第55話 緑の墓所
石になる白い波は、里の手前で止まっていた。
固まった下生えを踏み越えて、俺たちはミスラのあとを追う。だが、その前に、一つ確かめておきたい。
「なあ、ミスラ。あんたら森の民は、街のギルドに救援を頼んだよな。旧文明の“何か”で、森が呑まれてる、と」
ミスラの足が止まった。金色の目が、まじまじと俺を見る。
「あんた、その依頼の――」
「ああ。ギルドで受けてきた。俺が、あんたらの言う“よそ者”だよ」
ミスラの顔に、いくつもの色が浮かんで消えた。驚き。安堵。それから、隠しきれない後ろめたさ。
「そう。あんたが」
ミスラはぽつりと言った。
「あたしらは、掟を破ったんだ。森のことは森の民だけで、ずっとそうしてきた。なのに、外に頭を下げた。それだけ、追い詰められてる」
なるほどな。命の恩人に棘のある態度を取っていたのも、こいつなりの気持ちの裏返しだったらしい。助けは欲しい。でも、外の者に頼るのは悔しい。若い番人には、荷が重い矛盾だ。
「気にすんな」
俺は軽く肩をすくめた。
「頼まれたから来た。それだけだ」
木々のあいだを抜けると、ふいに視界がひらけた。
里が、そこにあった。
見上げるほどの巨木が何本も寄り集まり、そのうろや太い枝の上に、木と蔓で編んだ家がいくつも架かっている。幹のあいだには、蔓を渡した吊り橋。エルフたちが軽やかに伝って行き来していた。どの家も、木を削らず、木のかたちに沿って、そっと寄り添うように作られている。森を切り拓くのではなく、森に住まわせてもらう。そういう暮らし方だ。
「すごっ。家が、木の上にある」
リルが口をあんぐり開けて見上げた。こんなときでも、この子の目だけはきらきらしている。
だが、その穏やかさは、里の半分までだった。
東側の一角が、白く光っている。
三軒ばかりの家が、根元から先へ、じわじわと結晶に呑まれかけていた。生きた木の茶色がそこだけ抜け落ち、硬く白い石に変わっている。エルフたちが桶で水をかけ、蔓で幹を縛り、必死に押し返そうとしていた。だが、効いていない。かけたそばから、また別の枝が端から固まっていく。
石になった枝が、風もないのに、ぱきりと折れて落ちた。
「……ひどいな」
思わず、声が漏れる。ここは、生きた森が静かに殺されている場所だった。
俺たちに気づいて、水をかけていたエルフたちが手を止めた。じっと、こちらを見る。よそ者。しかも、黒い機械を身につけた男。警戒の色は、確かにあった。だが、それ以上に、すがるような目だった。助けが来た。街のギルドが、本当に人を寄越した。そういう必死の期待が、そこにはにじんでいる。
ミスラが、里の者たちに何か告げた。ざわめきが走る。人垣の奥から、一人の老女がゆっくりと進み出てきた。
白い髪を長く垂らし、木の杖をついている。背は低く、体は枯れ枝のように細い。なのに、その老女が一歩前に出ただけで、ざわついていた里がしんと静まった。深い皺の奥に、静かな光があった。
「あんたが、ギルドの寄越した者か」
老女は俺を頭から爪先まで、ゆっくりと見た。その視線が、俺の腰の黒鴉でしばらく止まる。
「外の技術を使う者を、里に招く。長く生きたが、こんな日が来るとはな」
老女は細く息を吐いた。
「わしは、オルウェン。この里のまとめ役だ。ギルドに救援を頼んだのは、わしだよ」
「クロウだ。それと、ノアとリル」
「よく、来てくれた」
その一言に、悔しさと、それを上回る覚悟がにじんでいた。掟を破ってでも、里を救う。この老女は、その責めを一身に背負う気らしい。
「約束は、聞いておるな」
オルウェンが言った。
「森を鎮めてくれたら、里の禁書庫を開く。外の者にあそこを見せるのも掟破りだが、もう、なりふりは構っておられぬ」
禁書庫。古い時代の言葉が眠る、エルフの書庫。その一片に、ノアの探しものが――この子の来し方の答えが、あるかもしれない。俺がこの依頼を受けたのは、そのためだ。
俺はオルウェンに向き直った。
「ばあさん。あの森を、こんなふうに変えてるのは、何なんだ」
オルウェンはしばらく俺の顔を見ていた。それから、ぽつりと口を開く。
「森のいちばん奥。ご先祖が“緑の墓所”と呼んだ場所に、古い時代の“何か”が眠っている」
「何か、ってのは」
「わしらにも、わからぬ。ただ、そこに触れてはならぬ。森の境を守り、そっとしておく。それが、里の掟だ」
オルウェンの声が少し遠くなった。
「はるか昔、この森を作ったという者たちが、そう遺した。わしらエルフの、生みの親だとも言う。もっとも今では、ただの言い伝えだがな」
森を作った者たち。エルフの、生みの親。
旧文明の匂いが、また鼻をかすめた気がした。だが、そこは今、深追いしない。
「その“何か”を、どうやってそっとしておくんだ」
「歌う」
思いがけない答えだった。
「番人が森の境に立ち、歌を捧げる。決まった言葉を、決まった節で。そうすれば、森は荒れぬ。ご先祖の代から、ずっとそうしてきた」
