第59話 はやる者
鼓動の音を、道しるべにした。
ドクン、ドクン。都市の奥へ、その音が大きくなるほうへと、俺たちは進んでいく。
進み方は、里を出た時とはすっかり変わっていた。先頭に立つミスラが、ずっとあの歌を口ずさんでいる。声はごく小さい。それでも十分だった。歌が聞こえているあいだ、蔓は襲ってこない。行く手を塞ぐ蔓の壁でさえ、その旋律に応えるようにゆっくりと解けて、俺たちのために道を空けた。
庭が招き入れているのだ。歌に耳を傾けながら。
なんとも不思議な光景だった。昨日まで俺たちを植え替えようとしていた森が、今は、まるで大人しい飼い犬みたいに、歌う娘の後をついてくる。
「便利なもんだな、その歌」
「だましてるみたいで、なんだか悪い気がする。世話をしに来た振りをして、本当は止めに来たのに」
「止めるのも世話のうちだろ。育ちすぎた枝は刈る。伸びすぎた根は抜く。庭ってのは、そういうもんだ。あんたのやってることは、間違っちゃいない」
ミスラが少しだけ笑った。強張っていた肩から力が抜ける。それから、また静かに歌いはじめた。里で初めて会った、あの棘のある娘は、もうどこにもいない。
下れば下るほど、緑は濃くなっていった。もう都市だった頃の面影は、ほとんど残っていない。ただ、途方もなく大きな緑の洞窟だ。壁からは太い根が血管のように張り出し、その一本一本が、鼓動に合わせて脈打っている。淡い光が、あちこちで明滅していた。
まるで、生き物の体の中を歩いているようだった。俺たちは今、その心臓へ一歩ずつ近づいている。
空気がどんどん重くなる。息をするたびに、甘い花の匂いと錆びた鉄の匂いが、喉の奥にへばりついた。それでも進むしかない。里が石になるのを止めるには、この心臓を止めるしかないのだ。
やがて、行く手に大きな空間がぽっかりと開けた。
円い広間だった。見上げても、天井は闇に溶けて見えない。そして、そのいちばん奥に、それはあった。
門だ。
左右に、見上げるほど太い柱。中央に、固く閉ざされた巨大な扉。石と、金属と、緑の蔓が、渾然と溶け合ってできている。閉じた扉の隙間からは、これまでよりずっと強い光と、腹に響く鼓動が、絶え間なく漏れ出していた。
あの向こうだ。この庭ぜんぶを動かしている、都市の心臓は。
だが。
その門の前に、あいつが立っていた。
庭守だ。
まるで門番のように、どっしりと居座っている。俺たちが来るのを、ずっとそこで待っていたみたいに。無数の蔓を垂らし、頭の光を、あの鼓動に合わせてゆっくり脈打たせながら。
ミスラがはっと足を止め、とっさに歌の声を強くした。
庭守がこちらを向く。だが――動こうとはしなかった。
蔓を伸ばしてこない。あの、繭にしようとする攻撃もしてこない。ただ、じっとその場に居座っている。門の前から、頑として一歩もどこうとしない。歌を聞きながら。まるで、お前たちを入れてやりたいが、それだけはできないのだ、とでも言いたげに。
「駄目だ。歌えば、襲ってはこない。でも、あそこから動いてくれない。どうしても、門を通してくれない」
そういうことか、と俺は舌打ちした。
歌は、こいつをなだめる。おとなしくさせる。だが、それだけだ。命令まではできない。“襲うな”とは言える。だが、“そこをどけ”とは言えないのだ。歌はあくまで鎖でしかない。閉じた門を開ける鍵ではなかった。
なら、力ずくか。
俺は黒鴉を抜いた。歌がこいつを抑えている、今のうちだ。門まで一気に走り抜ける。多少の無茶は承知の上だ。
地を蹴った。庭守の脇をすり抜け、門へ。
だが、届かなかった。
庭守の蔓が、歌の隙間を縫うように、俺の足元へ滑り込む。とっさに跳んで避けたが、その先には、もう別の蔓が壁を作っていた。歌でおとなしくしていても、門を守る本能だけは、けっして緩めない。まるで、眠りながら番をする忠実な番犬だ。
何度か試した。だが、駄目だった。歌が続くかぎり攻撃はしてこない。だが、門へ近づこうとすると、その進路にだけは必ず蔓が立ち塞がる。押しても引いても、この門番はどかせなかった。
どうしたものか。歌で眠らせておいて、そのあいだに門をこじ開けるか。だが、あの扉は蔓と金属で固く閉ざされている。黒鴉でも、そう簡単には斬れそうにない。時間がかかる。その間ずっと、ミスラは歌い続けなきゃならない。あの喉が、いつまでもつか。焦りだけが募っていった。
