第56話 墓所へ
夜明け前。まだ星の残る空の下を、俺たちは里を出た。
空気は身を切るように冷たい。息が白くほどけて消える。里はまだ眠っていて、見送りに出てきたのはオルウェンと、数人の年寄りだけだった。テオの姿はない。自分も行くと言い張って、オルウェンに叱られ、家に閉じ込められたらしい。若さってのは、そういうものだ。
案内はミスラだった。番人の娘は弓を背負い、迷いのない足取りで森の奥へと俺たちを導いていく。掟で禁じられた道だ。それでも行くと、こいつは自分で決めた。ゆうべ里の外れで、一人、長いこと膝を抱えていた。その背中に俺は声をかけなかった。決めるのは、こいつ自身だ。
「あんた、本当にいいのか、番人が禁足地に踏み込むんだろ?」
「いい、境目で歌ってるだけじゃ、里は守れない。ゆうべ、それをいやってほど思い知った。あんたが正しい。だったら、あたしも行く。番人だからこそ、この森のいちばん奥を見なきゃいけない」
棘の取れた声だった。人は一晩でも変わる。追い詰められた者ほど、変わるのは早いらしい。
「意外と、きっぷがいいな」
「番人をなめないで。あたしだって、里じゃそれなりに腕は立つんだから」
その隣でリルが大きなあくびをした。
「ねむい。こんな朝早くに歩くの、やだー」
「歩けるだけましだろ。海じゃ泳げなくて溺れかけたくせに」
「それ、もう言わないでってば!」
軽口を叩き合ううちに、空が少しずつ白んでくる。
森は、進むほどに姿を変えていった。
昨日見た光る幹や、機械仕掛けの草花。あんなものは序の口だった。奥へ行くほど、緑と鉄の絡み合いが濃くなっていく。木の幹を太い金属の管が這い上っている。苔むした歯車が木の股に埋まって、ゆっくりと回っている。何のために回っているのかは、わからない。ただ一万年そうしてきたように、回り続けていた。
「この森ってのは、元からこうだったのか」
「わからない。あたしが生まれるずっと前から、森はこうだった。奥に近づくほど、鉄が増える。ご先祖は、それも触れてはならぬものだと言った。理由は教えてくれなかった」
触れてはならぬ。近づいてはならぬ。この森の掟は、どれも同じ匂いがする。何かを必死で忘れようとしている、そんな匂いだ。
やがて、木々が途切れた。
開けた視界の先に、それはあった。
俺は足を止めた。ノアも、リルも。しばらく、誰も口をきかなかった。
都市が、あった。
いや、都市の亡骸だ。
見上げるほどの塔が、何本も天を突いている。丸い屋根の大きな建物。空へと渡された、細い橋の残骸。それが丸ごと、森に呑まれていた。塔には太い根が螺旋を描いて巻きつき、割れた壁の隙間から若い枝が噴き出している。窓という窓から蔓が垂れ下がり、緑の滝になって流れ落ちていた。
石と、鉄と、緑。人の造った真っ直ぐな線と、森の描く曲がった線が、境目もなく溶け合っている。
美しかった。同時に、ぞっとするほど間違っていた。
「街が、森に、食べられてる」
リルがかすれた声で言った。
まさに、そのとおりだった。
驚いたのは、それがまだ生きていたことだ。
崩れた建物のあちこちで、淡い光が明滅している。壁に埋まった機械が、蔓に絡まれながらもまだ動いていた。傍らの巨木の葉が、朝日を浴びてきらきらと光る。その光が幹を伝い、根を通って、機械へと流れ込んでいるように見えた。
「こいつら、森の光で動いてるのか」
「たぶん、そうです。太陽の光を木の葉が集め、機械へ送っている。森と機械が、一つの生き物のように繋がっているのです」
ノアが静かに言った。都市の亡骸を、その黒い瞳がゆっくりと見渡していく。
一万年。あるいは、それよりも長く。
この都市は、森に呑まれながら、森の光を糧に動き続けてきた。誰にも看取られることなく。
これが、緑の墓所。ヴェルダント。里の森を白い石に塗り替えている“何か”は、この、いちばん奥に眠っている。
俺たちは、都市へ足を踏み入れた。
入ってすぐの区画には、荒らされた跡があった。割れた棚。ひっくり返った容器。誰かがはるか昔、金目のものを漁っていったらしい。残っているのは、蔓に絡まれた錆の塊ばかりだ。
崩れた壁の一枚に、ふと目が留まった。
