第66話 空への糸口
二日酔いの朝は、いつだって最悪だ。
俺は鯨号の甲板に出て、冷たい水を頭からかぶった。ゆうべの祝い酒が、まだ後頭部の奥で疼いている。エルフの国との同盟を持ち帰った、その祝杯だ。旅に出てからこっち、あんなに飲んだのは久しぶりだった。ギルド長に何度も手を握られ、街の連中に酒を奢られ、気づけば夜が明けていた。
「クロウ、ひどい顔」
リルが、平気な顔でパンをかじりながら言う。
「うるさい。お前は少し、心配しろ」
水を拭って、俺は街のほうへ目をやった。
アステライアは、今朝も騒がしい。荷車が石畳を鳴らし、露店の親父が声を張り上げている。昼前だというのに、酒場からは陽気な歌が漏れていた。エルフの森の、あの静けさが、もう遠い昔のことみたいだ。俺はやっぱり、こういう人くさい場所のほうが、性に合っているらしい。
甲板の下では、ノアが朝の支度をしていた。あたたかいスープの匂いが、換気口から立ちのぼってくる。
「ご主人様。お水は、飲むためのものです。頭からかぶるものではありません」
昇降口から顔を出したノアが、呆れたように微笑む。手には、湯気の立つ椀があった。
「わかってる。だが、こうしないと目が覚めん」
「では、これも。飲めば、少しは楽になります」
椀を受け取ると、生姜のきいた匂いが鼻を抜けた。ひと口すすると、荒れた胃の底が、じんわりとほどけていく。この子はどこまでも気が利く。ゆうべ潰れた俺のため
に、朝からこんなものまで用意していたのか。
「……助かる」
「いつものことです」
ノアはそう言って、また下へ戻っていった。
リルはもう二枚目のパンに手を伸ばしている。旅の疲れなど、どこ吹く風だ。こういう連中と食う朝飯は、いつも賑やかでいい。
昨日、俺は宣言した。次の行き先が決まった、と。
空の彼方。召集の信号の、出どころ。旧文明の連中が去っていった、あの空の上だ。
だが――勢いで口にしたはいいが、肝心の一点が、すっぽり抜けている。
どうやって、そこまで行くのか。
俺たちには翼がない。上へ伸びる梯子も、雲を突き抜ける手立ても、何ひとつ持っていない。鯨号は頼もしい我が家だが、こいつは地を這う鯨だ。空を飛べるなんて話は、聞いたためしがない。
俺は椀を手に、空を見上げた。街の煙にかすんではいるが、そのずっと上。あの号令が鳴り続けているという、空の彼方。行くとは決めた。だが、その入り口さえ、俺たちはまだ知らなかった。
飯を食い終える頃、ノアが一枚の紙を、卓に広げた。
古い文字が、びっしり詰まった写しだ。俺には、模様にしか見えない。シルヴァリアの禁書庫で、この子が書き写してきたものだった。同盟の、もう一つの報酬。あの森を出る前、ノアはそこで、旧文明の記録を片端から読み漁っていた。
「ずっと、気になっていたことがあります。あの召集の信号。あれは、空の上から鳴っています。世界じゅうの機械に、応えよ、と命じながら」
「ああ。だが、応えたくても応えられん機械が、ほとんどだ」
俺はスープをすすった。ヴェルダントでも、そうだった。地上の遺跡はどれも、長い年月で回線が切れ、空との耳を潰している。号令だけが一方的に届いて、機械たちは、半分寝ぼけたまま暴れ出す。
「ええ。地上の塔は、もう空へ返事ができません。ですが――記録に、一つだけ、例外がありました」
ノアの指が、写しの隅で止まった。
そこに記された名を、この子は静かに読み上げた。
「〈ソムニア〉。地上と、空の彼方をつなぐために造られた塔。旧文明の者たちは、この塔を通じて、上とやりとりをしていた――と」
地上と、空をつなぐ塔。
俺は思わず身を乗り出した。それだ。まさに、探していたものだ。
「じゃあ、その塔がまだ生きてるなら――」
「空の上に、何があるのか。直接、聞けるかもしれません」
リルが、パンをくわえたまま目を丸くした。
「え、待って。それって、すごい手がかりじゃない?」
「ああ」
俺はうなずいた。久しぶりに、まともな道しるべだ。あてもなく空を見上げるだけの朝は、これで終わりらしい。
単純な話だった。空へ上がる手立てが、まだ見つからないなら。まずは、空とまだ言葉を交わせる、たったひとつの塔を訪ねればいい。信号の出どころへ、一緒に耳を澄ませてくれる相棒が、いるかもしれない。運が良ければ、上へ行く道筋も、そこで掴める。
