第65話 次の庭へ
アステライアの街は、相変わらず騒がしかった。
石畳の道を荷車が行き交い、露店の親父が声を張り上げている。酒場からは、昼間だというのに、陽気な歌が漏れていた。エルフの森のあの静けさとは、まるで別世界だ。俺はその喧騒の中を歩きながら、なんだか、ほっとしている自分に気づいた。
どうやら俺には、こういう人くさい場所のほうが性に合っているらしい。
三人とも、ぼろぼろだった。服は、緑の汁と土で汚れきっている。ノアの制服にも、蔓に引き裂かれた跡がいくつも残っていた。だが全員、五体満足で、こうして帰ってきた。あの生きた森の、腹の中から。それだけで、上出来の遠征だ。
「ただいま、って感じだね」
「ああ。腹が減ったな。まずは飯だ」
「その前に、ギルドでしょ。報告と、報酬」
違いない。何しろ、こっちはすっからかんだ。エルフの国との同盟なんて立派な土産があっても、それで今夜の宿代が払えるわけじゃない。
ギルド、アステライア。俺たちの根城だ。
いつもの受付の窓口に、いつもの受付嬢が座っていた。俺たちの顔を見るなり、彼女はあからさまに、げんなりした顔をした。
「あら。生きて帰ってきたんですね。てっきり、森の肥やしにでもなったかと」
「おかげさまでな。ほら、依頼達成の証拠だ」
俺はカウンターに、オルウェンから預かったあの巻物を、どんと置いた。
「はいはい、報告書ね。どうせまた、報酬は現物で――」
書状を面倒くさそうに開いた受付嬢の動きが、ぴたりと止まった。
一度、二度、三度と読み返す。それから、ゆっくりと顔を上げた。その顔から、いつもの皮肉屋の余裕が、すっかり消えていた。
「……クロウさん。これ、本物ですか」
「大真面目だ。翠林皇国との、正式な盟約書だよ。エルフの国が、俺たちと手を組みたいとさ」
受付嬢が、がたんと椅子を鳴らして立ち上がった。
「ちょ、ちょっと待っててください! ギルド長を呼んできます! こんなの、あたしの一存じゃとても……!」
彼女が血相を変えて、奥へ駆け込んでいく。程なくして、恰幅のいいギルド長が、転がるように奥から出てきた。普段は、どっしり構えて滅多に動かない男だ。それが書状を一目見るなり、目を見開いて、俺の肩をがしがしと叩いた。
「よくやった、クロウ! いや、よくぞ持ち帰ってくれた!」
あまりの大声に、周りの冒険者たちが、何事かと振り返る。すぐに、ギルド中が、その噂で持ちきりになった。エルフの国が動いた。あの閉じた森が、人間と手を組むらしい――と。
その様子を見て、リルがけらけらと笑った。
「見た見た? あの人たちの、あんな顔、初めて見たよ!」
俺も少しだけいい気分だった。何百年も固く閉ざされていた扉を、俺たちが、こじ開けたのだ。それはたぶん、この街にとっても、俺が思う以上に大きな出来事なのだろう。
人間とエルフ。長いあいだ、互いに背を向けてきた者同士だ。それが旧文明の遺した災いを前に、渋々でも手を取り合おうとしている。一万年前に世界を捨てた連中の尻拭いを、残された俺たちが力を合わせてやる。そういう時代に、なったのかもしれない。
結局、その日は、ちょっとした騒ぎになった。
ギルド長は俺の手を、痛いくらいに握って、何度も礼を言った。同盟の意義がどうの、今後の展望がこうの。難しい話は、正直、半分も頭に入らなかった。だが一つだけ、はっきり聞き取れたことがある。
報酬は弾む、ということだ。
人間嫌いのエルフが、初めて外へ開いた扉。その第一報を持ち帰ったのが、金も名もない、俺たち風来坊だというのだから、連中が浮足立つのも無理はない。祝いの酒だ、次の依頼は選び放題だと、皆が口々に言った。上々の気分だ。長いこと、貧乏くじばかり引いてきたんだ。たまには、こういう日も、あっていい。
久しぶりにずしりと重い金貨の袋を懐に、俺たちは行きつけの酒場へ繰り出した。
「かんぱーい!」
リルが果実水の杯を、高々と掲げる。ノアはいつものように、静かに俺の隣に座って、みんなの様子を微笑みながら眺めていた。
久しぶりの、まともな飯だ。あたたかい、湯気の立つ肉。冷えた麦の酒。当たり前の幸せが、じんわりと体に沁みわたっていく。
リルは早々に料理の皿を空にして、二杯目をねだっている。この短い旅で、こいつも、また一つ腕を上げた。狙った蔓だけを撃ち抜く、あの精密な射撃。里を出た頃の、力任せの砲撃屋は、もういない。みんな、少しずつ変わっていく。あの森が、俺たちに残していったものだ。
