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レリック・ワールド ~最強の遺跡探索者、銀髪の少女と メイドの自動人形と、終わった世界の謎を解く~  作者: トンエリア
第04編〈海域〉アビス

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第68話 夢守ロレイン

「ノア!」


 俺は男を追うのをやめて、ノアの腕を両手で掴んだ。塔へ歩き出していた体が、俺の手のなかでびくりと止まる。だが、目の焦点は合っていない。青白い光を見上げたまま、ノアはまた一歩を踏み出そうとした。細い腕のはずなのに、押さえる俺の腕が持っていかれそうになる。眠り毒も夢の胞子も効かないはずのこいつが、いま確かに、あの塔に呼ばれている。


「戻ってこい、ノア。お前が聞いてるのは、ただの機械の寝言だ」


 返事はない。旧文明の言葉を、塔の声にぶつけるように。しばらくして、ノアの睫毛がかすかに震えた。


「ご主人……さま」


 焦点が、ゆっくりと戻ってくる。ノアは自分の手のひらを見下ろし、それから塔を見上げて、小さく息を呑んだ。何が起きたのか、自分でもわかっていない顔だった。


「わたし、いま、あの塔のほうへ――」


「いい。何も言うな。もう大丈夫だ」


 そこで、男のことを思い出した。振り返ると、眠ったままの老人は、もう塔の黒い入り口に、手をかけている。まずい。距離がありすぎる。俺が地面を蹴ろうとした、その時だった。

 澄んだ音が、霧を裂いた。

 鈴の音だ。ちりん、ちりんと規則正しく響いてくる。すると男の足がぴたりと止まった。入り口の縁で行き先を見失ったように揺れて、それからゆっくりと膝を折り、その場に座り込む。塔に呑み込まれる寸前で、見えない糸を断ち切られたみたいだった。

 音のしたほうを見た。村の路地の奥から、小さな影がまっすぐ駆けてくる。手に古びた鈴を提げた、痩せた少女だった。


「その人を、揺すらないで!そのまま、そっとして!」


 少女は俺たちの脇を走り抜け、座り込んだ男の正面に膝をついた。鈴を鳴らしながら、男の名を繰り返し呼ぶ。


「ガロじいさん。ガロじいさん、聞こえてる?畑の水やりが、まだ途中だよ」


 ガロと呼ばれた男の瞼が、かすかに動いた。だが、目は開かない。少女は唇を噛んで、それでも辛抱強く鈴を鳴らし続けた。

 どれくらい、そうしていただろう。やがて、東の空が白んでいく。夜明けだった。塔のてっぺんの青白い光が、朝の光に溶けて消えていく。それと同時に、村じゅうにのしかかっていた重い気配も、すっと薄れた。眠り込んだ村人たちの体から、こわばりが抜けていく。ガロの寝息が、深く穏やかなものに変わった。

 村のあちこちで、同じことが起きていた。夜のあいだ、館に引かれてふらふらと外へ出た者たちが、朝の光とともに、その場へ崩れ落ちる。ロレインと、数えるほどの起きている村人が、そうして倒れた者に駆け寄り、また筵をかけ、乾いた唇に水を含ませていく。誰ひとり、目を開けはしない。朝が来ても、この村の人間は、眠ったままなのだ。


「朝が来た。よかった。夜さえ越えれば、館の引く力は、弱まるの」


 少女は糸が切れたように、その場へへたり込んだ。ひどく疲れた顔だ。歳のころは、リルより少し下に見える。それなのに、目のなかだけが、何年も眠っていない大人のように沈んでいた。

 俺は、その少女に歩み寄った。


「あんたが、あの爺さんを助けてくれたのか」


「助けたわけじゃない。まだ引き戻せる人を、引き戻してるだけ。それだけのこと」


 少女はよろよろと立ち上がり、俺たち三人を順に見上げた。


「あたし、ロレイン。この村で夢守をやってる。眠った人が、あの館に連れていかれないよう、見張ってるの」


 小さな足音がして、近くの家の陰から、幼い男の子が顔を出した。まだ眠そうに、目をこすっている。


「姉ちゃん。もう、朝なの?」


 ロレインが、弟のほうへ振り向いた。


「ミオ。また起きて待ってたの。だめだよ、ちゃんと寝ないと――」


 言いかけて、ロレインは、はっと口をつぐんだ。この村では、ちゃんと寝ることこそが、いちばん危ない。自分で言った皮肉に、いま気づいた顔だった。ミオと呼ばれた男の子は、こくりとうなずいて、姉の背に半分だけ隠れる。大きな目で、俺たちを、じっと見上げていた。


 ロレインは、俺たちを自分の家に招き入れてくれた。

 狭い居間の隅に、女がひとり、眠っていた。薄い毛布をかけられ、頬はげっそりとこけている。それでも、その寝顔だけは、ずいぶん穏やかだった。ミオが当たり前のように、その女のそばへ、寄り添った。


「母さんだよ。もうひと月も、目を覚まさないの」


 ロレインの声が、少しだけ低くなった。


「父さんが去年の冬に、山で死んだ。それから母さんは、塔の夢に――みんなが〈夢の館〉って呼んでる場所に、通うようになった。あの館のなかでなら、死んだ父さんに、また会えるから」


