第51話 凪いだ海の報酬
浜へ帰り着いたその日から、村の連中が入れ替わり立ち替わり、俺たちの泊まる小屋を覗きに来る。誰も大きな声は出さない。ただ戸口からそっと顔を出して、俺の顔と寝台のノアを見て、それから深く頭を下げて帰っていく。
礼を言いに来ているのだった。
沖の光が消えた夜のことは、村じゅうが知っていた。その光を消したやつらが、そのまま海の底へ潜って、海を狂わせていた大本まで沈めて帰ってきた。それをどう受け止めればいいのか、この村の連中は、まだ言葉を見つけられずにいるらしい。だから、頭を下げるしかなかったんだろう。
俺はそのたびに、片手を上げて応えた。気にするな、という代わりに。
背中の傷は、あらかた塞がっていた。ネレイスの水で作り直した体は、我ながら丈夫にできている。三日も寝ていれば、もう普通に動けた。もっとも、いくら体が動いても、村の連中がこう毎日拝みに来るのでは、おちおち出歩く気にもなれない。俺は英雄でも救い主でもない。金で雇われた、ただのハンターだ。それを、この村の連中は、どうにも分かってくれないらしかった。
四日目の朝、マレナが浜へ俺を呼び出した。
海は、凪いでいた。
あの腐った肉の匂いは、もうどこにもない。打ち上げられた白い腹の魚も日を追うごとに減って、今朝はもう一匹もなかった。ただ朝の光を照り返す静かな海が、そこに広がっている。
「見てくれ」
マレナが沖を指した。
舟が、出ていた。
村の漁師たちの舟が、何隻も沖へ漕ぎ出している。半年ぶりの漁だ。網を打つ音が、風に乗って、微かに聞こえてきた。
「昨日、試しに出したんだ」
マレナの声は、いつものぶっきらぼうなままだった。だがその目は、沖の舟から離れなかった。
「網に、魚がかかった。喰らい魚じゃない。ちゃんとした、食える魚だ。半年ぶりに、村の連中が腹いっぱい飯を食った」
浜のほうで、子どもたちの歓声が上がった。戻ってきた舟から、銀色に光る魚が、籠いっぱいに水揚げされていく。痩せこけていた子どもらが、その籠に群がって、はしゃいでいた。あの、腹を空かせて椀を抱えていたガキどもの顔に、生きた血の色が戻っている。それを見ているだけで、腹の底が、じんわりと温かくなった。
「そりゃ、よかった」
「よかった、で済むかよ」
マレナがこちらを向いた。潮に灼けた厳つい顔が、少しだけ歪んでいる。
「あんたら、よそ者だ。この島になんの義理もない。金にもならねえ依頼だと、腕のいいハンターはみんな鼻で笑って通り過ぎた。あんたらだけが引き受けた。引き受けて、村を救っちまった」
マレナの節くれだった手が、ぐっと握られる。
「礼の言い方が、分からねえ。この村にゃ、あんたらに渡せるほどの金も宝もねえ。だが」
「マレナ」
俺はその言葉を遮った。
「魚が戻ったんだろ。なら、それでいい」
マレナが目を見開いた。
「腕のいいハンターが素通りしたのは、正解だ。金にならねえからな。俺も、金のために来た。だが依頼ってのは、片づいたとき、依頼人がどんな顔をするかで値打ちが決まる。あんたのその顔が見られただけで、この依頼は上物だったよ」
しばらく、マレナは黙っていた。それからぶっきらぼうに、そっぽを向く。
「変な、ハンターだ」
「よく言われる」
もっとも、俺の懐は、来たときより寒くなっていた。
海の底のドームからは、結局、何ひとつ持ち出せていない。あそこには、旧文明の秘密が山ほど眠っていたはずだ。命を造る技術。傷を消し去る水。値のつけようもない代物が、いくらでも転がっていた。
