第62話 あたらしい庭
真っ白な光の中で、俺は地面に叩きつけられていた。
全身が痛い。耳の奥では、あの冷たい信号がまだ鳴り続けている。庭は完全に正気を失っていた。垂れ下がった蔓が鞭のように振り回され、静かだった池の水が渦を巻く。せっかく書き込んだ〈守れ〉の命令は、跡形もなく塗り潰されていた。
黒鴉が、手の中にない。さっきの衝撃で、どこかへ飛んでいってしまったのだ。
あれがなければ、こいつには何も届かない。
このままじゃ、全員おしまいだ。あの繭にされる。生きたまま、緑に呑まれて。それだけは絶対にごめんだった。
「ご主人様!」
ノアだった。俺を庇うように前へ出て、迫りくる蔓を次々と刃で払っている。その向こうでは、リルが杖を構え、ミスラが必死に歌おうとしていた。だが、荒れ狂う庭の轟音に、そのか細い声はかき消されてしまう。
このままじゃ、じり貧だ。ノアがいつまでも蔓を捌ききれるわけじゃない。ミスラの声にも限界がある。リルも撃つ場所がなくなってきていた。時間は俺たちの味方じゃない。
起き上がろうとして、俺は歯を食いしばった。
考えろ。なぜ負けた。俺の〈守れ〉は、どうして、あの信号に押し負けたんだ。
あの信号は、こう言っていた。住人、帰還ノ刻、近シ。庭ヲ完成セヨ、と。
そうか。
わかった。こいつがあの信号にあっさり従ったのは、それが、こいつのいちばん深い願いに触れたからだ。住人が、帰ってくる。そのたった一つの望みに。俺の〈守れ〉なんかより、ずっと甘い嘘のほうに。
だが、それは嘘だ。
住人は、帰ってこない。一万年待っても、帰ってはこなかった。もう、二度と帰らない。
その残酷な真実を、こいつに突きつけるほかない。
だが、それだけじゃ足りない。真実は、こいつをただ絶望させるだけだ。望みを奪うだけなら、また暴れるに決まってる。
真実の、その先が要る。
こいつに、あたらしい望みを渡してやらなきゃならない。あたらしい住人を。
俺は顔を上げた。そして、見つけた。
荒れ狂う庭の隅で。ミスラが、蔓に足を取られながらも、まだ歌おうとしている。番人の歌を。この森を守るための、あの歌を。
あれだ。
こいつが待っていた住人は、もうとっくの昔に帰ってきていたんだ。
エルフたちだ。ミスラたちだ。何百年ものあいだ、この森のそばで暮らし、この庭に歌を捧げ続けてきた番人たち。ヴィリディスは、ただ気づかなかっただけだ。自分の待ち焦がれた住人が、もうすぐそばにいることに。
「ミスラ!歌え! もっと大きく! こいつに聞かせてやれ! お前がここにいるってことを!」
ミスラがはっと俺を見た。それから、大きく息を吸い込む。
そして、歌った。
今までで、いちばん大きな声で。荒れ狂う庭の轟音を、まっすぐ貫くように。
澄んだ声が緑の嵐を切り裂いて響く。この森を何百年も見守ってきた声だ。里の番人たちが代々受け継いできた、祈りの声。この庭にとって、いちばん懐かしいはずの音だった。
その歌に、庭が、ほんの一瞬だけひるんだ。
そのわずかな隙。
「リル! 黒鴉を! あそこだ!」
俺は蔓の向こうに転がった黒鴉を指した。リルが力強く頷く。
彼女の杖から、細い光が走った。狙ったのは、黒鴉じゃない。その手前で、黒鴉に巻きつこうとしていた蔓の根元だ。光が、それを正確に撃ち抜く。解けた拘束から、黒鴉がこぼれ落ちた。。
俺は地を蹴った。すかさずノアが道を作る。迫る蔓を、片端から払いのけて。
黒鴉を、掴んだ。
握った瞬間、手に力が戻ってくる。まだだ。まだ、何も終わっちゃいない。
俺はヴィリディスの結晶へ走った。ミスラの歌が俺を後押しする。リルの光が、蔓を退ける。ノアが俺の背をしっかりと守る。みんなが、俺を、あの心臓へ届けようとしてくれている。
だったら、応えなきゃ、嘘だ。
そして俺は、もう一度、その結晶に、黒鴉を深々と突き立てた。
視界が、また、緑一色に染まる。
渦を巻く、命令の嵐。その中心で、ヴィリディスはあの甘い信号にすがりついていた。住人が帰ってくる。庭を完成させれば。もっと、もっと育てれば。
俺はその願いに、まっすぐ語りかけた。ノアの言葉を、借りて。
聞け。お前の待っていた住人は、もう帰らない。
ヴィリディスの光が、ぐらりと大きく揺れた。拒むように。信じたくない、というように。
だが、顔を上げてみろ。お前が独りで待ち続けているあいだに。お前のその庭で、あたらしい人たちが生まれ、育っていたんだ。
あの歌が、聞こえるだろう。あれこそが、お前のあたらしい住人だ。ずっと昔から、お前のそばで、お前を想って、歌い続けてきた。
ミスラの澄んだ歌が、刃を通して、ヴィリディスのいちばん深いところへまっすぐ届いていく。