こいつらと、こうして飯を食っていると、しみじみ思う。強くなったのはリルだけじゃない。俺もノアも、あの緑の中で、少しだけ大人になった。旅ってのは、そういうものなのかもしれない。
ふと、ヴェルダントで見たあの静かな庭を思い出した。
庭師を失った庭。帰らない主を一万年も待ち続けた、健気な心臓。あいつは今頃、ミスラの歌を聞きながら、あたらしい庭を手入れしているだろうか。もう独りじゃないと、知りながら。
そう思うと、この安酒が、いっそう、うまく感じられた。
だがと俺は思う。ヴェルダントは、たまたま救えた。ミスラの歌があって、ノアが言葉を読めて、俺の黒鴉が届いた。ただそれだけだ。世界じゅうで目を覚ましつつある、あの置いていかれた者たちの、すべてを救えるわけじゃない。財団に、先を越されたものもあるだろう。間に合わなかった森も、いつか、出てくるのかもしれない。
夜も更けた頃。
俺はふらりと酒場を出て、夜風に当たっていた。
空を見上げる。街の灯りにかすんではいるが、そのずっと向こう。旧文明の連中が去っていったという、空の彼方。あの召集の信号は、今もそこから鳴り続けているのだろうか。
この平和な夜の、ずっと上で。誰にも気づかれないまま、冷たい号令が鳴り続けている。世界じゅうの、眠れる遺跡へ向けて。目を覚ませ、応えよ、と。そう想像すると、心地よかった酔いが、少しだけ醒めた。
「ご主人様」
振り返ると、ノアが立っていた。俺を追ってきたらしい。
「眠れないのか」
「いえ。ご主人様が一人で、難しい顔をしているのが気になって」
俺は苦笑した。この子には、どうも隠し事ができない。
海の底で拾ってきた時から、そうだった。無表情な人形みたいだったこいつが、いつの間にか、こうして俺を気遣うようになった。俺の顔色を読んで、そっと隣に来る。それが機械の振る舞いなのか、この子自身の心なのか。俺には、区別がつかない。だがたぶん、そんな区別に、意味はないのだろう。
「なあ、ノア。あの信号の出どころに、行こうと思う。空の、ずっと上だ。お前の来し方に、繋がってるかもしれない場所。……怖いか」
ノアはしばらく黙っていた。それから、静かに首を振る。
「わかりません。自分が何者なのか。何を思い出すのか。少し、怖い気もします。でも、ご主人様が隣にいてくれる。それなら、わたしはどこへでも行けます。何を知っても、大丈夫です」
「ああ。俺がいる。お前が何を思い出しても、お前はノアだ。俺の、大事な仲間だ。それだけは、変わらない」
言ってから、少し照れくさくなって、俺は頭をかいた。柄にもないことを言った。だがこれは本心だ。この子が、旧文明の造った何かだろうが、置いていかれた誰かだろうが、関係ない。ノアはノアだ。それ以上でも、それ以下でもない。
ノアがふわりと微笑んだ。海の底で会った頃より、この森を越えた今のほうが、ずっとあたたかい笑顔だった。
置いていかれた者たちが、目を覚まそうとしている。
空の彼方から響く、冷たい呼び声。それを悪辣に利用しようとする、財団。そしてその渦の、いちばん深いところに、たぶん、ノアの来し方の秘密が眠っている。
厄介ごとの匂いしか、しない。放っておけば、ヴェルダントのような悲劇が、また、どこかで繰り返される。
だがまあ、いい。
困っている迷子がいるなら、行って、道を示してやる。壊すでも、奪うでもなく。ただ相手の言葉に、耳を澄ませて。それが庭師の――いや、俺たちの、遺跡の片づけ方だ。
どうやって、空の上まで行くのか。当ては、まだない。だが海の底にだって潜ってみせた俺たちだ。空の彼方が、なんだっていうんだ。あの鯨号なら、空へ上がる手立ても、見つかるかもしれない。
考えてみれば、俺たちの旅はいつもそうだ。行き先も、当てもない。ただ目の前の困りごとを一つずつ片づけていく。その先に、いつかノアの故郷が待っているなら。それも上等な道行きじゃないか。
「よし!リル、明日、出るぞ。次の行き先が決まった」
「ええー、もう? まだ飲み足りないよー!」
中から、リルの不満げな声が返ってくる。ノアがくすりと笑った。
空のずっと高いところで、あの信号が、ぴ、と、ひとつ瞬いた気がした。
まるで、早く来い、と、俺たちを招いているみたいに。
俺たちのあたらしい旅は、次の庭を目指して――まだ、始まったばかりだった。




