第67話 眠らない村へ
霧が濃くなったのは、高原に入ってすぐのことだった。
鯨号の窓の外は、道の先も、来た道も見えない。ヘッドライトの光が霧に跳ね返って、そのまま溶けていく。俺は運転席のノアの背中越しに、その白さをぼんやり眺めていた。前へ進んでいるのか、同じ場所で足踏みしているのか、視界だけでは判じがたい。
「うわ、なんにも見えない。ねえクロウ、この霧いつまで続くの」
助手席のリルが、窓に頬を押しつけて、退屈そうに唸る。銀のサイドテールが、ぱたぱたと跳ねていた。鯨号に乗りっぱなしで、もう二日になる。
「わからないな。俺だって初めて来る土地だ」
「ボズのじいちゃんは、丸二日はかかるって言ってたよね。おまけに、年がら年中この霧だって」
「その霧の奥に、でかい塔が一本立ってる。行き先としちゃ、わかりやすくていい」
俺たちが目指しているのは、〈ソムニア〉だ。
今も空と言葉を交わすという、たったひとつの塔。地上のほかの塔は、とうに空との耳を失っている。あの召集の信号がどこから来るのか、それを確かめられる場所は、もうそこしかない。
「単純すぎて、逆に嫌な予感がするけどね」
リルが唇を尖らせて言う。俺も同じことを考えていたが、口にはしなかった。旅に出てからこっち、簡単そうな話ほど厄介だったためしがない。
霧が薄れたのは、そこから一時間ばかり走ったころだった。
まず、塔が見えた。
高原の真ん中に、灰色の針が一本、天へ向かって突き立っている。根元は太く、上へ行くほど細く、てっぺんは低い雲に呑まれて見えない。旧文明のものだと、ひと目でわかった。俺たちの街の一番高い塔を、何本積み上げたところで届きそうにない。人の手で建てたものとは、規模が違う。
その根元に、小さな村があった。畑があり、井戸があり、家が二十軒ばかり寄り集まっている。塔の巨大さと並べると、子どもの玩具みたいに頼りなく見えた。
鯨号を村の少し手前で止めて、俺たちは外へ降りた。
だが――村が、静かすぎた。畑に人影はない。井戸端にも、道の上にも。犬の吠える声も、子どもの騒ぐ声もしない。家々の煙突からは細く煙が上がっているのに、戸を開けて出てくる者はひとりもいなかった。生きているのに、みなで息を潜めているような、そういう種類の静けさだった。
妙な光景も、あった。井戸の脇に、水を汲みかけの桶が転がっている。中身がこぼれて、地面に黒い染みを作っていた。物干し竿には、乾いた洗濯物が、何日も取り込まれないまま揺れている。まるで、時間が途中で止まってしまったみたいだ。
「……誰も、いないの?」
リルが囁く。
「いや」
俺は畑のほうへ顎をしゃくった。畝と畝のあいだに、人がひとり倒れている。
駆け寄ると、老いた男が土の上に横たわっていた。手には、鍬を握ったままだ。畑を耕している途中で、そのまま崩れ落ちたらしい。
俺は膝をつき、男の肩に触れた。肌は、ちゃんと温かい。胸は、ゆっくりと上下している。
「生きてる。寝てるだけだ」
「こんな畑のど真ん中で?」
リルも屈んで、男の顔を覗き込んだ。男は目を閉じ、口元をわずかにゆるめている。眠りながら、うっすらと笑っていた。よほど楽しい夢でも見ているみたいに。
肩を叩いても、耳元で呼んでも、男はまるで起きなかった。眉ひとつ動かさない。ただ、笑っている。
「ご主人様」
ノアの声が、いつもより硬い。振り返ると、ノアは村の奥――塔のほうへ、顔を向けていた。
「この方だけ、ではありません」
言われて、俺は改めて村を見回した。
開け放したままの戸口に、女がひとり座り込んでいる。壁にもたれ、目を閉じて。物干しの下では、洗濯物を胸に抱えた若い男が、地べたに転がって眠っている。井戸の縁に、上体を突っ伏した子どもがひとり。どれも死んではいない。呼吸はある。ただ、眠っている。
そして、眠った者はみな、同じ方角へ顔を向けていた。
塔のほうへ。
誰もが、うっすらと笑みを浮かべている。その顔は穏やかで、幸せそうで――だからこそ、ぞっとした。悪夢にうなされているなら、まだいい。こいつらは、覚めたくない夢の中へ、進んで沈んでいる。そんなふうに見えた。
背筋を、いやなものがゆっくり這い上がってきた。
「あんたら、旅の者かい」
しわがれた声がして、俺は振り向いた。
一軒の家の陰から、痩せた老人が姿を見せる。片手に杖、もう片方の手に手回しのランプ。目の下は落ちくぼみ、頬はこけ、何日もまともに寝ていない顔をしていた。起きて動いている村人を、俺はこの村で初めて見た。
俺は立ち上がった。
「ああ。街から来た。この人たちは、いったい――」
老人は、鍬を握った男を杖の先で示した。
「眠ってる。もう三日、こいつは起きん。悪いことは言わん。あんたらも、この村で眠るな。日が暮れきる前に、行けるところまで行っちまえ」
「眠るな、ってのは。どういう意味だ」
老人の声が、ひび割れた。
