第68話 夢守ロレイン
「ノア!」
俺は男を追うのをやめて、ノアの腕を両手で掴んだ。塔へ歩き出していた体が、俺の手のなかでびくりと止まる。だが、目の焦点は合っていない。青白い光を見上げたまま、ノアはまた一歩を踏み出そうとした。細い腕のはずなのに、押さえる俺の腕が持っていかれそうになる。眠り毒も夢の胞子も効かないはずのこいつが、いま確かに、あの塔に呼ばれている。
「戻ってこい、ノア。お前が聞いてるのは、ただの機械の寝言だ」
返事はない。旧文明の言葉を、塔の声にぶつけるように。しばらくして、ノアの睫毛がかすかに震えた。
「ご主人……さま」
焦点が、ゆっくりと戻ってくる。ノアは自分の手のひらを見下ろし、それから塔を見上げて、小さく息を呑んだ。何が起きたのか、自分でもわかっていない顔だった。
「わたし、いま、あの塔のほうへ――」
「いい。何も言うな。もう大丈夫だ」
そこで、男のことを思い出した。振り返ると、眠ったままの老人は、もう塔の黒い入り口に、手をかけている。まずい。距離がありすぎる。俺が地面を蹴ろうとした、その時だった。
澄んだ音が、霧を裂いた。
鈴の音だ。ちりん、ちりんと規則正しく響いてくる。すると男の足がぴたりと止まった。入り口の縁で行き先を見失ったように揺れて、それからゆっくりと膝を折り、その場に座り込む。塔に呑み込まれる寸前で、見えない糸を断ち切られたみたいだった。
音のしたほうを見た。村の路地の奥から、小さな影がまっすぐ駆けてくる。手に古びた鈴を提げた、痩せた少女だった。
「その人を、揺すらないで!そのまま、そっとして!」
少女は俺たちの脇を走り抜け、座り込んだ男の正面に膝をついた。鈴を鳴らしながら、男の名を繰り返し呼ぶ。
「ガロじいさん。ガロじいさん、聞こえてる?畑の水やりが、まだ途中だよ」
ガロと呼ばれた男の瞼が、かすかに動いた。だが、目は開かない。少女は唇を噛んで、それでも辛抱強く鈴を鳴らし続けた。
どれくらい、そうしていただろう。やがて、東の空が白んでいく。夜明けだった。塔のてっぺんの青白い光が、朝の光に溶けて消えていく。それと同時に、村じゅうにのしかかっていた重い気配も、すっと薄れた。眠り込んだ村人たちの体から、こわばりが抜けていく。ガロの寝息が、深く穏やかなものに変わった。
村のあちこちで、同じことが起きていた。夜のあいだ、館に引かれてふらふらと外へ出た者たちが、朝の光とともに、その場へ崩れ落ちる。ロレインと、数えるほどの起きている村人が、そうして倒れた者に駆け寄り、また筵をかけ、乾いた唇に水を含ませていく。誰ひとり、目を開けはしない。朝が来ても、この村の人間は、眠ったままなのだ。
「朝が来た。よかった。夜さえ越えれば、館の引く力は、弱まるの」
少女は糸が切れたように、その場へへたり込んだ。ひどく疲れた顔だ。歳のころは、リルより少し下に見える。それなのに、目のなかだけが、何年も眠っていない大人のように沈んでいた。
俺は、その少女に歩み寄った。
「あんたが、あの爺さんを助けてくれたのか」
「助けたわけじゃない。まだ引き戻せる人を、引き戻してるだけ。それだけのこと」
少女はよろよろと立ち上がり、俺たち三人を順に見上げた。
「あたし、ロレイン。この村で夢守をやってる。眠った人が、あの館に連れていかれないよう、見張ってるの」
小さな足音がして、近くの家の陰から、幼い男の子が顔を出した。まだ眠そうに、目をこすっている。
「姉ちゃん。もう、朝なの?」
ロレインが、弟のほうへ振り向いた。
「ミオ。また起きて待ってたの。だめだよ、ちゃんと寝ないと――」
言いかけて、ロレインは、はっと口をつぐんだ。この村では、ちゃんと寝ることこそが、いちばん危ない。自分で言った皮肉に、いま気づいた顔だった。ミオと呼ばれた男の子は、こくりとうなずいて、姉の背に半分だけ隠れる。大きな目で、俺たちを、じっと見上げていた。
ロレインは、俺たちを自分の家に招き入れてくれた。
狭い居間の隅に、女がひとり、眠っていた。薄い毛布をかけられ、頬はげっそりとこけている。それでも、その寝顔だけは、ずいぶん穏やかだった。ミオが当たり前のように、その女のそばへ、寄り添った。
「母さんだよ。もうひと月も、目を覚まさないの」
ロレインの声が、少しだけ低くなった。
「父さんが去年の冬に、山で死んだ。それから母さんは、塔の夢に――みんなが〈夢の館〉って呼んでる場所に、通うようになった。あの館のなかでなら、死んだ父さんに、また会えるから」
ミオが、眠る母の頬にそっと手を伸ばした。
「母さん。起きてって、毎日言ってるんだよ。でも、ちっとも起きないんだ」
舌足らずの、心細い声だった。ロレインが、その小さな肩をそっと抱き寄せる。
