。この甘ったるい村のどこにも似合わない、凛とした響き。ノアだ。切れたはずの糸のずっと向こうから、あいつが必死に俺を呼んでいる。
ふっと、ぼやけていた視界が澄んだ。
零れ落ちかけていた俺の輪郭が、その声に引かれて、もう一度くっきりと縁取られていく。そうだ、思い出した。俺はクロウだ。海の底からノアを拾い上げ、リルと馬鹿をやりながら、あてのない旅を続けてきた、あの俺じゃないか。守るべき奴らが、待つべき明日が、ちゃんとある。
忘れて、たまるか。あんな半分だけの不器用な笑みで、俺を送り出したあいつを。まだ里へ帰してやれていない、あの銀髪の跳ねっ返りを。眠りに落ちるその寸前まで、心配そうに俺を見ていた、二つの顔を。
俺は顔を上げて、まぶしい村へ、はっきりと向き直った。
「悪いな、案内人。俺は帰らせてもらう」
――どうして。ここには、あなたの欲しいものがすべて揃っているのに。
「ああ、揃ってるさ。優しくて、あたたかくて、非の打ちどころもない。……だからこそ、いらないんだ」
俺はまっすぐ、声のするほうへ言い返した。
「痛みも別れもない世界なんてのは、生きてるうちに入らねえ。眠れない夜も、腹の減る朝も、しくじって落ち込む日も、何もかもひっくるめて、俺はあいつらと生きていく。死んだ奴は死んだままでいい。ちゃんと悲しんで、その分だけ胸に刻んで、それでも足を前に出す。それが、俺たちのやり方だ」
案内人はしばらく黙っていた。それからまた、あの優しい声で囁いた。
――では、あの人たちはどうなります。あなたが起こそうとしている、この村の人たちは。あの人たちはみな、自分から望んでここにいるのですよ。
その一言に、言葉が詰まった。
そのとおりだった。ユナもガロも、この村の連中はみんな、何もかも承知のうえでこの夢を選んでいる。俺ひとりが目を覚ましたところで、あいつらはここに残るだろう。優しい嘘に抱かれたまま、外の体だけが、静かに朽ちていく。
考えれば考えるほど、出口のない袋小路だった。力ずくで起こせば、恨まれる。このまま放っておけば、朽ちていく。この村を包む優しさは、あまりに分厚く、あまりに正しい。
だが、と俺は思う。それでも、だ。
俺はゆっくりと、村の中心を見上げた。
まぶしい景色のずっと奥に、空を突くあの塔の影が、うっすらと透けて見えていた。この夢を織り上げ、あの声を放っている、いちばんの大元。行くべき場所は、あそこしかない。
村人を無理やり叩き起こそうってんじゃない。この夢を力ずくで断とうってんでもない。ただ、あの案内人ともう一度、きちんと話をつけるんだ。何もかも承知で残るというなら、その選択の先に、本当は何が待っているのか。それをあいつらの目の前に、はっきり突きつけてやる。そのうえで、もう一度選ばせる。今度こそ、まやかしじゃない、本物の選択を。
それが通じるかどうかは、わからない。あの案内人が、素直に応じてくれる保証もない。だが、やってみるしかなかった。ここまで来て、あの幼い姉弟に、ただ首を振って手ぶらで帰るなんて、俺にはできなかった。
耳の奥では、ノアの声がずっと俺を導き続けていた。糸はもう一度、つながっている。
「聞こえてるぞ、ノア。もう少しだけ、そっちで踏ん張っててくれよ」
塔は、遠い。このまぶしい景色の、ずっと果てで、それでも確かに、俺を待っている。あの案内人の本当の顔を、この目で拝んでやる。この優しい夢の、いちばん深い底で。
俺は歩き出した。まぶしい嘘の村を抜けて、その奥にそびえる塔へ向かって。
村人たちの幸せそうな笑い声が、いつまでも、俺の背中を追いかけてきた。




