第60話 門、開く
三方から、緑が迫ってくる。
俺は蔓を斬り続けた。だが、斬った先から、また新しいのが湧いてくる。何本斬っても、きりがない。テオはもう、闇の奥に半分呑まれかけていた。門は、ぶ厚い蔓の壁の向こうだ。歌も効かない。力も届かない。逃げ場が、じりじりと狭まっていく。
考えろ。考えるんだ。
息が上がり、汗が目に沁みた。だが、頭の隅で、さっきノアが言った一言が引っかかっていた。
歌は、命令の“切れ端”だと。
切れ端ということは、本物の命令が、どこかにちゃんとあるということだ。あの歌は、そのなれの果てにすぎない。長い時のなかで擦り切れて、“襲うな”としか言えなくなった、ぼろぼろの言葉。だが、もっとちゃんとした命令を、こいつに伝えられたら、どうだ。
“襲うな”じゃない。“そいつを放せ”。“道を空けろ”。そうはっきり命令できたなら。
「ノア!あの板の言葉を使えば、もっと細かい命令が出せるか!」
すぐ傍らで蔓を払っていたノアが、はっと目を上げた。その黒い瞳の奥が、鋭く光る。
「……できるかもしれません。あの文字は、命令そのもの。ミスラさんの歌は、そのほんの一部です。正しい言葉を、正しい順で、この庭に届けられれば」
「なら、やる! どうすりゃいい!」
「言葉を、庭守に直接ぶつけるのです。ただ口で歌うだけでは届きません。もっと深く。あれのいちばんの芯に、じかに」
芯に、直接。
その言葉で、俺は右手に握ったものを思い出した。
黒鴉だ。旧文明の機械に触れ、その命令を覗き、書き換える鍵。これまで、いくつもの遺跡の“頭”を、こいつで黙らせてきた。庭守が旧文明の造ったものなら、こいつでなら届くはずだ。
「俺があいつの芯に、これを突き立てる。ノア、お前は俺に言葉を教えてくれ。刃を通して、庭守に命令を流し込む」
我ながら、無茶な賭けだった。あの荒れ狂う庭守の、ど真ん中に飛び込むのだ。だが、ほかに手はもう残っていない。
「リル、ミスラ!道を作ってくれ! なんとしても、俺をあいつの根元まで行かせろ!」
「任せてよ!」
「わかった!精いっぱい、あいつを鈍らせてみせる」
言うが早いか、ミスラが歌いはじめた。荒ぶる庭守に向かって、あらんかぎりの声を張り上げる。
効き目は、さっきまでとは比べ物にならないほど薄い。それでも、まったくの無駄ではなかった。歌が届くたびに、庭守の動きが、ほんの一瞬、たしかに鈍る。
その一瞬を、リルが逃さなかった。
杖から、細い光が次々と放たれる。かつての、あの薙ぎ払う撃ち方じゃない。一本、また一本と、俺の進む道を塞ぐ蔓だけを、狙って撃ち抜いていく。森を焼く心配のない、狙い澄ました一撃だ。あの力任せだった砲撃が、いつの間にか、こんな芸当を身につけていた。
ミスラが歌い、リルが撃ち、ノアが払う。三人が、それぞれのやり方で、俺のために道をこじ開けてくれている。ここでしくじるわけには、いかなかった。
撃ち抜かれた蔓が、ばらばらと崩れ落ちる。そこに、俺一人ぶんの細い道ができた。
俺は走った。
歌に鈍り、光に撃ち抜かれた蔓の、その狭い隙間を、身をよじって縫っていく。目指すは、ただ一点。広間の中央で脈打つ、庭守の巨大な幹だ。
背中に庭守の視線を感じる。だが、振り返る余裕はない。前だけを見て走る。あと少し。あの幹まで、あと少しだ。
だが、残った蔓が、いっせいに俺めがけて殺到してきた。びゅっと空を裂く音。とっさに身を伏せると、鞭のような一撃が、俺の頭のすぐ上をかすめていった。
しまった、と思ったその時。
俺の前に、黒い影が割り込んだ。
ノアだった。俺を庇うように前へ出て、両手の刃で、迫りくる蔓を片端から払い落としていく。眠り毒の霧の中でも、その舞うような動きは、少しも乱れない。機械の体は、毒も眠りも寄せつけないのだ。
「ご主人様、今のうちに!」
「――おう!」
ノアが空けた、ほんのわずかな隙間を、俺は駆け抜けた。
そして、庭守の幹に飛びついた。
黒鴉を逆手に握りしめる。脈打つ幹の、いちばん深いところにある根へ、渾身の力で突き立てた。
その瞬間だった。
刃を通して、俺の頭の中へ、途方もない奔流が流れ込んできた。
頭の中を、古い命令が洪水みたいに満たしていく。育てろ。増やせ。庭を完成させろ。住人の帰還に備えろ。どれもこれも、壊れて行き場を失った、命令の残骸だった。