「参ったな。殺すこともできない。どかすこともできない。門は、あいつのすぐ後ろなのにな」
その時だった。
広間の入り口のほうで、がしゃ、と物音がした。
「――待てよ!」
声が、洞窟に響いた。聞き覚えのある声だ。俺たちがいっせいに振り向くと、そこに一人の若いエルフが、肩で息をしながら立っていた。
テオだった。
「テオ!?あんた、なんで、こんなところに」
「里に閉じ込められて、たまるか。あんたらだけで、いい格好しやがって。忘れたのか。これは、おれの里の話だ。おれの、森なんだ」
テオがふらつく足で広間に踏み込んでくる。その手には、何か握られていた。里から持ち出したのだろう。錆びついた、旧文明の機械の欠片だ。
まずい。俺の背筋を、嫌な予感が走った。
「やめろ、テオ!そいつをしまえ。今この場所で、余計なものを動かすな!」
だが、テオの目は、もう俺の声なんて届いていなかった。追い詰められた者の目だ。里が日に日に石になっていく。仲間が呑まれていく。それを、ただ見ているしかなかった男の、限界の目だった。
「森を治す力が、この奥にあるんだろ! だったら、おれが使ってやる。あんたらの、まどろっこしいやり方なんか待ってられるか!」
「テオ、落ち着いて。今その力を使ったら、あいつが怒る」
「怒らせて何が悪い。どうせこのままじゃ、里は終わりなんだ。だったら賭けるしかないだろ」
テオが、その欠片を門のほうへ、高々とかざした。
何をするつもりなのか。おそらく、あいつ自身にもわかっちゃいないのだろう。ただ、力が欲しかった。里を救う、確かな力が。その一心で、ここまで来てしまった。
欠片が、手のひらの中で鈍い光を放った。
次の瞬間だった。
庭守の頭の光が、一瞬で、燃えるような真っ赤に染まった。
鼓動が狂ったように速まる。どぐんどぐんどぐん。広間じゅうの根という根が、いっせいに激しく脈打った。壁が震え、床が揺れる。ぱらぱらと、天井から砂が落ちてきた。
途切れた歌の上に、得体の知れない旧文明の力が、無遠慮に割り込んだのだ。庭守は、それをはっきりと「異物」と見なした。刈り取るべき雑草だと。
庭守が動いた。今度は、なだめる歌もない、本気の動きだった。
無数の蔓が鞭のようにしなり、まっすぐテオへと殺到する。
「テオ! 逃げて!」
ミスラが叫んだ。だが、もう遅かった。
太い蔓が何本も、テオの体に巻きつく。胴を、腕を、足を。そして、その体を軽々と宙へ吊り上げた。手にしていた欠片が、床に転がり落ちる。
「う、あ――! 放せ、放せよ!」
テオが必死に暴れる。だが、蔓は緩まない。あいつを締め上げたまま、門とは、まるで逆の方向へ――広間の奥の、深い闇のほうへと、ずるずる引きずっていく。
あの、繭のある方角だ。
植え替える気だ。あの男を。今この瞬間にも、庭の一部に。
「くそっ!」
俺は地を蹴った。テオを追う。だが、その行く手を、幾筋もの蔓が阻んだ。何十本もの蔓が、俺たちとテオのあいだに、ぶ厚い緑の壁を築いていく。さっきまでの、あの嘘みたいな静けさは、もう影も形もない。歌にうとうととなだめられていた庭守は、テオのしでかした一件で、完全に目を覚ましてしまったのだ。
俺は片っ端から蔓を斬った。斬っても斬っても、次から次へと湧いてくる。汗が目に入る。テオまでの距離が、じりじり開いていった。あの闇の奥へあいつが呑まれたら、もう二度と戻せないかもしれない。あの繭の男のように。生きたまま、木にされて。
門は、その蔓の壁の、さらに向こう。リルは砲撃を撃てない。この狭い洞窟で撃てば、俺たちごと火だるまだ。ノアが短い刃で、必死に蔓を払う。だが、いかんせん数が多すぎた。
また、挟まれた。
だが、今度は、俺たちだけの問題じゃない。
テオが連れて行かれる。心臓へ続く門は、固く塞がれた。頼みの綱の歌も、もうまるで効かない。
隣で蔓を払いながら、ノアが静かに言った。
「ご主人様。このままでは、テオさんを追う道も、門への道も、両方失います」
わかっている。だが、どうすればいいのか。歌は効かない。力も通じない。完全な手詰まりだった。焦りと汗で、頭がうまく回らなかった。
三方から、緑が迫ってくる。
時間切れは、もうすぐそこまで来ていた。




