第48話 殻を破るもの
ガラスが砕けた。
壁一面ほどもある水槽が内側からの一撃で弾け飛び、数えきれない破片と何トンもの生ぬるい液が広間へなだれ込んでくる。足元が一瞬で浸かった。饐えた匂いが鼻を突く。
その波の奥から、それは身を起こした。
でかい、という言葉が、追いつかなかった。
鯨だ。最初に思い浮かんだのはそれだった。だが、鯨よりも太く、鯨よりも長い。体じゅうが灰色の板に覆われている。分厚い貝殻を何百枚も重ねて貼りつけたような甲だ。一枚一枚の縁から珊瑚が生え、その珊瑚をまた新しい板が呑み込んでいる。一万年かけて着込んだ鎧だった。
体を起こしただけで、広間の天井に背が擦れた。剥がれた天井材が、雨みたいに降ってくる。何百年もそこにあったはずの太い柱が、こいつの肩が触れただけで、折れて水に落ちた。
水槽の中では、まだ小さく畳まれていたのだ。外へ出て、伸びをして、本当の大きさになった。それだけのことで、この広間はもう狭すぎる。
その口が開いて、歌が漏れた。
腹の底を震わせる低い声。俺たちを村からここまで引っぱってきた、あの歌だ。こんな至近で聞くと、もう音じゃない。壁が鳴り、床が鳴り、内臓が勝手に揺すられる。
「これが、歌の正体か」
趣味の悪い子守唄だ、と言ってやりたかったが、口の中が乾いて声にならなかった。
旧文明の連中が艦隊を並べてまで海へ出すまいとしたもの。それが目の前にいる。
黒鴉を抜いて、地を蹴った。懐へ潜り込み、脇腹へ黒鴉を叩き込んだ。
刃が、つるりと滑った。
青白い光刃が甲の表面を舐めただけで、そのまま横へ流れていく。手首に返ってきたのは、岩を殴ったときの痺れだった。傷どころか、傷跡すら残らない。
もう一撃。今度は角度を変えて、隙間を狙う。今度は先端が食い込んだ。だが指の長さぶんも進まないうちに、次の層に突き当たって止まった。
「クロウ、離れて!」
リルの光弾が、俺の頭上をかすめて甲の背に突き刺さった。
破裂。閃光。白い煙が、もうもうと上がる。煙が晴れたとき、そこにあったのは黒い焦げ跡だけだった。
ノアの二本の刃が、逆の側から縁を削り取っていく。継いだばかりの右腕は以前と少しも変わらず鋭い。それでも、削れたのは薄い貝の層だけだった。
三人がかりで、傷ひとつ。
旧文明が造った化け物は、旧文明の技で塞ぐ手間さえ要らなかった。塞ぐような傷を、俺たちが与えられないからだ。
そして、この化け物は俺たちを見ていなかった。
目がないから見えない、という話じゃない。俺が脇腹を斬りつけても、リルが背を焼いても、こいつは振り向きもしなかった。餌でも敵でもないものが足元でうろちょろしている。その程度の扱いだ。
やがて巨体が、のっそりと向きを変えた。
行き先は俺たちの反対側。ドームの壁の、大きく割れた亀裂のほうだった。
その亀裂から、外の海がごうごうと流れ込んでいる。冷たい潮の匂いがする。こいつは、その匂いのほうへ行こうとしていた。
「まさか」
背筋が凍った。
この化け物は、施設を守っているんじゃない。ここに用がないんだ。一万年ぶん育ちきって、水槽の殻を破って、あとは広い海へ出ていくだけ。俺たちを潰すことすら、こいつの予定には入っていない。
通せんぼをしているのは、むしろ、俺たちのほうだった。
「止めるぞ!」
叫んで、壁際の制御盤へ走った。旧文明の建物なら、俺の鍵が刺さる。
黒鴉の刃を差し込むと、青白い文字が流れ込んできた。飼育区画の隔離。標本の逸走に備えた、旧文明の用心深さだ。
――区画隔壁、閉鎖。
天井から、分厚い鉄の板が、地響きとともに落ちてきた。亀裂と化け物の間に、壁が一枚割り込む。
だが巨体は、速度を落としもしなかった。
甲に覆われた頭が、鉄の板を正面から押した。板がたわむ。継ぎ目が悲鳴を上げる。次の瞬間、隔壁は蝶番ごと引きちぎられて、豆腐みたいに折れ曲がった。
その破片が、扇形に飛んだ。
「リル!」
突き飛ばすのが、半拍遅れた。
鉄片がリルの肩をかすめ、その体を、壁際まで弾き飛ばす。水しぶきが上がった。
「っ、いった……」
「生きてるか」
「生きてる。腕、ひねっただけ」
顔をしかめながら、リルは杖を杖にして立ち上がった。ここでへたり込まないのは大したものだが、褒めている場合じゃない。
俺たちの手札で通じたものが、まだ一枚もない。
それでも、まだ引ける札はあった。
天井の梁に沿って、太い鉤つきの鎖が何本も走っている。標本を吊り上げて運ぶための、飼育用の道具だ。制御盤へ黒鴉を差し直して、その鎖を残らず下ろした。
鉄の鉤が、化け物の甲の隙間に次々と食い込んでいく。巻き上げ機が唸りを上げ、鎖がぴんと張った。旧文明が、化け物を扱うために用意した道具だ。効かないはずがない。
効かなかった。
巨体がひとつ身をよじっただけで、天井の梁のほうが、根元から引き剥がされた。鎖が鞭のように跳ね回り、壁を削り、水面を叩く。頭上から降ってきた梁を、ノアが刃で受け流し、俺の肩を掴んで引き倒してくれなければ、俺の頭は今ごろ潰れた果実だった。
「無事ですか」
「上等だ。旧文明の道具まで、あいつには玩具か」
「ノア。あれ、どうやったら殺せる」
答えが返ってくるまでに、たっぷり、一拍あった。