その命令の隙間に、切れ切れの古い記憶が混じっていた。青い空。笑う人々。手入れの行き届いた、美しい庭。壁の絵で見た、あの景色だ。庭守は、それを取り戻そうとしていた。だが、住人は二度と帰ってこなかった。
その奔流の、いちばん奥。
そこで、この庭ぜんぶは、たった一人、途方に暮れて立ち尽くしていた。
誰も帰ってこない庭を、命じられたとおりに育て続けて。一万年。それだけの時を、たった一人で。ずっと、次の指図を待ちながら。だが、誰も、何も、命じてはくれなかった。だから、こいつは、覚えている最後の命令に、ただしがみつくしかなかったのだ。育てろ、と。増やせ、と。
俺は、思わず奥歯を噛みしめた。
こいつは、化け物なんかじゃなかった。迷子だ。途方もなく大きな、寂しい迷子なんだ。
殺すのは、簡単だ。だが、それは違う。こいつが待っていたのは、殺してくれる敵じゃない。導いてくれる庭師だ。だったら、俺がそれになってやる。今だけでも。
「ノア! 言葉を教えてくれ!」
「復唱してください、ご主人様!」
ノアが叫び、あの古い言葉を口にした。俺には意味のわからない、けれど、ミスラの歌とどこか同じ響きを持った旋律を。
俺は、それを必死になぞった。刃を通して、庭守の芯の、いちばん深くへ送り込む。
我、庭師なり。
なぜだろう。口にした瞬間、その言葉の意味が、はっきりとわかった。刃を伝って、意味そのものが、俺の中へ流れ込んでくる。
園を預かる者、帰還せり。手入れを引き継ぐ者、ここにあり。ゆえに、道を空けよ。
庭守の動きが、止まった。
真っ赤に燃えていた頭の光が、ゆっくりと色を変えていく。赤が橙になり、橙が淡い緑に変わる。荒れ狂っていた無数の蔓が、張り詰めた糸がふっと緩むように、力を失っていった。
そして、庭守が俺を見た。いや、俺たちみんなを。
その“目”に、もう敵意はなかった。ずっと待ち続けていた何かを、ようやく見つけた。そんな静かな光が、そこには灯っていた。
次の瞬間、テオを締め上げていた蔓が、ふっと緩んだ。
だらりとしたテオの体が、大事な苗でも扱うように、蔓の手でそっと地面へ下ろされる。気を失ってはいるが、その胸は、たしかに上下していた。息がある。生きている。あの繭に変えられる、寸前で。
「テオ!」
テオは、ぐったりしたまま動かない。だが、ミスラが呼びかけると、その瞼がかすかに震えた。生きている。ミスラの目に、ほっと涙がにじんだ。
そして、庭守が動いた。今度は、俺たちを襲うためじゃない。
その山のような巨体が、ゆっくりと脇へ退いていく。固く閉ざした門の前を、明け渡すように。一万年ものあいだ守り続けてきた、その門を。まるで、長いこと待ちわびた主を、迎え入れるように。
ずずん、と、腹に響く重い音がした。
誰も触れていないのに、固く閉ざされていた巨大な扉が、ひとりでに開きはじめる。その隙間から、目もくらむほどのまばゆい光が溢れ出した。
その光の奥に、脈打つ大きな影があった。都市の心臓だ。この庭ぜんぶを生かし、そして狂わせている、本当の“何か”。
ヴィリディス。
ふいに、その名が頭に浮かんだ。ノアが教えたわけじゃない。刃を通して、庭守の記憶から流れ込んできた名だ。名前があるということは、こいつにも、そう呼んで大切にしてくれた者が、いた頃があったということだ。
俺は幹から黒鴉を引き抜き、深く息を吐き出した。全身が、汗でぐっしょり濡れている。
だが、やった。道は、開いた。
開け放たれた門の、その奥へ、俺たちは足を踏み出す。
庭守は、もう動かない。ただ静かに、俺たちを見送っている。あいつは、最初から敵なんかじゃなかった。ただ、庭師の帰りを信じて待ち続けていた、忠実な門番。それだけのことだったのだ。
「行くぞ」
俺はみんなを見た。ノアも、リルも、ミスラも、力強く頷く。気を失ったテオは、ミスラが背に負った。
「クロウ、今の、かっこよかった」
照れくさい。俺は鼻を鳴らした。だが悪い気はしなかった。こんな時に軽口を叩けるのは、こいつのおかげだ。
都市の心臓は、もうすぐそこだ。この長い長い緑の墓所の、いちばん奥。
あの奥に、この森を狂わせた元凶がいる。だが、たぶん、それも庭守と同じだ。悪意なんてない。ただ壊れて、止まれなくなっただけの、哀れな何か。ならば、やることは決まっている。止めるんじゃない。もう一度、正しく動かしてやる。庭師として。
俺は光の中へ、大きく一歩を踏み込んだ。
庭師のいない庭に、ようやく、庭師が帰ってきた。