ロレインは、毎日欠かさず、眠った母に栄養剤を少しずつ飲ませているのだという。ほかの眠り手にも、起きている数人で手分けして、代わる代わる栄養剤を運ぶ。軽い子どもなら、家のなかへ抱えて移す。そうやって、村じゅうの眠り手を、どうにか生かしている。だが、瘦せていく体を見れば、それがいつまで続けられるかは、誰にもわからなかった。
夢の館、か。
ロレインが語ったのは、こういう話だった。あの塔は、眠った者の心に夢を送り込む。その夢のなかでは、失くしたものがみんな帰ってくるのだという。死んだ家族も、焼けた家も、二度と戻らないはずの昔の暮らしも。だから村人は、こぞって眠りたがる。覚めたくない優しい夢のなかへ、自分から進んで沈んでいく。
最初は、うたた寝くらいのつもりなのだという。だが、夢のなかはあまりに居心地がいい。死んだ者が笑い、失われた日々が、そっくり戻っている。一度その味を覚えてしまえば、味気ない現実の側になんて、もう帰りたくなくなる。そうやって村人は、一人また一人と、館の奥へ沈んでいったのだ。
いまこの村で起きているのは、ロレインとミオ、それに数人の年寄りだけらしい。ほかの連中はもう、すっかり館の住人になってしまった。なかには、夜になると自分から家を抜け出し、塔へ歩いていこうとする者もいる。ロレインが引き止めても、うっとりした顔で、振りほどく。あそこには死んだ家族がいる、邪魔をするな、と。この幼い姉弟がたったひとりぶんの手で、そんな村人たちを、毎晩引き戻し続けているのだ。
リルが、痛ましそうに、眉を寄せた。
「ねえ。無理にでも、起こそうとはしなかったの?」
「したよ。何度も、何度も」
ロレインは首を振って、目を伏せた。
「でも、みんな戻りたがらないの。目を覚ますと、泣くの。どうして起こしたって、あたしを責める。夢のなかのほうが、幸せだから。ねえ、眠ってる人を起こすのって、そんなにいいことなのかな。あたし、最近それが、わからなくなってきた」
俺は、眠る女の顔をあらためて見た。穏やかで、満ち足りて、幸せそうだった。ふいに、ヴェルダントで見たあの静かな庭を思い出す。帰らない主を、一万年も待ち続けた優しい嘘の庭。あそこも、この村も、根っこはよく似ている。誰もが心地よい嘘のなかで、静かに笑っているのだ。
だがな、と俺は思う。
その嘘は、人をゆっくり壊していく。げんに夢の館は、この村をまるごと廃人に変えようとしている。このまま放っておけば、いつかほんとうに、誰も目を覚まさなくなる。眠ったまま朽ちていくだけだ。それはもう、幸せとは呼べない。
「壊すつもりはない」
俺は、ロレインにそう言った。
「その夢を、力ずくで奪ってやろうってわけじゃない。だがな、選ばせてやることは、できるはずだ。自分がいま夢のなかにいると本人がわかったうえで、それでも残るのか、帰るのか。せめて、それくらいの自由は、あっていい」
ロレインが、ゆっくり顔を上げた。信じられないものを見る目だった。
「そんなこと、ほんとにできるの?」
「わからん。だが、まずは館のなかを見ないことには、何も始まらない」
ちらりと、ノアを見た。あの塔に名前を呼ばれてから、こいつはずっと、口数が少ない。何かを思い出しかけて、あと一歩で、届かずにいる。そんな横顔だった。
俺は、窓の外にそびえる塔を、あおいだ。要するに、あの夢の館とやらに、こっちから乗り込んでやればいい。眠った村人が引きずり込まれる場所なら、起きたまま覗きに行く手立てを、探すまでだ。
黙って聞いていたノアが、静かに口を開いた。
「……ひとつだけ、手があるかもしれません」
俺たちの視線が、いっせいにノアへ集まる。
「ごく浅い夢になら、短いあいだだけ、潜り込めるかもしれません。わたしの黒鴉で、夢のなかのご主人様と外とを、細い糸でつないだまま。深く入りすぎる前に、こちらから引き上げます」
「戻ってこられる保証は、あるのか」
「ありません。ですが、館の入り口を覗くだけなら」
ロレインが、勢いよく顔を上げた。
「だったら、あたしも連れていって。夢のなかのことなら、あたしがいちばん詳しいから」
「だめだ。お前が眠ったら、この村の鈴を鳴らす者がいなくなる。お前は、ここで俺たちの綱を、握っててくれ」
ロレインは何か言いかけて、それをぐっと呑み込んだ。それから、こくりとうなずく。
危ない賭けだった。眠れば二度と戻らないかもしれない村で、よりにもよって、自分から眠ろうというのだ。正気の沙汰じゃない。だがな、ほかにやりようがなかった。村人を起こすにも、信号の出どころへ近づくにも、あの夢の正体をこの目で確かめるしかない。それに――あの塔は、ノアを名指しで呼んだ。その理由もきっと、館のいちばん奥にある。
「よし。だったら、やってみるか」
俺の言葉に、ロレインが、両手をぎゅっと握りしめた。ミオが、眠る母の手を、そっと握り直す。
夜が来たら、俺たちは、夢のなかへ潜る。失くしたものがみんな帰ってくるという、あの優しい嘘の、いちばん奥へ。




