第63話 置いていかれた者
里は、みるみる緑を取り戻していった。
俺たちが庭から地上へ戻ってくると、あの白かった森は、もう半分ほど元の色を取り戻していた。石になりかけていた木々の枝先に、瑞々しい若葉が芽吹いている。凍りついたようだった村の建物からも、絡みついていた蔓がするするとほどけ、本来の姿を現しはじめていた。ヴィリディスが、あたらしい役目に従って、伸びすぎた緑を丁寧に引き戻しているのだ。
村人たちが家の外に出て、その光景を呆然と見上げている。誰かが泣いていた。誰かが隣の者と抱き合って笑っていた。何年ものあいだ村を呑み込んできた白い緑化が、ようやく本当に止まったのだ。
「戻ってきた。森が、戻ってきたぞ!」
子どもがそう叫んで駆けていく。その足元で灰色だった地面に、点々と緑が芽吹いていた。
オルウェンは震える手で若葉にそっと触れていた。里の長老は俺たちの姿を見つけると、その場で深く頭を下げた。
「よくぞご無事で。あなた方は、この里を救ってくれた。滅びる寸前だった、わたしたちの故郷を。何度礼を言っても言い足りません」
「礼なら、そこの番人に言ってやってくれ。最後にあの心臓を鎮めたのは、こいつの歌だ。あんたたちが意味もわからないまま、何百年も守り継いできた歌だよ。あれがなけりゃ、俺たちはとっくに緑の餌食だった」
ミスラが少し照れたようにうつむいた。だが、その顔は憑き物が落ちたみたいに晴れやかだった。里を出た時の、あの棘だらけの表情は、もうどこにもない。
「あたしは、ずっと番人の役目を、面倒な言い伝えだと思ってた。でも、違ったんだね。あの歌には、ちゃんと意味があった。ちゃんと、届いてた。ありがとう、クロウ。あんたが、それを教えてくれた」
「礼を言われるようなことは、してねえよ」俺は頭をかいた。こういうのは、どうも苦手だ。
テオも、村に戻っていた。
あいつは喜びに沸く村人たちの輪から少し離れて、ぽつんと一人で立っていた。合わせる顔がない、という様子で。俺と目が合うと、ばつが悪そうに、さっと目をそらす。だが、逃げようとは、しなかった。
「悪かった。おれは、馬鹿だった。力さえ手に入れれば、里を救えると思ってた。あんたたちの、まどろっこしいやり方を笑ってた。でも、実際に里を救ったのは、力なんかじゃなかった」
「わかりゃ、いい。若いうちは、みんな、そんなもんだ。焦って、空回りして、痛い目を見る。次からは、ほんの少しだけ人の話も聞いてやれ。それだけで、十分だ」
テオは唇を噛んで、こくりと頷いた。まだ青い。危なっかしい。だが、こいつは変わるだろう。手痛い失敗をして、それでも逃げずに踏みとどまった奴は、強くなる。俺はそういう奴を、何人も見てきた。
その夜。
村での、ささやかな宴が終わったあと。オルウェンが俺たち三人だけを、村のいちばん奥にある、古い石造りの建物へと案内した。
「約束の報酬です。わが里が代々守り、そして固く封じてきた場所。禁書庫を、あなた方に開きましょう。それが、あなた方への、せめてもの礼です」
扉が、低い軋みを上げながら、ゆっくりと開いていく。
中は、ひんやりとした石の部屋だった。壁一面に古い木の棚が並び、そこに無数の石板や巻物が、整然と収められている。埃と、遠い時代の匂いがした。何百年、いや、それより長いあいだ誰の目にも触れなかった、知識の墓場だ。
「エルフは、長く生きる種族です。ですが、この里の記録は、わたしたちの寿命よりも、ずっと、ずっと古い。遠いご先祖が、あの森の異変を恐れて書き記し、二度と読み解かぬよう、この場所ごと封じてきたのです」
俺は手近な一枚の石板を、そっと手に取った。
刻まれているのは、あの命令の言葉だった。ヴィリディスの、いちばん深いところで見た、旧文明のあの文字。
当然、俺には、一文字も読めない。だが。
「ノア」
俺が石板を差し出すと、ノアはそれをじっと見つめた。長い睫毛が、かすかに震える。そして、ゆっくりと読みはじめた。
ノアの澄んだ声で、眠っていた記録がひとつずつ蘇っていく。
遠い昔。この空には、数えきれないほどの街が浮かんでいた。ヴェルダントは、その、ほんの一つにすぎない。街々はどれも、あの庭のような、緑と機械の溶け合った楽園だった。そこには人が住み、機械たちが彼らの暮らしを支えていた。
