第61話 庭の心臓
門の奥は、思っていたのとまるで違った。
固く閉ざされた扉の向こうは、てっきり冷たい機械だらけの部屋だと思っていた。歯車と管と、明滅する光の、無機質な心臓部。だが、そこに広がっていたのは、そんなものじゃなかった。
庭だった。
円く、どこまでも広い空間。そのどこもかしこもが、緑に埋め尽くされている。天井のはるか高いところから、幾筋もの光が静かに差し込んでいた。その光が、床一面を覆う草花を淡く照らしている。中央には、澄んだ水をたたえた池。そこから流れ出す水が、幾つもの細い水路を伝って、部屋の隅々まで行き渡っていた。
美しい庭だった。荒れ果て、石に変わりかけた外の森とは、まるで別物だ。ここだけが、誰かの手入れの行き届いた、遠い昔のままの姿を保っていた。
まるで、時が止まっているみたいだった。
「きれい……」
リルが思わずといったふうに呟いた。荒事の最中だということも忘れたような声で。
だが、俺の目は、その庭のただ一点に釘付けだった。
池の真ん中に、一本の大きな樹が立っていた。
いや、樹じゃない。樹のかたちをした、何か別のものだ。太い幹には無数の細い管が血管のように這い、枝の代わりに、淡く光る蔓が幾重にも垂れ下がっている。その巨体の全体が、鼓動に合わせてゆっくりと明滅していた。
どぐん。どぐん。
この部屋に、いや、この森ぜんぶに響き渡っていた、あの重い鼓動。その大元だ。
これが、ヴィリディス。
この庭ぜんぶを一万年ものあいだ動かし続けてきた、本当の心臓だった。
俺たちは、息を殺して、その庭に足を踏み入れた。
一歩進むごとに、あの鼓動が、床を通して体の芯にまで響いてくる。まるで、この庭ぜんぶが、俺たちの侵入に気づいて息をひそめているようだった。背筋がぞくりとした。
ふと、隣を見た。
ノアがあの樹をじっと見つめていた。いつもの穏やかな顔じゃない。何かに強く引き寄せられるような、けれどどこか痛みをこらえるような。そんな、見たことのない目だった。
「ノア」
俺が呼ぶと、ノアははっとしたように小さく首を振った。
「大丈夫です。ただ、あれが、わたしに呼びかけている気がして。わたしにも、わかる言葉で」
わかる言葉。旧文明の、命令の言葉。ノアが、なぜだかはじめから知っている言葉だ。
この森の心臓とノアは、どこか深いところで繋がっている。海の底のあの時も、そうだった。この子の来し方は、いつも旧文明の何かへまっすぐ伸びている。だが今は、それをゆっくり確かめている暇はなかった。
「無理はするな。おかしいと思ったら、すぐ言え」
「はい」
樹に近づくと、その根元に、大きな結晶の塊があるのが見えた。人が一人、すっぽり収まりそうな大きさだ。半透明のその奥で、淡い光が脈打っている。あそこが、こいつのいちばん深いところ。命令の心臓の、そのまた心臓だ。俺の勘が、はっきりとそう告げていた。
俺は黒鴉を抜いた。
やることは、庭守の時と同じだ。こいつにじかに語りかける。この森を狂わせている命令そのものを、この目で確かめてやる。
青白い刃を、結晶にそっと当てた。
その瞬間、俺の視界が緑一色に染まった。
流れ込んできたのは、命令の奔流じゃなかった。今度のは、もっと大きく、もっと重いものだ。この庭の記憶。この庭の意志。ヴィリディスが一万年ものあいだ、たった一人で抱え続けてきた願い。
庭を守れ。住人が帰る、その日まで。
それが、こいつのすべてだった。
遠い昔、この街には、大勢の人が暮らしていた。ヴィリディスはその人たちのために庭を育てた。色とりどりの花を咲かせ、緑を茂らせ、街を隅々まで美しく保った。人々はその庭で笑い、憩い、子どもたちが駆け回った。壁の絵で見た、あの景色。あれは、こいつが大切に守ってきた庭の、在りし日の姿だったのだ。
だが、ある日を境に、人がいなくなった。
なぜなのかは、ヴィリディスにもわからない。ただ、ある日、街がしんと静かになった。そして、二度と誰も帰ってこなくなった。
それでも、ヴィリディスは命令を守り続けた。庭を守れ。住人が帰る、その日まで。だから待った。ずっと、ずっと待ち続けた。いつあの人たちが帰ってきても、恥ずかしくないように。もっと豊かに。もっと美しく。もっと広く。
その一途さが街を呑み、森を呑み、里まで溢れ出した。だが、こいつを責められる者は、誰もいない。もう、そこまででいい――そう止めてやる者が、一万年、ただの一人もいなかったのだから。
「なるほどな……お前は、ただ律儀すぎたんだな」
刃を通して、俺はこいつの命令のいちばん深い根っこを探った。〈育てろ〉。〈増やせ〉。この二つの命令が、すべての暴走の大元だった。ここを書き換えれば、この森は止まる。俺はそう思った。
だが、その根に手をかけようとして、俺は動きを止めた。
見えてしまったのだ。もし、この命令を根こそぎ消してしまったら、この森がどうなるか。
この森は、もうただの森じゃない。機械と緑が、分かちがたく一つに溶け合っている。ヴィリディスの命令が、光が、この森ぜんぶを生かしているのだ。だから心臓を止めれば、森もまた死ぬ。
