第64話 翠林の盟約
里を発つ朝は、よく晴れていた。
村の入り口には、大勢の村人が見送りに集まっていた。ほんの数日前まで、白く凍りついて滅びかけていた里だ。それが今は、朝露に濡れた緑の中で、生き生きと息づいている。木々の葉が朝日を弾いて、きらきらと光っていた。子どもたちが、俺たちの周りをはしゃぎながら駆け回る。ほんの数日前まで、家の奥で震えていた子たちだ。その笑い声が今は、森いっぱいに響いていた。
その見送りの先頭に、オルウェンが立っていた。
「本当に、行ってしまわれるのか。傷も癒えぬうちに。もう少し、ゆっくりしていかれてもよいものを」
「悪いな。俺たちには、どうしても行かなきゃならないところがある」
あの召集の信号の、出どころ。あれを放っておけば、この里を襲ったのと同じ悲劇がまた、どこかの誰かの上に繰り返される。それを止めに行く。里の緑が戻るのを見届けた今、のんびり腰を落ち着けている暇は、もうなかった。
「そうですか。ならば、せめて、これをお持ちください」
長老が一巻の巻物を、うやうやしく差し出した。古い、けれど丁寧に手入れされた羊皮紙だ。表には、樹をかたどった見慣れない紋章が押されている。
「なんだ、これは」
「わが翠林皇国と、あなた方の……アステライア、と言いましたか。その組合との、盟約の書状にございます」
俺は思わず聞き返した。
「盟約だと? あんたらエルフは、外の世界とは関わらない主義じゃなかったのか」
里に着いたばかりの頃、ミスラたちがあれほどよそ者を警戒し突っかかってきたのを、俺は今でも覚えている。エルフの国は、気の遠くなるほど長いあいだ、この森の奥に閉じこもってきた。人間の世界とは、一切、交わらない。それが、この国の古い掟だったはずだ。
「ええ、長いあいだ、そうしてまいりました。この森の中だけで、静かに生きていければ、それでいい。外の世界の争いも、災いも我らエルフには関わりない、と。ですが、それは、間違いだったのです」
長老の目が、遠く、森の奥へと向けられた。ヴェルダントの、あった方角だ。
「今度のことで、思い知らされました。あの災いは、決して、我らの森だけの問題ではなかった。空の彼方から響く、あの呼び声は、世界じゅうの眠れる遺跡を揺り起こそうとしている。次に目覚めるのは、どこかの人間の国かもしれない。その次は、また別の、どこかの森かもしれない。もはや、森に閉じこもって目と耳を塞いでいられる時代では、ないのです」
だから、手を組む。長く反目してきた、エルフと、人間が。旧文明の遺した、このあまりに大きすぎる災いに、共に立ち向かうために。
俺はその巻物を、両手で受け取った。ずしりと重い。ただの、古い紙じゃない。何百年ものエルフの孤立を終わらせる、その一枚だ。
「こんな大事なものを、俺なんかが預かって、いいのか」
「あなた方が運んでくださるのが、いちばん確かでしょ。「滅びかけたこの森を、救ってくださった恩人だ。アステライアの、上の方々にもどうか、よしなにお伝えください」
思わぬ土産が、できてしまった。アステライアの連中がこれを見たら、その場で腰を抜かすに違いない。人間嫌いで有名な、エルフの国との、正式な同盟。金貨の山にも換えられない、とんでもない報酬だ。
それでも俺の胸はなぜか晴れなかった。同盟も報酬も大したものだ。だがこの盟約が要ること自体、もうただ事じゃない。エルフたちが何百年も守ってきた孤立を捨ててまで、外の世界と手を組もうとしている。それだけ、これから来るものが大きいのだ。俺はまだ見ぬ敵の影を、巻物の重さに感じていた。
見送りの人垣の中に、ミスラの姿も、あった。
「あんたは、一緒に来ないのか」
番人の娘は少しだけ、困ったように笑った。
「あたしは、番人だからね。この森と、あの庭を、ずっと見守り続ける役目がある。それにやっと、その役目の、本当の意味がわかったんだ。これまでは、ただ怖くて、意味もわからずに歌ってた。でもこれからは違う。ちゃんと、胸を張って、務められる気がする」
いい顔に、なった。里で初めて会った、あの棘だらけで突っかかってきた娘はもう、どこにもいない。
「あの歌、これからも、あいつに聞かせてやってくれ。見ての通り、とんでもない寂しがりだからな。あいつは」