「その歌が、近ごろ効かなくなった、と」
「墓所の“何か”が、目を覚ましたのだ」
オルウェンの声が細くなる。
「もう、歌ごときでは抑えきれぬ。だから、外の力を借りることにした。番人の歌の代わりに、森の境を守ってほしい。里が、これ以上呑まれぬように」
歌えば鎮まる森。効かなくなった、古い歌。
俺の頭の隅で、何かがこつんと引っかかった。だが今は、先に言っておくことがある。
「悪いが、境を守るだけじゃ、焼け石に水だ」
オルウェンの皺の奥の目が、細くなった。
「白いのは、奥から湧いてる。境で押し返しても、また湧く。元を止めなきゃ、いた
ちごっこだ。その元ってのが、あんたらの言う“墓所”。俺は、そこへ行く」
里が、ざわついた。
「ならぬ」
オルウェンの声が鋭くなる。杖が地面を打った。
「救援は頼んだ。だが、墓所へ踏み込めとは、頼んでおらぬ。あそこは、触れてはならぬ場所だ。森の境を守るのはよい。だが、墓所を侵すのは、話が別だ」
――ここだ。この里の、いちばん深い一線。
呑まれて死ぬよりは、と外の助けは呼んだ。だが、いちばん奥の聖域にだけは、指一本触れさせたくない。追い詰められてなお守りたいものが、この老女にはあるらしい。
「オルウェン様!」
人垣から若い男が飛び出した。細い体つきだが、目だけが燃えるように強い。
「クロウの言うとおりだ。境を守るだけじゃ、じり貧なのは、みんな知ってる。奥に森を治す力があるなら、使えばいい。おれは、賛成だ」
「テオ。お前は、また」
「掟、掟って、それで里が何軒焼けました。この一月で、何人が呑まれた。ご先祖の掟が、おれたちを守ってくれましたか」
テオと呼ばれた男が俺を見た。すがるような、けれど、どこか挑むような目だった。
里は、割れている。ひと目でわかった。掟を守る老人たちと、それでは死ぬと訴える若者たち。厄介なのは、どちらも間違っていないことだ。
その夜。
里の広場で、火が焚かれた。ミスラが、木の実と焼いた芋を分けてくれる。リルが遠慮なく手を伸ばし、頬をふくらませて、うまいうまいと繰り返した。おかげで、里の子どもたちがおそるおそる近づいてくる。銀色の髪が珍しいのか、そっと触れては笑い合っていた。
少しだけ、里の空気がほどけかけた。その時だった。
悲鳴が上がった。
東の一角。あの白く光っていた家のほうだ。振り向くと、白い広がりが、また一段、里の内側へせり出していた。押さえていた蔓がぱきぱきと石に変わり、家の柱を下から順に呑んでいく。
俺は駆けた。ノアが続く。倒れかけた柱の下から、逃げ遅れた子どもをノアが軽々と抱え上げた。間一髪だった。
水も蔓も、もう追いつかない。俺たちはただ、白い波が家を一軒まるごと石に変えていくのを、見ているしかなかった。
オルウェンが、焼け落ちた家の跡をじっと見つめていた。その横顔から、血の気が引いている。
俺は、その隣に立った。
「見たろ、ばあさん。歌も、境の守りも、もう間に合ってない。このままじゃ、里ごと石になる」
オルウェンは、答えない。ただ、白い残骸を見つめていた。
「頼む。墓所へ行かせてくれ。大元を止めなきゃ、あんたらの守ってきた森が、まるごと死ぬ」
長い沈黙があった。焚き火の、爆ぜる音だけが響く。
やがて、オルウェンは細く息を吐いた。
「……好きにせい。止めても、あんたは行くのだろう」
それから、懐に手を入れ、古い布包みを取り出した。ほどくと、中には、手のひらほどの薄い木の板。表に、見たこともない文字がびっしりと刻まれている。
「番人に代々伝わる、歌の言葉だ。意味は、とうに失われた。だが、墓所の“何か”に届く言葉があるとすれば、これしかない」
俺は板を両手で受け取った。刻まれた文字を、指の腹でなぞる。ざらりとした感触の奥から、あの古い技術の匂いがした。
歌えば、鎮まる森。効かなくなった、古い言葉。奥で目を覚ました、何か。
バラバラだった破片が、頭の中でかちりと近づく。
あの歌は、ただのしきたりなんかじゃない。奥で眠る“何か”に、語りかけるための言葉だ。長い時のなかで意味は忘れられ、節だけが残った。壊れかけの、けれど確かに繋がっている――鍵だ。
俺の黒鴉と、この古い言葉があれば。あの森の心臓に、手が届くかもしれない。
その時、ずっと板を見ていたノアが静かに口を開いた。
「……この文字。どこかで、見た気がします」
小さな呟きだった。だが、俺の胸をかすかに刺す。ノアが、古い時代の言葉に覚えがある。この子の来し方に、この森は繋がっているのかもしれない。
だが、ノアはそれ以上言わなかった。いつもの穏やかな顔に戻る。
「面白くなってきた、と。ご主人様の顔に、書いてあります」
「よく、わかってるな」
火の粉が夜のこずえへ昇っていく。その、はるか奥。緑の闇の底で、目を覚ましたばかりの“何か”が、こちらを、静かに待っている。
明日、そこへ行く。
壊れかけた歌の言葉と、この手の鍵を、持って。