 ミオが、眠る母の頬にそっと手を伸ばした。


「母さん。起きてって、毎日言ってるんだよ。でも、ちっとも起きないんだ」


 舌足らずの、心細い声だった。ロレインが、その小さな肩をそっと抱き寄せる。


 ロレインは、毎日欠かさず、眠った母に栄養剤を少しずつ飲ませているのだという。ほかの眠り手にも、起きている数人で手分けして、代わる代わる栄養剤を運ぶ。軽い子どもなら、家のなかへ抱えて移す。そうやって、村じゅうの眠り手を、どうにか生かしている。だが、瘦せていく体を見れば、それがいつまで続けられるかは、誰にもわからなかった。


 夢の館、か。

 ロレインが語ったのは、こういう話だった。あの塔は、眠った者の心に夢を送り込む。その夢のなかでは、失くしたものがみんな帰ってくるのだという。死んだ家族も、焼けた家も、二度と戻らないはずの昔の暮らしも。だから村人は、こぞって眠りたがる。覚めたくない優しい夢のなかへ、自分から進んで沈んでいく。

 最初は、うたた寝くらいのつもりなのだという。だが、夢のなかはあまりに居心地がいい。死んだ者が笑い、失われた日々が、そっくり戻っている。一度その味を覚えてしまえば、味気ない現実の側になんて、もう帰りたくなくなる。そうやって村人は、一人また一人と、館の奥へ沈んでいったのだ。

 いまこの村で起きているのは、ロレインとミオ、それに数人の年寄りだけらしい。ほかの連中はもう、すっかり館の住人になってしまった。なかには、夜になると自分から家を抜け出し、塔へ歩いていこうとする者もいる。ロレインが引き止めても、うっとりした顔で、振りほどく。あそこには死んだ家族がいる、邪魔をするな、と。この幼い姉弟がたったひとりぶんの手で、そんな村人たちを、毎晩引き戻し続けているのだ。

 リルが、痛ましそうに、眉を寄せた。


「ねえ。無理にでも、起こそうとはしなかったの?」


「したよ。何度も、何度も」


 ロレインは首を振って、目を伏せた。


「でも、みんな戻りたがらないの。目を覚ますと、泣くの。どうして起こしたって、あたしを責める。夢のなかのほうが、幸せだから。ねえ、眠ってる人を起こすのって、そんなにいいことなのかな。あたし、最近それが、わからなくなってきた」


 俺は、眠る女の顔をあらためて見た。穏やかで、満ち足りて、幸せそうだった。ふいに、ヴェルダントで見たあの静かな庭を思い出す。帰らない主を、一万年も待ち続けた優しい嘘の庭。あそこも、この村も、根っこはよく似ている。誰もが心地よい嘘のなかで、静かに笑っているのだ。

 だがな、と俺は思う。

 その嘘は、人をゆっくり壊していく。げんに夢の館は、この村をまるごと廃人に変えようとしている。このまま放っておけば、いつかほんとうに、誰も目を覚まさなくなる。眠ったまま朽ちていくだけだ。それはもう、幸せとは呼べない。


「壊すつもりはない」


 俺は、ロレインにそう言った。


「その夢を、力ずくで奪ってやろうってわけじゃない。だがな、選ばせてやることは、できるはずだ。自分がいま夢のなかにいると本人がわかったうえで、それでも残るのか、帰るのか。せめて、それくらいの自由は、あっていい」


 ロレインが、ゆっくり顔を上げた。信じられないものを見る目だった。


「そんなこと、ほんとにできるの?」


「わからん。だが、まずは館のなかを見ないことには、何も始まらない」


 ちらりと、ノアを見た。あの塔に名前を呼ばれてから、こいつはずっと、口数が少ない。何かを思い出しかけて、あと一歩で、届かずにいる。そんな横顔だった。

 俺は、窓の外にそびえる塔を、あおいだ。要するに、あの夢の館とやらに、こっちから乗り込んでやればいい。眠った村人が引きずり込まれる場所なら、起きたまま覗きに行く手立てを、探すまでだ。

 黙って聞いていたノアが、静かに口を開いた。


「……ひとつだけ、手があるかもしれません」


 俺たちの視線が、いっせいにノアへ集まる。


「ごく浅い夢になら、短いあいだだけ、潜り込めるかもしれません。わたしの黒鴉で、夢のなかのご主人様と外とを、細い糸でつないだまま。深く入りすぎる前に、こちらから引き上げます」


「戻ってこられる保証は、あるのか」


「ありません。ですが、館の入り口を覗くだけなら」


 ロレインが、勢いよく顔を上げた。


「だったら、あたしも連れていって。夢のなかのことなら、あたしがいちばん詳しいから」


「だめだ。お前が眠ったら、この村の鈴を鳴らす者がいなくなる。お前は、ここで俺たちの綱を、握っててくれ」


 ロレインは何か言いかけて、それをぐっと呑み込んだ。それから、こくりとうなずく。

 危ない賭けだった。眠れば二度と戻らないかもしれない村で、よりにもよって、自分から眠ろうというのだ。正気の沙汰じゃない。だがな、ほかにやりようがなかった。村人を起こすにも、信号の出どころへ近づくにも、あの夢の正体をこの目で確かめるしかない。それに――あの塔は、ノアを名指しで呼んだ。その理由もきっと、館のいちばん奥にある。


「よし。だったら、やってみるか」


 俺の言葉に、ロレインが、両手をぎゅっと握りしめた。ミオが、眠る母の手を、そっと握り直す。

 夜が来たら、俺たちは、夢のなかへ潜る。失くしたものがみんな帰ってくるという、あの優しい嘘の、いちばん奥へ。


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