だが、あのときは、それどころじゃなかった。ノアを担いで、崩れる天井の下をくぐって、水没した通路を泳いで逃げるので精一杯だ。荷物を漁る余裕なんて、まるでなかった。
旗艦から拾った動力核も、もう手元にはない。あれはそっくり、鯨号の耐圧殻に埋めてしまった。あの核がなければ、そもそも底までは潜れなかった。使うために拾ったのだから、文句を言う筋合いじゃない。それでも、船の腹に一財産を塗り込んだと思うと、なかなかに、ため息が出る。
一万年ぶんの遺跡を二つ黙らせて、手元に残ったのは、これだ。
「割に合わねえ仕事だったな」
浜で、俺はぼやいた。
マレナが、じろりとこちらを見た。
「金なら、村が出す。今すぐは無理だ。だが、魚が獲れるようになった。次の漁で、次の次の漁で、少しずつでも」
「いらねえよ」
「あんた」
「村を絞って集めた金なんざ、もらってもうまくねえ。それより、当分の飯と、寝床と、船の修繕だ。それで、ちゃらにしとく」
マレナは、しばらく黙っていた。それから、深く息を吐いた。
「安すぎる」
「そうか? この島の魚は、なかなか、うまいぞ」
ナジが、変わっていた。
父親の潜水具を抱えて俺に食ってかかってきた少年が、今は浜で、年下の子どもたちに網の繕い方を教えている。
「よお」
声をかけると、ナジははにかんだ顔で振り向いた。
「クロウ。おれ、決めたんだ。無茶な潜り方は、もうやめる。父ちゃんみたいには死なない。生きて、この漁場を守っていく」
ナジの目に、あの思い詰めた暗さは、もうなかった。こいつも前を向いたらしい。
「それでいい」
俺はナジの頭を、がしがしと撫でた。
「おまえの親父さんは、海を救おうとして、しくじった。だがその手がかりを、俺たちに残してくれた。おかげで村は助かった。誇っていい親父さんだ」
ナジが下を向いた。肩が、微かに震えている。だが泣いてはいなかった。歯を食いしばって、こらえていた。
男が一人、育っていく。その途中に、少しだけ立ち会えたらしい。
ナジは、父親の潜水具を、小屋の壁に飾っていた。もう使わないのだという。使って死ぬための道具ではなく、父を思い出すための、形見にするのだと。それでいい。海に呑まれた親父の潜水具を、また海へ持っていく必要はない。ナジには、その潜水具が似合う日まで、ゆっくり大きくなればいい。
リルは、村の女たちにすっかり懐かれていた。
もともと器量はいい。おまけに、あの化け物を沈めた一人だ。村の娘たちがリルを囲んで、きゃあきゃあと騒いでいる。リルはまんざらでもない顔で、海の底での戦いを、身振り手振りで語っていた。たぶん、話の半分は盛っている。
「――でね、あたしの光で、天井をこう、ばーん、って! それで、クロウが化け物の頭に、どーん、って!」
「へえ、リル様は魔法使いなんだ!」
「まあね。困ったら、いつでも呼んで」
様、ときたか。
俺は少し離れたところで、それを聞きながら笑いをこらえていた。
この島に来たときは、暗い水を怖がって俺の背に隠れていた娘だ。それが今は、村の子どもたちの憧れになっている。あの水没した施設で、覚悟を決めて潜っていった、あの背中を思い出す。
こいつも、遠くまで来たものだ。
ノアは、まだ寝台の上だった。
目は覚ましている。飯も食う。俺やリルと言葉も交わす。傍から見れば、いつものノアだ。
だが、俺には分かった。
時々、この子の目がふっと遠くなる。海のほうを見る。そして、その唇が微かに、あの歌を口ずさむ。
あの化け物は、沈めた。歌の主は、もういない。それなのに、歌だけが、この子の中に残ってしまった。まるで、あの底にこの子の一部を、置いてきてしまったみたいに。
俺はその隣に座って、訊いた。