問題は、その塔がどこにあるのかだ。写しには、名前しか書かれていない。
こういう時に頼る相手は、決まっている。
昼過ぎ、俺たちはボズの店へ足を運んだ。
道すがら、何人もの冒険者が、俺に声をかけてきた。同盟の立役者だと、もう街じゅうに知れ渡っているらしい。背中を叩かれ、酒に誘われ、そのたびに愛想笑いを返す。むず痒くて、かなわない。名も金もない風来坊が、一夜にして時の人だ。世の中、わからないものだと思う。だが、こういう風向きの日も、たまにはある。長いこと、貧乏くじばかり引いてきたんだ。今日くらいは、素直に浮かれておこう。
薄暗い店の奥では、痩せた老人が、拡大鏡を片目に嵌めて、古い歯車をいじっていた。アステライア一の目利きにして、この街の裏も表も知り尽くした、生き字引だ。俺たちの顔を見るなり、ボズはにやりと笑った。
「聞いたぞ。エルフの国と、盟約を結んだんだってな。とんでもねえ土産を持って帰りやがって」
「耳が早いな、爺さん」
「この街で、俺の耳より早いものはねえよ。で、次はどこへ行く気だ。その顔は、また厄介ごとに首を突っ込む顔だぞ」
俺はカウンターにノアの写しを広げ、その一点を指した。
「〈ソムニア〉。この名前に、心当たりは」
ボズは拡大鏡を覗き込み、それからしばらく、記憶をたぐるように黙り込んだ。
「ソムニアねえ。ずいぶんと、古い名前を引っ張り出してきたな。
やがて彼は、棚から一枚の古地図を取り出した。埃を払い、卓の上に広げる。骨ばった指が、地図の北の端を、とんと叩いた。
「あるにはある。ここだ。だが、辺鄙なとこだぞ。高原のど真ん中に、でかい塔が一本、突っ立ってるだけの土地さ。人もろくに住んじゃいねえ」
「その塔が、空とつながってるらしい。地上で、たぶん唯一な」
「今も生きてる、ってのか。そいつが本当なら、大したもんだ。空の上に何があるか知りたきゃ、まだ耳の生きてる塔に、直接聞くのが早い。理屈はわかる」
「行き方は」
「鯨号でも、丸二日はかかる。道も悪い。おまけに、あのあたりは年がら年中、深
い霧が出てるって話だ。旅人も、まず寄りつかん」
ボズは地図を巻いて、俺に押しつけた。
「持ってけ。餞別だ」
礼を言って、俺は地図を受け取った。丸二日の道のりか。遠いな。だが、遠いのは慣れてる。海の底にだって潜ったんだ。高原くらい、どうってことはない。
だが、と俺は思う。
都合のいい話には、いつも裏がある。
「爺さん。その塔、なんで誰も行かないんだ。空とつながる遺跡なんて、財団あたりが、真っ先に群がりそうなもんだが」
ボズの手が、ぴたりと止まった。
「お前、鋭いな。実はな、ここひと月ばかり、妙な話を耳にする。旧文明の遺跡を血眼で漁ってる、あの灰色の紋章の連中。あいつらが、やけに北の高原へ人を送り込んでるらしい」
灰色の円に、鍵と歯車。財団の紋章だ。
ヴェルダントを出た街道で、すれ違ったあの一団を思い出す。痩せた男が、こう嘯いた。あの心臓は、我々も欲しかった、と。
連中は、置いていかれた者たちを、目覚めさせて回っている。鎖に繋いで、利用するために。空とつながる塔なんてものは、あいつらにとっては、喉から手が出るほどの獲物だろう。
「先を越されるかもね」
「かもな。だが、行くしかない。他に当てがない。それに――放っておいたら、ろくなことにならない気がする」
ボズはしばらく俺たちを見ていた。それから、疲れたように笑う。
「相変わらず、貧乏くじの引き方だけは天下一品だな、お前らは」
「よく言われる」
店を出る間際、ボズが、ぼそりと付け加えた。
「気をつけろよ。その記録の、続きだ。塔がなんで空とつながってるか、書いてあ
ったろう。その、もう一歩先まで、ちゃんと読んだか」
俺は足を止めた。ノアが、写しの最後の一行に、視線を落とす。
その横顔が、わずかに、こわばった。
「〈刻限、近シ〉」
ノアは静かに読み上げた。
「〈住人、帰還ノ刻、近シ。全機、刻限マデニ完成セヨ〉。あの信号は、ただの呼びかけでは、ないのかもしれません」
呼びかけじゃない。
あれは――期限だ。何かの、締め切り。
空の上で、誰かが、刻を数えている。世界じゅうの、眠れる機械に向けて。急げ、間に合わせろ、と。
そしてその塔は、その号令を、今も一番近くで聞いている。
ゆうべの酔いとは違う冷たさが、背筋を撫でていった。