蔓をかき分けると、色あせた絵が現れた。壁一面に描かれた古い絵だ。青い空。白い雲。その下に緑の庭が広がり、人々が笑っている。花を摘む者。木陰で憩う者。子どもたちが駆け回っていた。
空に浮かぶ、緑の庭の都市。それが、この街のかつての姿だったのだろう。
「昔はきれいな街だったんだね」
リルが、絵をそっと撫でた。
「ああ」
俺は、絵の中の緑の庭を見た。手入れの行き届いた、美しい庭。誰かが大切に育てていた庭だ。
それが今は、人を失い、森に呑まれ、行き場をなくした緑が、里まで溢れ出している。
――手入れをする者が、いなくなった庭。
その言葉が、なぜか頭に残った。だが、その意味を、まだ俺は掴めていない。
ノアが、絵の隅の小さな文字を見つめていた。オルウェンから預かった、あの板の文字とどこか似ている。だが、ノアは何も言わなかった。ただじっと、それを見ていた。
ぷつり、と。
どこかで、何かがはじける音がした。
振り向くと、道の先の草むらから、白い綿のようなものがふわりと舞い上がっていた。ひとつ、ふたつ。それがたちまち、あたり一面に広がっていく。甘ったるい匂いが鼻をついた。
「胞子だ!ゆうべのあれと同じだ。吸うな」
俺は腕で口元を覆った。 白い綿の奥で、何かが動いた。
蔓だ。人の腕ほどの蔓が何本も、綿の霧を突き破って鎌首をもたげる。その根元には、また、あの苔むした機械。植物と機械の番犬だ。こいつらは、どうやら都市の門番らしい。
リルが反射的に杖を構えた。だが、その手が止まる。
「あ……そっか。撃てないんだ、ここ」
「ああ。撃つな。この綿、たぶん燃える。火をつけたら、俺たちごと、炭になるぞ」
火力で薙ぎ払う。それがリルの戦い方だった。だが、この森ではそれが使えない。燃やせば、守るべき森が燃える。リルにとっちゃ、利き腕を縛られて戦うようなものだ。
「じゃあ、どうすんの、これ」
俺は黒鴉を抜いた。青白い刃が二本、灯る。
「薙ぐんじゃない。蔓の根元の関節。あそこだけを正確に撃ち抜くんだ。お前なら、できる」
「やったこと、ないってば」
「なら、今、覚えろ」
俺は地を蹴った。迫る蔓を刃で払い、機械の懐へ飛び込む。だが、数が多い。一体を斬っても、両脇から新手が来た。
「リル!」
「もう、わかったよっ!」
背後で、リルが杖を構え直す気配。今までの、薙ぎ払う撃ち方じゃない。息を詰め、狙いを絞る。
細い光が、一条。
それが俺の脇をかすめ、蔓の根元の関節を正確に撃ち抜いた。火花が散り、蔓が糸を切られたように崩れ落ちる。
「当たった! あたし、今の当てたよクロウ!」
「上出来だ。その調子でいけ」
ノアも、短い刃で蔓を舞うように払っていく。眠り毒の綿の中でも、その動きは少しも鈍らない。俺の刃と、リルの絞った射撃と。三人で、門番を一体ずつ片づけていった。
最後の機械が、火花を上げて崩れる。
白い綿が、ゆっくりと風に流れて消えていった。
「やったね」
リルが額の汗を拭って笑った。まだ荒い息のまま。だが、その顔は少し誇らしげだった。
その時だった。
ずっと奥。塔の、さらに向こう。緑の闇の底から、低い音が響いてきた。
どぐん、どぐん、と。まるで、巨大な心臓の鼓動のように。
音に合わせて、あたりの機械の光が、いっせいに脈打った。垂れ下がる無数の蔓が、風もないのにざわりと揺れる。まるで、この都市そのものが、俺たちの侵入に気づいて身じろぎしたみたいだった。
ミスラの手が、弓を握りしめる。
「……今の、何」
「さあな。だが、たぶん、あれが心臓だ。俺たちが会いに行く相手だよ」
どぐん、と、また鼓動が響く。
その音は、恐ろしくもあり、けれど、どこか招いているようにも聞こえた。おいで、と。ずっと待っていた、と。
俺は腰の黒鴉に手を当てた。反対の手には、オルウェンから預かった歌の言葉の板。この二つがあれば、あの心臓に手が届くかもしれない。
目の前に、緑に呑まれた都市が、どこまでも続いている。淡い光が、ゆっくりと明滅する。まるで、一万年ぶりの客を静かに待ちわびる、生き物のように。
「行くぞ。この街の、いちばん奥。あいつの心臓まで」
鼓動が、応えるように、また一つ、大きく響いた。




