第53話 街に帰る
アステライアの街は、相変わらず、うるさかった。
石畳を埋める人の波。客を呼ぶ露天商の声。荷馬車の車輪と路面電車の軋み。旧文明の遺物で動く街灯が昼でもぼんやり灯り、その下を色んな種族が肩をぶつけ合って歩いていた。ヒューマンも、獣人も、たまにエルフも。久しぶりに戻ってきたこの喧騒が、俺には、妙に懐かしかった。
海の底の、あの静けさのあとだ。人の声で耳が埋まるのが、こんなに安心するとは思わなかった。
街の外れの車溜まりに鯨号を停めて、俺たちは久しぶりに石畳の上を歩いていた。三人とも、まだ体のどこかに、船の揺れが残っている。海を渡り、大陸に上がり、二日かけて内陸のこの街まで走ってきた。長い帰り道だった。だが、見慣れた街に着くと、その疲れも、不思議と軽くなる。
「クロウ、あれ食べたい。あれ」
隣を歩くリルが、串焼きの屋台を指さす。銀髪のサイドテールが人混みの中で、ぴょこぴょこと跳ねる。カイア島を出てから、こいつの食い意地は、いっそう磨きがかかった。
「さっき、肉まん三つ食っただろ」
「あれは、移動中のおやつ。これは、街に着いた記念」
「理由が毎回変わるな」
文句を言いつつ屋台に銅貨を置いた。空きかけの財布が、また軽くなった。海域の一件は、まるっきりの赤字だった。遺跡を二つ黙らせて、持ち帰ったのは村の礼と干物だけだ。街に戻ったら稼ぐ、と自分に言い聞かせて帰ってきたのに、その初日から、こうして串を買わされている。
我ながら、たいした甲斐性だ。
後ろから、ノアが静かについてくる。メイド服は、この雑多な街並みでも、そこだけ格が違って見えた。人混みに揉まれても、足取りは乱れない。ただ、ときどき、その視線が遠い建物の向こう――たぶん、西の空のほうへ、ふっと流れた。
西には、大陸を覆うエルフの森がある。
海の底で歌に半分持っていかれてから、この十日でノアはずいぶん戻ってきた。飯を作り、鯨号の整備をこなし、いつもの掛け合いをする。だが、夜がいけない。眠っているノアの唇が、ときどき、あの歌を刻む。本人は覚えていない。海に置いてきたはずの何かが、まだこの子のどこか深くに住み着いていた。
こいつの答えを探すためにも、金がいる。旅を続けるには、稼がなきゃならない。
だから、まずはギルドだった。
探索者ギルドのアステライア支部は、街の中心にある。
石造りの大きな建物で、中は昼から探索者たちでごった返していた。武器を担いだ荒くれ、遺物を鑑定に持ち込む者、依頼票の壁の前で頭を寄せ合う連中。半年前と、何も変わらない。
受付の奥から支部長が出てきた。
灰色の髪に、狼の耳。腕には、古い戦いの傷。元凄腕ハンターだったというこの獣人の女は、探索者の誰よりも貫禄があった。
「戻ったか、黒衣の。噂は聞いてる。絶海の孤島で、海を丸ごと救ってきたそうじゃないか」
「大袈裟だ。魚が獲れるようにしてきただけだよ」
「その割に、懐は寂しそうだね」
見抜かれている。俺は苦笑した。この支部長には昔から、隠し事ができない。
「稼げる依頼はあるか。報酬のいいやつだ。今回は、本気で金がいる」
支部長は、壁の依頼票をちらりと見た。だが、その視線はすぐ俺の後ろへ流れた。リルと、ノアのほうへ。
この女は以前も、リルの胸の鍵を見て何か言いかけ、呑み込んだ。ノアのこともだ。二人が身につけた、渦巻きと星の紋章。それが何を意味するのか、この支部長は、たぶん少しだけ知っている。知っていて、“今は言えない”と伏せていた。
その視線が、今日は、いつもより長く、二人に留まった。
「……ちょうど、お前向きの依頼が、一つ来てる」
支部長は、そう言って、一枚の依頼票を抜き出した。
「ただし、金にはならん」
「なら、いらねえ」
「即答するな」
支部長が、その票を指で弾いた。
「差出人が、変わってる。シルヴァリアの、エルフの里だ」
エルフの里。
俺の後ろで、ノアの足が止まった気配がした。
「森の民が、ギルドに救援を求めてきた」
支部長は、声を少し落とした。
「森の奥で、旧文明の“何か”が目を覚ました。木が変わり、獣が変わり、里が立ち行かなくなっていた。だが、森のことは森の民で守るのが、あいつらの掟だ。よそ者を里に入れたことなんて、一度もない」
「その掟を破ってまで、外に頼ってきたわけか」
「そういうことだ。よほど、切羽詰まってる」
旧文明の“何か”が、また目を覚ました。
カルナフの演算核も、海底の艦隊も、みんな同じだった。各地の遺跡が、いっせいに寝返りを打つように目を覚ましている。ボズも、街の噂も、口を揃えていた。世界の底で、何かが号令をかけている。エルフの森の異変も、たぶん、その一つだ。
「報酬は?」
俺は、いちおう訊いた。空の巾着が、そう訊けと急かす。
「金はほとんど出ない。里は豊かじゃないからな」
支部長は、そこで少しだけ声の調子を変えた。
「だが、森を救えば、里の禁書庫を開く、と書いてある。エルフの里の、古い記録だ。旧文明の“識るもの”が、そこには眠ってる。外の誰も、見たことのないやつがな」