「うん。毎日、歌う。ヴィリディスが、もう二度と自分は独りぼっちだなんて、思わなくていいように。あたしが、ずっと、そばにいる」
その隣でテオが、ばつが悪そうに、頭を下げた。
「……本当に、色々と、迷惑をかけた。あんたたちが来てくれなかったら、おれはこの里を自分の手で、丸ごと駄目にするところだった」
「もう、済んだことだ。これからは、ちゃんと生きて、この里を守れ。それが、お前にできる、いちばんの罪滅ぼしだ」
テオは唇を固く引き結んで、深く、頷いた。まだ、危なっかしい。だがこいつは、大丈夫だろう。いつか、里を背負う、いい男になる。そんな目を、していた。
里に別れを告げ、俺たちは朝の森の道を、下っていった。
しばらく黙って歩いていると、リルがふと、口を開いた。
「ねえ、クロウ。あの信号の出どころって、当てはあるの?」
「いや。正直、まるでない。だが、手がかりなら、ある。あの禁書庫の記録だ。あの呼び声は、空の彼方から降ってくるらしい。つまり空の、もっともっと高いところ。旧文明の連中が、みんなを置き去りにして去っていった、その方角だ」
「空の、上」
リルがまぶしそうに空を見上げる。よく晴れた青空には、白い雲が、ぽっかりと浮かんでいるだけだった。
だが俺は知っている。この世界には、俺たちの立つ地上だけじゃない。空の、もっと高いところにも旧文明の遺した途方もない何かがきっと、眠っている。
その時。
先を歩いていたノアが、ふいに、足を止めた。
「どうした、ノア」
ノアはじっと、空を見上げていた。
「今、一瞬だけ、あの音が聞こえた気がしたんです。ぴ、と。ほんの、かすかに。でも――前に聞いた時より、ほんの少しだけ、近くから」
背筋が、ざわりとした。
俺はノアの横顔を見た。あの信号をいちばん近くで感じているのは、きっとこいつだ。旧文明の言葉を読み、置いていかれた者に誰より心を寄せる子だ。その出どころへ向かうのは、自分の来し方へ近づくことでもある。怖くないか、とは聞かなかった。ノアはもう俺の隣にいると決めている。なら俺はこいつを守るだけだ。
あの信号は、まだ、鳴りやんでいない。それどころか、俺たちがその出どころへ一歩ずつ近づこうとするのをどこかでじっと、待ち構えているみたいに。
やがて森を抜け、ひらけた街道に出た、その時だった。
俺たちは、奇妙な一団と、すれ違った。
黒い、揃いの外套をまとった、十人ほどの男たち。その背には見たこともない、奇妙な紋章。引いている数台の荷馬車には、旧文明のものらしい古い機械の残骸がまるで薪か何かのように、無造作に積み上げられていた。どこかの遺跡から、根こそぎ、剥ぎ取ってきたとしか思えない代物だ。
その一団の先頭を行く、痩せた男。そいつと、俺の目がふと、合った。
男は薄く、笑った。こちらの手の内を、何もかも見透かしたような、嫌な笑い方だった。そしてすれ違いざま、俺にだけ聞こえる声で、こう囁いていった。
「――ヴェルダントは、残念だったよ。あそこの“心臓”は、実に惜しかった。我々も、喉から手が出るほど、欲しかったのだがね」
俺がはっとして振り返った時には、もう男は荷馬車の列と共に街道の向こうへ、遠ざかっていた。
財団。
あいつらも、あの信号を、追っているのか。いや――ひょっとしたら、あいつらのほうが俺たちよりずっと先を、行っているのかもしれない。
背筋を、嫌な予感が駆け抜けた。
俺たちが、命懸けでなだめて、救ったものを。あいつらは、いとも平然と力ずくで、奪おうとしている。世界じゅうに眠る、あの、置いていかれた者たちを。片端から叩き起こし、鎖に繋ぎ、道具として利用するために。
「クロウ? どうかした?」
「いや。なんでもない。行くぞ、どうやらのんびり油を売ってる暇は、なさそうだからな」
あの痩せた男の、薄ら笑いがいつまでも、頭にこびりついて離れない。
空から降りそそぐ、召集の信号。世界じゅうに眠る、置いていかれた者たち。そしてそれを狙う財団が、いる。
これまで、バラバラに散らばっていたはずのものが今俺の頭の中で一本の細い糸で、繋がりはじめていた。その糸を、どこまでも手繰り寄せたその先にいったい何が、待っているのか。
それは、まだ俺にも、わからない。だが一つだけ、はっきりと、確かなことがある。
俺たちの、次の戦いは――もうすぐそこまで、来ていた。