「聞いたまんまの意味さ。ここらで眠ると、二度と目を覚まさん者が出る。塔のせいだ。あの忌々しい塔が、人の眠りを、根こそぎ――」
そこまで言って、老人は口をつぐんだ。
塔を見上げ、何か恐ろしいものから目を逸らすように、視線を落とす。それきり、続きを言わなかった。
俺は、塔をもう一度見上げた。
空へ突き立った、灰色の針。てっぺんは雲の中で、何を考えているのかもわからない。あれが空と喋る塔で、なおかつ村の連中の眠りを奪っているのなら――俺たちの探しものと、この村に降りかかった災難は、繋がっている。
都合がいい話だ、と思う自分がいた。信号の出どころに一番近い場所が、ちょうど困り果てている。
だが、それだけでは、なかった。
畑で笑って眠る男を、井戸に突っ伏した子どもを、そのまま見捨てて先へ進むという選び方は、俺にはできそうもない。森でも、砂漠でも、結局そうやってきた。目の前で困っている奴を、放っておけない。我ながら、厄介な性分だと思う。
「爺さん。俺たちは、行かないぞ」
老人が、俺を睨んだ。
「話を聞いてなかったのか。眠れば、二度と――」
「なら、眠らなきゃいい話だろ。それに、この人たちを起こす手があるなら、俺たちが探す」
横で、リルがにっと笑った。ノアは何も言わず、ただ小さくうなずいてみせる。それで十分だった。俺たちは、いつもこうだ。
老人はしばらく俺たちを見比べていたが、やがて杖の先で、こつ、と地面を叩いた。
「勝手にしろ。だが、忠告はしたぞ」
老人は、しわの寄った目をわずかに細めた。
「この村じゃ、優しい夢ほど、質が悪いんだ」
夜は、思ったより足早に来た。
高原の日暮れは、あっという間だ。塔の長い影が村に伸び、家々を一軒ずつ呑み込んでいく。起きている村人は、あの老人のほかに、数えるほどしかいなかった。みな戸を固く閉ざし、明かりを細く絞って、じっと息を潜めている。眠りに落ちるのを、恐れて。
俺たちは鯨号を村の外れに寄せ、交代で起きていることにした。眠るのが危ないなら、話は簡単だ。誰かひとりが必ず起きていればいい。
「最初は俺が見張る。リル、ノア、お前らは中で――」
リルが、間髪入れずに言った。
「あたしも起きてる。こんな不気味なとこで、一人だけぐっすり寝るとか、無理だから」
ノアは、窓の外をじっと見ていた。塔のほうを。
「ノア?」
「……いえ」
ノアは微笑んだ。だが、その微笑みは、いつもの半分だけだった。
「なんでもございません。お茶を、お淹れしますね」
夜が、更けていった。
村は、墓のように静かだった。虫の音ひとつしない。あるのは、高原を渡る風の音と、遠くで軋む塔の金属の音だけだ。俺は鯨号の甲板に立って、その針のような影を見上げていた。てっぺんを覆う雲が、ときおり青白く光る。ゆっくりと、呼吸するみたいに。明るくなって、暗くなって、また明るくなって。
時間の感覚が、だんだん怪しくなってくる。まだ真夜中のはずなのに、もう何時間もこうして立っている気がした。瞼が、少しずつ重い。まずいな、と首を振る。眠るなと言われた矢先に、これだ。あの青白い光を見ていると、どうにも、意識が引っ張られる。
――こつ、こつ。
乾いた音がした。
村のほうだ。俺は目を凝らした。
閉じていたはずの家の戸が、ひとつ、開いている。そこから、人が出てきた。
畑で眠っていた、あの老いた男だった。三日も目を覚まさなかったはずの男が、鍬も持たず、裸足のまま、道を歩いている。目は、閉じたままだ。眠りながら、歩いていた。
その足は、まっすぐ、塔へ向いている。
「クロウ、あれ――」
リルも気づいて、腰を浮かせた。
俺は甲板を蹴り、地面へ飛び降りた。男を追う。眠ったまま塔へ吸い寄せられていく男を、黙って見送れるわけがない。
「おい、爺さん!起きろ、そっちは――」
声は、届かない。男は歩き続ける。塔の根元にぽっかり開いた、黒い入り口のほうへ。
あと数歩で追いつく、というところで――背後の足音が、ふつりと止まった。
ノアの足音だ。
振り返ると、ノアが、道の真ん中で凍りついていた。
いつも冷静で、何が起きても揺らがないあいつが。塔を見上げたまま、指一本、動かさない。両手を胸の前できつく握りしめて、まるで、何かに縫い留められたように。
「ノア?」
ノアは、答えなかった。その唇が、かすかに動く。俺の知らない言葉を、そっとなぞるように。
やがて、ノアは言った。
「――呼んで、います」
その声は、震えていた。ノアの声が震えるのを、俺は初めて聞いた。
「あの塔が。わたしを、呼んでいます。ずっと、ずっと昔に――どこかで聞いた、声で」
塔のてっぺんの雲が、大きく脈打った。
青白い光が、針を伝って地上へと降りてくる。眠った男が、黒い入り口へと、足を踏み入れる。そして、ノアが――俺のいるほうではなく、塔のほうへ向かって、ふらりと、一歩を踏み出した。