旧文明の、識るもの。
金貨じゃない。だが、俺の後ろに立っている子にとっては、その古い記録の一片が、金貨の山よりよほど値打ちがあるかもしれない。
俺は、ノアを振り返った。
ノアは、何も言わなかった。だが、いつも穏やかなその顔が、今は微かに強張っている。海を懐かしみ、旧文明の言葉を誰より深く読み解くこの子は、自分の来し方の答えをずっと探していた。西の空へ流れていた、あの視線の意味を、俺は思った。
「金にならねえ、って言ったよな」
「言った」
「工房の勘定も、飯代も、それじゃ払えねえ」
「だろうな」
支部長は、俺が断ると思っている。当然だ。稼ぎたいと言って戻ってきた男が、ただ働き同然の依頼を受ける道理はない。
俺は、その依頼票を、支部長の手から抜き取った。
「――受ける」
支部長の眉が、片方だけ上がった。リルが、串を咥えたまま、目を丸くする。
「意外か」
支部長は、ふっと笑った。
「そうだろうと思って、その票を、お前のために取っておいた」
食えない奴だ。最初から、俺が受けると読んでいた。
「一つ、言っておく」
支部長の顔から、笑みが消えた。その視線が、またノアへ向く。
「あの森は、古い。旧文明より、もっと古いものが根を張ってる場所だ。……森の禁書庫には、この街の書庫にはないものが、眠ってる。あんたの連れの、あの黒髪のお嬢さんの探しものも、あるかもしれん」
こいつは、やっぱり何かを知っている。
ノアのことを。リルのことを。二人を繋ぐ、あの紋章のことを。
だが、今日もそれ以上は言わなかった。言えば、また“今は言えない”と、伏せるだけだろう。
俺は、それ以上は訊かなかった。答えは、たぶん街の受付じゃなく、あの緑の底にある。
ギルドを出ると、日が傾きかけていた。
夕暮れの街は、朝とはまた違う顔になる。仕事を終えた探索者たちが酒場へ流れ込み、笑い声と麦酒の匂いが通りに満ちはじめる。露天の魚屋が、売れ残りを叩き売りしていた。この当たり前の賑わいを、俺は半年ぶりに体へ馴染ませていた。あのカイア島の夜には、なかったものだ。
街の裏通りに、ボズの店がある。念のため寄っておくことにした。あの片目の老遺物商は、街の裏表を知る生き字引だ。財団の動きも、あの爺さんが一番詳しい。
案の定、ボズは財団の話をした。
「灰色の連中が、海のほうで、でかい残骸を掘ってるらしいな」
拡大鏡越しの片目が、俺を覗く。
「お前さんが、絡んでるんだろう。……あいつらは、しつこいぞ。一度目をつけた獲物は、地の果てまで追う。せいぜい、気をつけな」
わかってる、と俺は答えた。クレイスの、あの涼しい顔が頭をよぎる。海の底の残骸を掘り終えたあと、あの男が次にどこへ鼻を向けるのか。もし、俺と同じ匂いを嗅いでいるとしたら。
考えても、仕方ない。今わかるのは、俺の行き先が、森だということだけだ。
店を出しなに、ボズが干した木の実を一つくれた。森じゃまともな飯にありつけないぞ、という餞別らしい。相変わらず、口は悪いが、根は優しい爺さんだった。俺はそれを一つ齧って、裏通りを抜けた。
その夜、鯨号で西へ発った。
運転席に俺、助手席にノア、後部座席にリル。いつもの並びだ。街の灯りが後ろへ流れていく。
「森、楽しみだねー」
後ろで、リルがのんきに足をぶらぶらさせている。
「海の次は森でしょ。あたし、木登りは得意なんだから」
「泳ぎは駄目だったけどな」
「木は浮かないもん。落ちても死なないし」
変な理屈だ。だが、こいつがそうやって気楽に笑っているうちは、たいてい、なんとかなる。
助手席のノアは、黙って、窓の外を見ていた。西の空の、その先を。
「ノア」
俺は、前を向いたまま、声をかけた。
「答えがあるかどうかは、わからねえ。だが、行くだけ行ってみよう。あろうがなかろうが、それはそれだ」
ノアが、こちらを見た。少しだけ驚いた顔をして、それから、静かに微笑んだ。
「はい。お供します」
その口が、また、あの歌を口ずさみそうになって止まる。ノアは、自分でそれを止めた。この十日で、それだけはできるようになっていた。約束を、こいつはこいつなりに、守ろうとしている。
鯨号が、夜の街道を、西へ走る。
二日も走れば、大陸を覆う、途方もない緑の海に着く。翠林皇国シルヴァリア。エルフの森。海の底の次は、緑の底だ。
禁書庫に眠る古い記録。森の民を怯えさせる、名も知らぬ“何か”。二人を繋ぐ、あの紋章の謎。そして、また旧文明の匂いのする面倒事。
二日のあいだ、緑は少しずつ、窓を埋めていった。低い草原が丈の高い藪に変わり、藪が若い木立に変わる。やがて、見上げても梢の見えない巨木の群れが、道の両側に立ち並んだ。空が、緑に閉ざされていく。その、緑の底の底で、鯨号はきっと、進めなくなる。
窓の外で、街の灯りが尽き、代わりに、満天の星が広がった。
その、はるか西の稜線に、黒々とした森の影がうっすらと横たわっていた。
あの緑のどこかに、ノアの探している答えが、あるのかもしれない。
俺は、アクセルを踏み込んだ。




