第69話 夢の館
夜が来た。
ロレインの家の床に、俺は毛布を敷いて横になった。眠れば命取りだというこの村で、自分から眠りにつく。我ながら、ばかげた話だと思う。だが、夢の正体をこの目で確かめるには、ほかに手がなかった。
枕元にノアが膝をついた。腕から出した黒鴉が、俺の額のすぐそばで翼をたたんで止まっている。小さな赤い目が、暗がりのなかでじっと灯っていた。
「これで、夢のなかのご主人様と、わたしをつなぎます。わたしの声が聞こえているうちは、糸はつながっています。もし聞こえなくなったら――それが、引き返す合図です」
「声が聞こえなくなったら、引き返す。わかった」
「深くは、入らないでください。館の入り口を、覗くだけ。それ以上は、だめです。約束してください」
ノアの声が、いつになく硬かった。俺は笑ってみせる。これ以上、こいつを不安がらせたくはなかった。海の底で拾ってきた時から、こいつは俺の顔色ばかり気にしている。今夜くらいは、安心して送り出させてやりたかった。
枕元の反対側では、リルが短刀を膝に置いて、俺の寝顔をじっと見張っていた。ロレインは戸口のそばで、鈴を両手で握りしめている。何かあれば、あの澄んだ音で俺を呼び戻すつもりなのだろう。
妙な、心強さがあった。俺が眠りに落ちても、この三人が、俺の体をちゃんと見ていてくれる。ノアの糸と、リルの刃と、ロレインの鈴。それだけあれば、上等だった。
俺は、目を閉じた。
眠りは驚くほど早くやってきた。まるで、誰かにそっと手を引かれるみたいに。まぶたの裏が、じわりとあたたかい光で満たされていく。抗う間もなかった。
目を開けると、そこは同じ村だった。
だが、何もかもが違っていた。空を覆っていたあの霧は、跡形もなく消えている。抜けるように青い空からまぶしい陽が降りそそぎ、頬にあたたかい。畑は青々と実り、井戸端では女たちが笑いさざめき、子どもらが土の道を素足で駆けまわっていた。犬が吠え、どこかで槌を打つ音が響く。パンの焼ける匂いまで、風に乗って流れてきた。
生きている。村がまるごと、生きていた。
俺はしばらく、その場から動けなかった。ゆうべまで見ていた、あの眠りに沈んだ静かな村と、同じ場所とはとても思えない。ここには、死の匂いも、あの背筋を這う重い気配もない。あるのはただ、まぶしいほどにありふれた日常だった。
どこを見ても、綻びひとつ見当たらない。作り物めいた不自然さも、夢にありがちな歪みもない。ただ、あたたかくて、なつかしくて、完璧だった。その隙のなさが、かえって薄気味悪かった。
――ご主人、さま。
耳の奥で、細い声がした。ノアだ。まるで糸電話の向こうみたいに、遠くて頼りない。だが、確かに聞こえている。まだ、つながっている。それだけが、この甘ったるい景色のなかで、たったひとつの命綱だった。
俺は歩き出した。この温かさこそが、村人たちを眠りに引きずり込んでいる正体だ。壊すにせよ救うにせよ、まずはその中身を見届けないと始まらない。
道を行くと、すれ違うのは見覚えのある顔ばかりだった。
畑では、あのガロ老人が、鼻歌まじりに鍬を振るっている。井戸の縁に突っ伏していたはずの子どもは、母親の腰にしがみついて笑っていた。誰も彼も目を覚まし、幸せそうに笑っている。夢のなかで。
道端では、若い女がひとりの男に、泣きながら抱きついていた。何年も前に海で死んだ、亭主なのだろうか。男は困ったように笑って、女の背をさすっている。その向こうでは、腰の曲がった老人が、小さな女の子を膝に乗せ、昔話でも語って聞かせていた。失われたはずの者が、みんなここにいる。帰ってきている。
どの顔も、幸せそうだった。喪ったものを取り戻した者の、満ち足りた顔だ。ここには、悲しみがない。喪失がない。泣いている者さえ、それは嬉しさでこぼれる涙だった。俺は、その光景にぞっとした。あまりにも、優しすぎる。この村には、つらいものが何ひとつ、存在しないのだ。
ふと、俺の足が止まった。
人混みの向こうに、見覚えのある背中が見えた気がしたのだ。ずっと昔に、はぐれてしまった誰か。忘れたふりをして、俺自身がどこかへ置いてきた、誰か。胸の奥が、ことりと音を立てて疼いた。
――いや。
俺は頭を振った。そんなはずはない。あれは、この村の連中の夢だ。俺が見ていいものでも、手を伸ばしていいものでもない。
やがて、一軒の家の前に出た。ロレインの家だった。
窓から、そっとなかを覗く。あたたかい灯りの下で、家族が食卓を囲んでいた。ロレインによく似た、けれど頬のこけていない、健やかな女。その隣で笑う、日に焼けた大きな男。そして、その膝の上ではしゃぐ、小さな男の子。