だが、ある日のこと。人々は、その街を捨てた。
どこへ行ってしまったのかは、この記録にも書かれていない。ただ、彼らはまるで申し合わせたように、一斉に空の彼方へと去っていった。何かに呼ばれでもしたかのように。あとに残されたのは、無数の機械たちだけだった。
残された機械たちには、最後の命令が与えられていた。待て、と。主がいつか帰るその日まで、この持ち場を守り続けよ、と。
ヴィリディスも、そうだったのだ。あの庭守も、そうだった。あいつらは、みんな、置いていかれた者たちだった。二度と帰らないかもしれない主を、それでも一万年、律儀に待ち続けてきた。
ノアがふいに読むのを止めた。
石板を持つその手が、かすかに震えている。
「ノア……?」
「この、置いていかれた者たちの気持ちが、痛いほどわかるんです。まるで、わたし自身も、その中の――」
その先を、ノアは言わなかった。いや、言えなかったのかもしれない。
わかっている。海の底の遺跡でも、この森でも、ずっと、そうだった。ノアもまた、旧文明の残した置いていかれた者の一人。心のいちばん深いところで、帰らない誰かを、ずっと待ち続けている。たぶん、そういう存在なんだろう。
俺はそっとノアの肩に手を置いた。
「無理に、思い出さなくていい」
「ご主人様……」
「お前が、どこの誰の帰りを待ってようが、俺には関係ない。お前は、今、ここに、俺たちと一緒にいる。腹が減れば飯を作って、俺の無茶に呆れて、それでもついてきてくれる。それで、十分だろ」
ノアはしばらく黙ってから、こくりと頷いた。いつもの穏やかな顔に戻る。だが、その瞳の奥には、まだ消えない何かが揺れていた。
それは、また、いつかでいい。急ぐ旅じゃ、ない。
そして、棚のいちばん奥にあった、最後の一枚。
その石板には、ほかの淡々とした記録とは、明らかに違うことが記されていた。この記録を書き遺した、遠いご先祖の、最後の書き置きだった。
「なんて、書いてある」
ノアがそれを静かに読み上げた。
もし、いつの日か。空の彼方から、あの呼び声が、もう一度聞こえてくることがあれば。それは、主がついに帰るという、報せかもしれぬ。あるいは――全機目覚めよ、という恐ろしい号令かもしれぬ。
その時、眠っていた者たちは一斉に目を覚まし、再び動きだすだろう。庭は、また、狂ったように暴れるだろう。だから我らは、この森を封じ、あの歌を子々孫々へと遺すのだ。
あの、召集の信号。あの冷たい音。
あれは、やっぱり、ただの偶然なんかじゃなかった。誰かが、あるいは何かが、遠い空の彼方から機械たちに号令をかけているのだ。目覚めよ、と。応えよ、と。
だとすれば、これはこの森だけの話じゃすまない。今この瞬間にも、世界のどこかで、別の庭守やヴィリディスが目を覚まし、暴れているのかもしれない。まだ、誰にも止められないまま。
背筋を、冷たいものが這い上がってくる。だが、今の俺たちにできることは、何もない。
この夜わかったことは、たった一つだけだった。
この旅は、まだ、終わらない。
禁書庫を出ると、東の空がうっすらと白みはじめていた。
長い夜だった。だが、実りは、大きかった。滅びかけた里は救われ、約束の報酬も確かに手に入れた。それに――ずっと謎だった、ノアの来し方に繋がる糸を、細いながらも手繰り寄せた。あの、召集の信号の、正体のしっぽにも。
俺は朝の空気を胸いっぱいに吸い込んで、大きく伸びをした。
「さて、と」
「ねえ、これから、どうするの?」
「決まってるだろ。あの信号の出どころを突き止めに行く。放っておいたら、そのうち世界中の遺跡が、いっせいに目を覚まして暴れ出すかもしれん。そんなことになったら、寝覚めが悪くて、ゆっくり酒も飲めやしねえ」
「ええー、また、危ないとこに行くのー?」
リルが大げさに唇を尖らせる。だが、その目は少しも嫌がってなんかいなかった。むしろ、次の冒険を待ちきれない顔だ。
ふと見ると、ノアもミスラも、静かに微笑んでいた。
あたらしい朝の光が、緑を取り戻したばかりの里を優しく照らしている。
この置いていかれた庭の物語は、ここで終わる。
だが、俺たちの次の旅は――もう静かに始まっていた。




