第52話 灰色の船
夜が明けきる前に、灰色の船が、入り江へ入ってきた。
浜には、村の連中が集まっていた。誰も漁に出ようとしない。舟を引き上げて、家の陰からじっとその船を見ている。半年ぶりの漁が始まったばかりだというのに、この島の朝は、また止まっていた。
俺は桟橋の突端に立っていた。
舷側から板が渡され、揃いの外套の男たちが降りてくる。その最後にクレイスがいた。仕立てのいい外套に手袋。潮風の中で、髪の一筋も乱れていない。この男だけが、絵から抜け出してきたみたいに場違いだった。
「おはようございます」
クレイスが微笑んだ。
「素晴らしい仕事ぶりでした。深度作戦群の封鎖を解き、ネレイスの管理個体を排除した。四十年、我々にできなかったことを、あなた方は、ひと月足らずで」
「見てたのか」
「音を聞いていました。海の底の震動は、遠くまで届きますから」
こいつは俺たちが潜っているあいだ、ずっと、沖にいた。安全な水の上で、俺たちが死ぬか道を開けるかを待っていた。そして、道が開いた。
「で、今日は何しに来た」
「回収です」
クレイスは当たり前のことのように言った。
「あの海域の遺物は、財団が回収します。ドームの残骸も、施設の断片も、あの個体の遺体も、すべて」
「勝手にしろ。俺には、もう用のない場所だ」
「ええ。ですから、これは通告ではなく、ご挨拶です」
クレイスが手袋の指を一本立てた。
「ついでに、一つご提案が」
男の目が俺の背後へ流れた。
浜のほうだ。マレナが腕を組んで立ち、その後ろで村の連中が息を詰めている。
「この村は良い港です。深度作業の拠点として、これ以上の場所はない。財団はここに補給所を置き、桟橋を広げ、倉庫を建てたい。村には相応の対価を払います。魚など獲らなくとも暮らせるほどの」
浜が、ざわついた。
金の話だ。半年飢えた村に、金の話をしている。しかも、この男が言えば嘘にならない。財団は本当に払うだろう。
マレナが一歩前へ出た。
「断る」
その声は低かった。だが、浜の隅まで届いた。
「うちの海だ。よそに貸す気はねえ」
「今日、お決めいただく必要はありません」
クレイスは少しも表情を変えなかった。
「時間はあります。半年、この村は苦しんだ。次に何かが起きたとき、あなた方はまた、誰かが助けに来るのを待つのですか。そのときも都合よく、こういう変わり者が通りかかると」
俺のほうを顎で示す。
嫌な言い方だった。だが、効く言い方でもある。村の連中の目が揺れていた。半年の飢えは、そう簡単に忘れられない。
浜の隅で、若い漁師の一人が、隣の男に何か囁いた。もう一人が、それを押し黙って聞いている。誰も口には出さないが、頭の中では算盤を弾きはじめていた。桟橋が広がれば、仕事が生まれる。倉庫が建てば、金が落ちる。飢えを知った人間にとって、それは、喉から手が出るほどの話だった。
クレイスは、そのざわめきが村へ染みていくのを、黙って待っていた。急いで押しつけたりはしない。この男は、種だけ蒔いて帰るつもりなのだ。
「クレイス」
俺は桟橋を、一歩、前に出た。
「村に手を出すな」
「手など出しません。買うだけです」
「同じことだ」
「まるで違いますよ」
クレイスが、初めて笑みを消した。
「あなたは、この村に何を残しました。魚ですか。それは半年後、また海が変われば消えます。財団が残すのは、桟橋と倉庫と契約です。契約は消えない。あなたは、そのときここにいない」
言い返す言葉が、すぐには出てこない。
こいつの言うことは、半分は正しい。俺は明日にもこの島を出る。そのあと村がどうなるかを、最後まで見届ける気はない。
だが、こいつが見落としていることが、一つある。
この男は、あの海の底を、金と技術の眠る鉱脈だと思っている。掘れば掘っただけ取り出せる、無主の宝の山だと。旗艦の骨たちが、なぜ持ち場を離れずに死んだのか。あの記録を読んでいない人間には、そこが、どうしても分からない。
「一つ、訂正がある」
「なんでしょう」
「あんたは、あの海の底を、まだ財団のものだと思ってるな」
「違うと?」
「違う」
俺は袖をまくった。腕には何もない。示せるものなんて、何ひとつ持っていない。
「あの艦隊の封鎖任務は、俺が引き継いだ。旗艦の管制核が、そう記録している。あそこは、もう、俺の持ち場だ」
クレイスの眉が、ほんのわずかに動く。
この男の顔が動くのを、俺は初めて見た。
「……当直の、引き継ぎですか」
「知ってるのか」
「旧文明の軍は、そういう手順を持っていました。まさか、それを使う人間がいるとは、思いませんでしたが」
クレイスが俺をじっと見た。品定めをするような、あの目つきだ。
「では、伺います。あなたは、あの海域の何を守るのですか。個体は、あなたが沈めた。施設は崩れた。守るべきものは、もう何も残っていない」
「残ってるさ」
俺は沖を指した。
「あの底には、まだあんたらが欲しがるものがある。命を造る技術だろ。それが外へ出た。だから海が狂って、村が半年飢えた。一万年前の連中は、それが分かってたから、艦隊ごと沈んで蓋をした」
クレイスの表情は動かない。
「掘るなとは言わねえ。だが、掘り返してまた蓋が開いたら、次に飢えるのはこの村だ。俺は、それを見張る役目を引き継いだ。だから、こう言っておく」