もう、待たなくていい。もう、育てすぎなくていい。ただ、あの子たちの森を、守ってやってくれ。それが、お前の、あたらしい仕事だ。
頼む、と俺は念じた。もう、独りで泣くのはやめてくれ。ここに、お前を想う者がいる。お前が守ってやれる森がちゃんとある。それで、十分じゃないか。
その瞬間、ヴィリディスがぴたりと動きを止めた。
真っ白に燃えていた光の中に、ふっと別の色が滲む。緑だ。淡く、優しい、緑の光。
その色がじわじわと広がっていく。荒れ狂う狂騒を、内側から鎮めるように。同時に、あの冷たい信号の音が少しずつ遠ざかっていくのが、わかった。
勝った、んじゃない。
こいつが、やっと、受け入れてくれたんだ。あたらしい住人を。あたらしい、自分の役目を。
長い長い留守番が、やっと終わったのだ。もう、誰も帰らない家で、独り庭を手入れし続ける必要はない。この子にはこれから、そばにいてくれる人がいる。守るべき、あたらしい家族が。
変化は、そこから、一気だった。
鞭のように振り回されていた蔓が、糸が切れたみたいに力を失い、静かに垂れ下がる。渦を巻いていた池の水が、嘘みたいに凪いでいく。狂ったように速かったヴィリディスの鼓動が、ゆっくりと穏やかな脈に戻っていった。どぐん……どぐん、と。
だが、それだけじゃなかった。
刃を通して、俺には見えたのだ。この部屋の、ずっと外。荒れ果てた森ぜんぶで、今、起きている変化が。
里に迫っていた白い結晶が、進むのをぴたりと止める。それから、ゆっくりと退きはじめた。石になりかけていた木々に、うっすらと緑が戻っていく。狂ったように伸びていた蔓が、あるべき場所で、あるべき長さに収まっていく。
森が、整えられていく。壊すためじゃない。守るためにだ。
あたらしい庭師の、その手で。
俺はしばらく言葉が出なかった。ついさっきまで、俺たちを殺そうとしていた森だ。それが今は、自分からあるべき姿に戻っていく。長い悪夢から覚めたみたいに。緑が深く静かに呼吸していた。
俺は黒鴉を、そっと引き抜いた。
もう、暴れる蔓は、どこにもない。あるのは、ただ静かで、美しい庭だけだった。門の奥で最初に見た、あの庭のように。いや、それよりも、もっと穏やかに。
だってこの庭には、もう、庭師がいる。守るべき人が、ちゃんといるのだから。
「……終わった、の?」
「ああ。たぶん、な」
ミスラが歌うのをやめた。息を切らして、その場にへたり込む。だが、俺を見上げたその顔は、涙で、ぐしゃぐしゃだった。
「あたしの歌が、ずっと届いてたんだ。ご先祖の、そのまた先祖の代から、ずっと。ずっと」
番人の歌は、意味を失った、ただのまじないなんかじゃなかった。それは、庭と人とを繋ぐ、細い、けれど決して切れなかった、一本の糸だったのだ。
少し離れたところでは、いつの間にか目を覚ましたテオが、呆然と庭を見上げていた。あいつの里は、救われた。あいつが力ずくで奪おうとした、まさにその力に、まるで優しく諭されるみたいにして。きっと、あいつも、何かを感じているはずだ。
テオは何も言わなかった。ただ、ぎゅっと拳を握りしめていた。里に帰ったら、あいつも少しは変わるかもしれない。力で奪うよりも大事なものがあると、身をもって知ったはずだ。
ふと、ノアを見た。まだ、あの樹を、じっと見つめている。
「ノア。大丈夫か」
「……はい。あの子は、もう、寂しくありません。それだけは、はっきりと、わかります」
あの子、か。ノアの目に、こいつが、どんなふうに映っているのか。この子の来し方は、やっぱりこの森と、どこか深いところで繋がっている。だが、それを尋ねるのは、また、いつかでいい。
そして――ずっと、遠くで。
あの冷たい信号は、まだ、鳴りやんでいなかった。
ヴィリディスは、もう応えない。だが、あの信号そのものは、消えたわけじゃない。この森だけの話でも、ないだろう。どこか遠くの、別の遺跡でも、きっと今、同じ音が鳴り響いている。そんな気がした。
誰かが、眠っていた遺跡たちに、いっせいに起きろと呼びかけている。何のために。誰の命令で。考えても、答えは出ない。だが、この胸騒ぎはたぶん外れない。近いうちに、あの音の正体とまた向き合うことになる。
いったい、誰が、何のために、あんなものを。
背筋を冷たいものが撫でていく。だが、それも、また、いつかの話だ。
今は、ただ。
俺はもう一度、生まれ変わった庭を見渡した。淡い光の中で、緑が穏やかに揺れている。
「よし。帰るとするか。里の連中に、とびきりの土産話を持ってな」
庭の心臓が、それに応えるように、ゆっくりとひとつ脈打った。
もう、狂ってなんかいない。それは、優しい生きものの鼓動だった。