ユナと、その夫と、ミオだった。
去年の冬に山で死んだはずの父親が、そこにいた。生きて、笑って、息子を高々と抱き上げている。ミオは、きゃっきゃと声をあげて喜んでいた。現実では、けっして戻らないはずの光景だ。
ユナは、夫の腕にそっと手を添え、その横顔を見つめていた。何度も、何度も、確かめるように。この一瞬が、二度と消えないでほしいと、祈るみたいに。
胸の奥が、ぎゅっと締めつけられた。これを、嘘だと暴くのか。この笑い声を、この灯りを、俺の手で壊すのか。俺は戸口の前で、動けなくなった。
俺の気配に気づいたのか、ユナがふと顔を上げた。
静かに立ち上がると、こちらへ歩いてくる。戸を開けて、俺と真正面から向き合った。その顔に、驚きの色はなかった。まるで、いつか俺のような者が来ることを、あらかじめ知っていたみたいに。
「よそから来た人ね。この村を、助けに来たの?」
「……ああ。あんたたちを、目覚めさせに来た。悪いが、ここは夢だ。本物じゃない。あんたの旦那は、もう――」
「知ってるわ」
ユナは静かに微笑んだ。俺の言葉を、そっと遮るように。
「これが夢だってことくらい、とっくに知ってる。あの人が、去年の冬に死んだことも。ちゃんと、この胸にあるの。忘れてなんか、いない」
俺は、言葉に詰まった。てっきり、騙されているのだと思っていた。何も知らないまま優しい嘘に呑まれ、抜け出せずにいるのだと。だが、違ったのだ。この女は、何もかもを承知したうえで、それでも、この夢のなかにいる。
「わかってて、それでも、ここにいるっていうのか」
「ええ。だって、ここには、あの人がいるもの。ミオの笑い声がある。あたたかい灯りがある。目を覚ませば、待っているのは、あの人のいない静かすぎる家だけ。がらんとした寝床だけよ」
「だが、あんたの子どもは、外で泣いてるぞ」
思わず、声が尖った。
「ミオは、毎日あんたに、起きてくれって言ってる。ロレインは、たった一人で村じゅうの世話をして、げっそり瘦せちまってる。あんたがここで笑ってるあいだ、あの姉弟は、現実であんたを待ってるんだ」
ユナの微笑みが、初めて、かすかに揺れた。
「……知ってるわ。あの子たちには、悪いと思ってる。毎日、毎日、思ってる。それでも――」
その先が、続かなかった。悪いと思いながら、それでも、この女は帰らない。夢を選び続ける。それほどまでに、この嘘は甘いのだ。俺は、返す言葉を失った。
ユナの目が、まっすぐに俺を射た。
「ねえ。どっちが本物か。どっちで生きるべきか、それを、あなたに決められるの?」
答えられなかった。
俺は、選ばせてやればいいと思っていた。これは夢だと教えてやって、そのうえで、残るか帰るかを選ばせる。それが筋だと信じていた。だが、この村の連中は、もうとっくに選んだあとだったのだ。何もかも承知のうえで、この優しい嘘のなかに留まることを。俺の考えていた「救い」は、根っこから音を立てて崩れていった。
その時だった。
風もないのに、あたりの光が、ふっとやわらかく揺らいだ。
「――ようこそ、旅の方」
声が、した。
誰の声でもなかった。どこか遠くて、限りなく優しくて、村じゅうの空気そのものから同時に降ってくるような声だった。
「ここは、失くしたものが帰ってくる場所です。あなたも、ずいぶんお疲れでしょう。長い、長い旅の途中で。行く当てもないまま、ずっと」
声は、まるで俺の胸の内を覗き込んでいるようだった。
「あなたにも、いるのではありませんか。もう一度、会いたい人が。ここでなら、叶いますよ。なにも、無理に旅を続けることは、ないのです」
その言葉が、じわりと胸に染みてきた。旅に、当てなんてない。空の彼方も、ノアの故郷も、いつ辿り着けるのかもわからない。いっそ、このまま、ここで――。
そこまで考えて、俺はぞっとした。危ない。いま、確かに、心が傾いた。この声は、人の弱った場所へ、するりと忍び込んでくる。
この声こそが、この夢を織り上げているのだ。村人に死者を返し、旅人を優しく搦めとる。俺は慌てて耳を澄ました。ノアの、あの細い声を探した。
だが――聞こえない。
いつのまにか、あの糸電話の声が途切れていた。どれだけ神経を尖らせても、聞こえてくるのは、あの甘い声だけだ。
嘘だろう。まだ、入り口を覗いただけだ。深くなんて、入っていない。それなのに、糸は切れた。あの声は、初めから、俺を逃がす気などなかったのかもしれない。
俺は、来た道を勢いよく振り返った。
道が、消えていた。
畑も、井戸も、家々も、どこまでも同じ景色が続いている。出口の見えない、あたたかい嘘。その真ん中で、俺はたった一人、立ち尽くしていた。