まっすぐ、この男を見た。
「もう一度あの海を狂わせたら、俺が、あんたのところへ行く」
浜は、静かだった。波の音だけが、していた。
クレイスはしばらく黙って、それからゆっくりと拍手をした。手袋の音は乾いていた。
「素晴らしい。回収官として、そういう脅しは、何度も受けてきましたが」
クレイスの目が細くなる。
「本気で言っているのが分かる相手は、久しぶりです」
クレイスが外套の裾を翻した。
だが、二歩ほど歩いて足を止めた。振り返った先は、俺じゃない。
桟橋の袂で、ノアが立っていた。
昨日まで寝台にいた体で、いつの間にかそこまで来ていた。潮風に、黒い髪が揺れている。
「そちらの方は」
クレイスが、初めてノアに話しかけた。
「ずいぶんとよく旧文明の言葉を扱われるとか。あの旗艦の核も、その方の助言があってこそでしょう」
「うちの仲間だ」
俺はノアの前に一歩ずれた。
クレイスは笑みを崩さない。だが、その目はノアから離れなかった。値踏みだ。この男が遺物を見るときの、あの目だった。
「失礼。あまりに、精緻でいらしたので」
「精緻?」
「ええ。よくできた作品を見ると、つい、作者を知りたくなる。職業病です」
俺の背後で、ノアは何も言わなかった。
ただ静かに、頭を下げただけだった。いつもの礼儀正しい仕草だ。だが、俺には分かった。ノアは、この男の目を真正面から見ていない。
「では、また」
クレイスは、それきり船へ戻っていった。
灰色の船が、朝日の中を静かに沖へ出ていく。その先で、いくつもの作業船があの海域へ向かっているのが見えた。財団は、もう掘りはじめている。
船影が消えてから、マレナが桟橋へ来た。
「あんた、あいつと知り合いか」
「腐れ縁だ」
「あの話、うちは受けねえぞ」
「そうしろ。だが、あいつは諦めねえ。何年かかっても、また来る」
マレナが鼻を鳴らした。
「来ればいい。うちの海は、うちで守る」
いい顔だった。半年前、この女は、痩せた子どもらを抱えて、誰にも相手にされない依頼を出していた。今は、財団を正面から追い返している。
村は変わった。俺が変えたわけじゃない。海が戻って飯が食えるようになれば、人は勝手に、そういう顔をするようになる。
昼過ぎに、鯨号を出した。
浜には、村じゅうが出ていた。マレナが腕を組んで立ち、タルガが義足を鳴らして、船の腹をもう一度、掌で叩く。
「おれの継ぎ目だ。次に割れたら、化けて出てやる」
「二度目だぞ、その台詞」
「大事なことは、二度言う」
ナジが干した魚を山ほど押しつけてきた。
「路銀の足しにして。うちの、いちばんいいやつだから」
「もらっとく」
受け取った包みは、ずしりと重かった。この村が半年ぶりに手に入れた、いちばんの上物だ。金にはならないが、こういう報酬は嫌いじゃない。少なくとも、街の商人が寄越す銀貨より、よほど正直な重さをしていた。
こいつが親父の潜水具を背負う日は、まだ先だ。だが、いつか背負う。そのころには、この島の漁場もこいつのものになっている。
リルが村の娘たちに手を振っていた。目が、うっすら赤い。
「また来るからねー!」
「リル様、またねー!」
様は、まだ続いているらしい。
入り江を出ると、風が変わった。
舳先にノアが立っていた。潮風に髪を押さえながら、沖を見ている。その視線の先に、財団の作業船があった。
「あの男は、いずれ、あの底に手を届かせます」
「だろうな」
「そのとき、また海が狂えば」
「そのときは、行く」
ノアがこちらを見た。少し驚いた顔をしている。
「持ち場を引き継ぐってのは、そういうことだろ」
俺は舵輪を切った。
「まあ、その前に、腹を満たさなきゃならん。街に戻って、稼ぎのいい依頼を探す。今回は、まるっきりの赤字だ」
「魚は、たくさんいただきましたが」
「魚で工房の勘定は払えねえよ」
ノアが口元をほころばせた。
久しぶりに見る、いつもの顔だ。
その口が、また、あの歌を口ずさみそうになって――止まった。
ノアは自分でそれを止めた。唇を結んで、こちらを見て、それから小さく頭を下げる。
「行きましょう。次の場所へ」
鯨号が、青い海を割って走りだす。
振り返ると、カイア島が朝の光の中で、だんだん小さくなっていく。あの浜で、村の連中がまだ手を振っていた。
この島には、ひと月ばかりいた。それだけの間に、光の撃たない夜が戻り、網に魚がかかり、少年が一人、前を向いた。稼ぎは一文もなかったが、そう書き並べてみると、案外、立派な釣果に見える。
次は、どこだ。
街へ戻れば、また依頼が山ほど積まれているだろう。塔があり、砂の底があり、海があった。次は、どんな遺跡が待っているのか
その、どこかに。
ノアがまだ話せずにいるものの答えが、あるのかもしれない。
舳先で、ノアが髪を押さえている。その横顔は、いつもどおり穏やかで、何を考えているのかは、やっぱり読めなかった。それでいい。急かす気はない。この一年、俺がそうしてもらってきたように、今度は、俺が待つ番だ。
風が、追い風に変わった。
鯨号の舳先が、水平線をまっすぐに指している。まだ見ぬ遺跡が、その向こうのどこかで、一万年ぶんの埃をかぶって俺たちを待っている。
次の一万年ぶんは、どんな辛気くさい留守番をしているのか。
俺は舵輪を握り直して、速度を上げた。