なんでも知っているはずのノアが言い淀む。それが答えみたいなものだった。
「あの甲は、深海の圧に耐えるために育ったものです。刃も光も通りません。理屈の上では、通す方法がありません」
「理屈の外なら、あるのか」
「探しています」
ノアの声は落ち着いていた。落ち着いていたが、視線は化け物から一度も外れていない。
「ご主人様。あれが海へ出た場合の話を、しておきます」
「聞きたくねえな」
「聞いてください。あれは、この施設の水を飲んで育ちました。同じ水が、外の魚を喰らい魚に変えています。あれ自身が、歩く生簀のようなものです。外洋へ出れば、通った先の海が、順番に、あの村と同じことになります」
順番に。
喰らい魚に食い荒らされた海が、この島から次の島へ、次の海へと広がっていく。マレナの漁場も、その先の港も、街も。
艦長たちが一万年、燃料の切れた艦の中で見張り続けたのは、これだったのか。
あの二行が、頭の中で鳴った。
持ち場を離れるな。我々が沈黙すれば、あれが出る。
持ち場は、俺が引き継いだ。
あの骨に向かって、下のあれは俺が引き受けると、あのとき、はっきり言った。言ったからには、ここが俺の持ち場だ。
俺は、膝まで水に浸かった広間を、ぐるりと見回した。
崩れた天井、へし折れた柱、引き剥がされた鎖、そして、じわじわと嵩を増していく黒い水。この広間にあるもので、あいつを止められそうなものは、もう何ひとつ残っていない。艦隊を並べた旧文明でさえ、こいつを殺すのは諦めて、閉じ込めるほうを選んだのだ。
なら、俺にできるのは、閉じ込めることか。
いや、違う。閉じ込める箱は、いま、目の前で割られている最中だ。
「ノア。俺は、あいつをここから出さない」
「はい」
「無理だとは言わねえのか」
「言えば、ご主人様は無茶をなさいます。ならば、間に合う無茶をしていただくほうが、よろしいかと」
この言い草だ。俺は思わず笑った。笑ってから、体が軽くなっているのに気づいた。
化け物が亀裂に取りついた。
外の海へ出るには、ドームの割れ目は、まだ狭い。甲に覆われた頭を差し込み、体をよじり、押し広げにかかっている。壁の破片がぼろぼろと剥がれ落ちていく。海水の流入が、目に見えて増えた。
あと何度か体をよじれば、こいつは外へ出る。
「リル、あの割れ目の上! 天井を落とせるか!」
「やってみる!」
リルの光弾が、亀裂の真上の天井へ吸い込まれた。二発、三発。抉られた天井材が崩れ落ちて、化け物の頭の上に降り積もっていく。瓦礫が割れ目に噛んで、こいつの前進が、わずかに止まった。
わずかに、だ。
瓦礫の山ごと、化け物は前へ押し進んだ。石も鉄も、こいつの甲の前では、砂糖菓子と変わらない。
だが、時間は稼げた。ほんの数十秒ぶん。その数十秒で、こっちは何か見つけるしかない。
俺は水を蹴って追いすがり、尾のあたりの板へ、ありったけの力で黒鴉を叩きつけた。
刃は、案の定、また滑った。
だが今度は、化け物が反応した。
わずらわしい虫を払うように、尾がひと薙ぎされる。避けきれずに肩で受けて、俺は液の中を三度跳ねて転がった。息が詰まる。肩から先の感覚が、しばらく戻ってこなかった。
それでも、収穫はあった。
こいつは、吠えたのだ。
振り向きざま、化け物が大口を開けて咆哮した。
その瞬間、俺は見た。
喉のあたりの甲が、内側から持ち上がったのだ。何枚もの板が花みたいに開いて、その隙間から、青白い肉が覗いた。ぬめった、柔らかそうな肉だった。
息を吐き出すために、そこを開くしかないんだ。
咆哮が終わると、板は元どおりに閉じた。開いていたのは、まばたきひとつぶんだ。
だが、間違いなく見た。
考えてみれば、当たり前の話だった。どれだけ分厚い鎧を着ていても、生き物である以上、息を吸って吐かなければ生きていけない。吸うにも吐くにも、どこかを開けるしかない。そして、あれだけの図体を動かす息が通る穴となれば、指の先ほどの隙間では、とても足りない。
鎧の内側に、ひとつだけ弱点がある。しかも、その弱点は、こいつが自分から開ける。
問題は二つだ。その喉が、俺の背丈の十倍は高いところにあること。そして、開いている時間が、あまりにも短いこと。
「ノア、見たか! 喉だ! あいつ、吠えるときに喉が開く!」
「見えました。ですが、届きません」
「届かせるんだよ。あとは、どうやってあいつを吠えさせるかだ」
俺は化け物を睨みつけた。
斬っても吠えない。焼いても吠えない。さっき吠えたのは、たまたま俺の一撃が癇に障ったからだ。あんな偶然を、都合よく待っていられる時間はない。
そのときだった。
水音の中に、細い声が混じった。
高くもなく、低くもない、静かな声だった。歌詞のない、ただの旋律。子どもを寝かしつけるときのような、途切れ途切れの調べ。
振り返って、俺は動けなくなった。
膝まで水に浸かった広間の真ん中で、ノアが立っていた。
両手をだらりと下げたまま、あの化け物を見上げて、歌っている。
ノアが、歌っていた。
化け物が、動きを止めた。
亀裂に突っ込んでいた頭を、ゆっくりと引き抜く。目のない顔が、こちらへ向いた。
いや、俺のほうじゃない。
ノアの、ほうへ。