いや、それだけじゃ済まない。ここまで途方もなく育ってしまった庭だ。それが急に、自分を支える力を失えば。そのあまりの重みに耐えきれず、崩れ落ちる。石になった木々が次々と倒れ、緑の建物が砕け散る。そして、その巨大な雪崩は、この部屋の外へ、森の外へ――里まで、まっすぐ届いてしまう。
止めるのは、簡単だ。刃を一つ、ひねればいい。だが、止めれば、森も里も丸ごと道連れだった。
「くそ。厄介なやつだな、お前は」
俺は額の汗を腕で拭った。
しばらく、考えた。刃を結晶に当てたまま。
殺すのは、駄目だ。森が死ぬ。看取ってやるのも、放っておくのも、駄目だ。どの道を選んでも、結局は、この森を殺すことになる。
これまで、俺は、いくつもの遺跡を黙らせてきた。壊し、看取り、時には引き継いだ。だが、こいつには、そのどれも通じない。
なら、どうする。
考えて、考えて――ふと、答えがするりと腑に落ちた。
こいつを止めるんじゃない。向きを、変えてやればいいんだ。
〈育てろ〉〈増やせ〉が暴走しているのなら。その命令を、〈守れ〉〈整えろ〉に書き換える。もっと豊かに、じゃない。今のままを保て。伸びすぎた枝は刈れ。溢れた緑は抑えろ。森を呑み込むな。森と共に、あれ、と。
庭を壊すんじゃない。庭を、正しく手入れしてやる。育てるだけが、庭仕事じゃない。刈って整えて、守るのも、立派な庭師の仕事だ。
できるのか。俺は自分に問うた。旧文明の、こんな途方もない機械の根っこの命令を書き換えるなんて、正気の沙汰じゃない。だが、やるしかなかった。ほかに、この森と里を両方救う道は、どこにもない。
「ノア、手を貸してくれ。こいつに、新しい命令を書き込む。俺の知ってる言葉だけじゃ、とても足りない」
「はい、ご主人様。わたしの知るかぎりの言葉を、すべてお貸しします」
「ミスラ、歌ってくれ。こいつが、いちばん安心するあの声で」
「うん。まかせて」
ミスラが静かに歌いはじめた。あの、番人の歌を。
この静かな庭の中で、その澄んだ声はどこまでも遠く、優しく響いていった。すると、ヴィリディスの鼓動が、まるでその歌に耳を傾けるように、少しずつ穏やかになっていく。荒々しかった光が、和らいでいく。
その、生まれたばかりの静けさの中で。
俺はノアが囁く言葉を一つずつ、刃を通して、こいつの芯へ送り込んでいった。
お前の仕事は、まだ終わっていない。だが、その中身が変わったのだ。
住人は、もう帰ってこない。だが、代わりに、この森がここにある。
だから、育てるのは、もうやめていい。これからは、守れ。この森を、今のこの姿のままで。
ヴィリディスの光が、大きく揺れた。まるで戸惑っているみたいに。一万年ものあいだ後生大事に守り続けてきた命令を、いきなり書き換えられて。
だが。
その光が、少しずつ落ち着いていく。同時に、俺にはわかった。荒れ狂っていた外の森の気配が、遠くのほうでゆっくりと和らいでいくのが。暴れていた蔓が、その動きを止める。里に迫っていた白い結晶化が、止まる。
いける。俺は確信した。手応えが、たしかにあった。あと少しだ。あと少しで、この森は、里は、救われる――
まさに、その時だった。
どこか、はるか遠くから、別の音が響いてきた。
この庭の優しい鼓動とは、まるで違う。もっと硬く、冷たく、機械的な音。ぴ、ぴ、ぴ、と。一定の間隔で正確に刻まれる、信号のような音だった。
その音が、この部屋に届いた、その瞬間。
ヴィリディスの光が、一気に燃え上がった。
真っ白に。今まで見たどんな光よりも、激しく、強く。
「なんだ、これ……!」
刃を通して、俺は感じ取った。俺の書き込んだものとは、まったく別の命令が、こいつの中へ上書きされていくのを。それは俺の言葉なんかより、ずっと遠く、高いところから降ってきていた。
召集。全機、応答せよ。住人、帰還ノ刻、近シ。
「召集だと?」
ヴィリディスの鼓動が、狂ったように速まっていく。せっかく書き込んだ〈守れ〉の命令が、その冷たい信号に、上から無慈悲に塗り潰されていく。消えかけていた〈育てろ〉〈増やせ〉が、勢いを増して蘇る。いや、それどころじゃなかった。
刻限マデニ、庭ヲ完成セヨ。スベテヲ、緑ニ。
その号令に、部屋じゅうの緑が、いっせいにざわめいた。静かだった池の水が、ぶわりと逆巻く。垂れていた蔓が、鎌首をもたげる。あの美しかった庭が、ほんの一瞬で牙を剥いた。
「まずい、みんな、離れろ!」
俺は叫んだ。だが、遅かった。
膨れ上がった光が、内側から爆ぜた。凄まじい衝撃が、俺の体を後ろへ勢いよく吹き飛ばす。握っていた黒鴉が、手を離れ、宙を舞った。結晶の割れ目から、無数の蔓が噴水のように噴き出し、俺たちにいっせいに襲いかかってくる。
書き換えは、弾かれた。
あの遠い信号が――どこか上のほうにいる“何か”が、この森の心臓に、俺の言葉よりずっと深く、強い命令を下したのだ。
地面に叩きつけられ、それでも起き上がろうとした俺の目に映ったもの。
それは、真っ白に燃え狂う庭の心臓。そして、再び荒れ狂いはじめた、緑の庭。そのすべてを貫くように、遠くから、いつまでも冷たく響き続ける、あの信号だった。