「ノア。おまえ、あの歌、なんなんだ」
ノアは、しばらく黙っていた。それから、いつもの穏やかな顔で俺を見た。
「分かりません」
「嘘だ」
「……はい。嘘です」
初めて、この子は嘘だと認めた。
「ですが、今はまだ、話せません。わたし自身、うまく掴めていないのです。あの歌がどこから来て、なぜわたしが、それを知っているのか。もう少し、時間をください」
その声は、いつになく頼りなかった。
俺は、それ以上は訊かなかった。話せるようになるまで、待つ。それが仲間ってもんだ。
「分かった。だが、一つだけ約束しろ」
「なんでしょう」
「一人で抱え込むな。おまえがあの底に引かれそうになったら、俺が引き戻す。今度みたいにな。だから、一人で消えようとするな」
ノアの目が、微かに揺れた。それから、静かに頷いた。
「はい。約束します」
その頷きが本物かどうかは、分からなかった。だが今は、それを信じることにした。
この一年、ノアはずっと、俺に何かを隠してきた。海を懐かしがり、遺跡の言葉を誰より深く読み解き、時折、遠い目をした。その正体が、あの海の底に、確かにあった。歌う化け物と、命を造る施設。ノアの過去は、間違いなく、あの旧文明と繋がっている。
いつか、この子は、それを話さなきゃならない日が来る。そのとき、俺がそばにいてやれるかどうか。それだけは、外したくなかった。
その夜、村は、ささやかな宴を開いてくれた。
半年ぶりのまともな魚が、焼かれ、煮られ、皿に山と盛られた。村の連中が、下手な笛や太鼓を持ち出して、浜で火を囲んで騒ぐ。リルは村の娘たちと踊り、ナジは年上の漁師たちに交じって、一人前の顔で酒を飲んでいた。ノアも寝台から出てきて、火のそばで静かに笑っている。
悪くない夜だった。
俺は宴の輪から少し離れて、浜辺に座り、その光景を眺めていた。
依頼一つ、片づけた。海が戻った。仲間もみんな、無事だ。ハンター稼業も、たまにはこういう夜がある。
焚き火の向こうで、タルガが義足を投げ出して、下手な唄を披露していた。マレナが、その隣で、珍しく声を上げて笑っている。ナジが子どもらに胴上げされ、リルが娘たちに囲まれて、火の粉と一緒に、笑い声が夜空へ昇っていく。ノアまでが、火のそばで、そっと手拍子を打っていた。
こういう夜のために、俺はハンターをやっているのかもしれない。柄にもなく、そんなことを思った。
そのときだった。
沖の暗い海の上に、ぽつりと灯りが見えた。
目を細める。
舟の灯りだ。だが、村の漁師の舟じゃない。あんな沖の深いところに、この時間、村の舟は出ない。
灯りは、二つ、三つと増えていった。規則正しく並んでいる。まるで、隊列を組むみたいに。
背筋に、冷たいものが走った。
あの灰色の船だ。
クレイス。財団の回収官。海の底のあれを、狙っていた男。
俺たちが海の底で、あの化け物と施設をどうしたのか。あいつはずっと、沖から見ていたのかもしれない。
宴の笑い声が、遠くに聞こえる。
沖の灯りは、村へ近づきも、遠ざかりもしなかった。ただじっと、そこに留まっている。
あいつは、以前、俺に言った。おまえが底から持ち帰るものは、いずれ我々のものになる、と。
俺は、底のあれを片づけた。だが、財団が欲しかったのは、化け物を退治することじゃない。あの、命を造る技術そのものだ。施設は崩れ、化け物は沈んだ。それでも、あの海の底には、まだ、旧文明の秘密が眠っている。
あいつは、それを掘りに来たんだ。
俺は、腰の黒鴉に、そっと手を触れた。宴の火が、遠くで、暖かく揺れている。
どうやら、この島での仕事は、もう一つ、残っているらしい。




