第47話 生ける水
深く潜るほど、水は冷たくなる。あたりまえだ。だが、ナジの親父が見つけた潮は逆だった。二百メートルの底へ近づくにつれ、鯨号の窓の外の水が、風呂の残り湯みたいにぬるく澱んでいく。
継ぎ足したタルガの耐圧殻が、深さに軋んで鳴った。脇腹に手を当てて、浅く息をした。深く吸うと肋がまだ疼く。この痛みを抱えたまま、俺はこれから海の底の化け物の巣へ潜ろうとしている。我ながら、正気の沙汰じゃない。
「見えました」
ノアの声で、窓に貼りついた。
その澱みの底に、それはあった。
ドームだ。
海底に伏せた、巨大な椀。差し渡しは、村がまるごと収まるほどもある。表面は一万年ぶんの珊瑚と貝に覆われて、もとの色は分からない。だが、そのなだらかな丸みは、明らかに人の手が造ったものだった。塔や艦と同じ、旧文明の建物だ。ただ、けた外れにでかい。
ドームのあちこちに、亀裂が走っていた。その裂け目から、生ぬるい水が、ゆらゆらと湧き出している。ナジの親父が言った、暖かい潮。その出どころは、これだ。
継ぎ目の一つで、青白い光が規則正しく点滅していた。中は、まだ生きている。
「これが、ネレイス」
「はい」
ノアが窓の外を見つめている。いつもの穏やかな横顔が、今日はどこか強張って見えた。
「旧文明が、命を育てるために造った施設です。そう、記録には残っていました」
ドームの側面に、円い扉があった。旧文明の、艦とよく似た造りのハッチだ。
鯨号をそこへ寄せて、俺たちは強化服を着て、水の中へ出た。ハッチまでは、ほんの数メートル。それでも、リルは俺の背にしがみついて、息を止めていた。
「手を離すなよ」
背中で、こくこくと頷くのが伝わってくる。
黒鴉でハッチをこじ開ける。中は、狭い小部屋だった。俺たちが入ると外側の扉が閉じ、部屋の水が、ごぼごぼと足元へ抜けていく。
水が、引いた。
内側の扉が開く。その向こうから、生ぬるい風が、ふわりと吹きつけてきた。
風だ。水じゃない。
ヘルメットの留め具を外して、恐る恐る息を吸ってみた。空気だ。湿っていて、生ぬるくて、饐えた匂いがする。だが、間違いなく、吸える空気だった。
「気圧が、保たれています」
ノアが言った。
「この施設は、命を扱う場所です。中の生き物のために、ずっと、空気と温もりを保ち続けてきたのだと思います。一万年、休まずに」
俺は、ヘルメットを脱いだ。リルも、ノアも。濡れた強化服のまま、乾いた床の上に立つ。二百メートルの海の底に、風の吹く部屋がある。旧文明ってのは、つくづく化け物じみている。
リルが、大きく伸びをした。
「あー、やっと歩ける!水の中、大っ嫌い!」
こいつにとっては、こっちのほうが、よほど気楽らしい。泳がずに済むからな。
扉の奥は、長い通路だった。
壁も天井も、旧文明の白い材で造られている。ところどころ珊瑚に食い破られ、亀裂から水が滴っていたが、通路そのものは、まだ形を保っていた。生ぬるい空気が、奥からゆっくりと流れてくる。饐えた匂いは、進むほど濃くなった。
通路の先が、広間になっていた。
足を踏み入れて、立ち止まる。
広間の壁沿いに、透明な筒が何本も並んでいた。人の背丈の倍はある、太い筒だ。中は、とろりとした液体で満たされている。乾いた空気の中に、水の詰まった筒だけが、ずらりと。
覗き込んで、思わず後ずさった。
筒の中に、魚がいた。
いや、魚だったものだ。目が四つある。鰭が、腕みたいに枝分かれしている。歯が、口に収まりきらずに外へ突き出している。それが何十も、液の中でゆらゆらと、生まれるのを待っていた。
「喰らい魚だ」
「ここで、造られています」
ノアの声が硬い。
「壊れた亀裂から、この液が海へ漏れた。漏れた液が、外の魚を、筒の中身と同じものに造り変えたんです。村を襲っていたのは、この施設からこぼれ落ちた、ほんの欠片にすぎません」
背筋が、ぞわりとした。
あの村を半年苦しめた化け物は、天災じゃなかった。旧文明がうっかり蓋を開けたままにした、実験の残りかすだ。もとは、こんな海の底で、静かに培養されるはずのものだった。
通路を進むほど、筒は大きくなっていった。
最初は、魚。次は、犬ほどの、脚の生えた何か。その先の筒はもう、何が入っているのか分からない。ただ、でかい影が、液の中でゆっくりと蠢いていた。
その一番大きな筒の前まで来たとき、それは動いた。
手前の筒の一つが、内側から割れたのだ。
ガラスの砕ける音。中の液が、床にぶちまけられる。その波に乗って、灰色の塊が這い出してきた。牛ほどの大きさだ。鰭とも脚ともつかない肢が、六本。頭のあたりで、濁った目がぎょろりと俺たちを捉えた。
「出来損ないの、番犬か」
黒鴉を抜いた。抜いて、踏み込んだ、その瞬間。
あばらが、悲鳴を上げた。
息が詰まる。刃を振る腕が鈍る。踏み込みが、半歩、遅れた。
その半歩が、命取りだった。
灰色の肢が、真横から薙いでくる。避けきれない。肩で受けて、床に叩きつけられた。折れたところに、火花みたいな痛みが走る。目の前が、白く飛んだ。
「クロウ!」
リルの光弾が、化け物の横っ面を撃ち抜いた。乾いた空気の中でなら、リルの光はまっすぐに飛ぶ。水の抵抗も、跳ね返りもない。ひるんだそいつの首を、銀の刃が下から刎ねる。ノアだ。継いだばかりの右腕で肢を掴み、そのまま引き倒して、喉を裂いた。もう、片腕じゃない。両腕で戦えるようになっていた。
灰色の塊が、どろりと崩れて動かなくなる。
床に転がったまま、荒く息をしていた。脇腹を押さえた手が、震えている。
リルが、駆け寄ってきた。顔が真っ青だ。
「クロウ、大丈夫!?ねえ、血が出てる!」
「かすり傷だ」
「かすり傷じゃない! 」
リルの言うとおりだった。強化服の肩が裂けて、じわりと赤が滲んでいる。だが、傷そのものより、まずいのは肋のほうだった。避けられたはずの一撃を、俺はまともに避けられなかった。
「情けねえな」
自分に、吐き捨てた。
こんな出来損ない一匹に、いいようにやられた。肋が折れているだけで、俺の踏み込みは半歩遅れる。その半歩で、俺は死にかけた。この先には、もっとでかいのがいる。この体のままじゃ、次は庇いきれない。
「ご主人様。こちらへ」
ノアが、広間の脇の小さな扉を指した。
筒の並ぶ広間とは、明らかに造りが違った。白く、清潔で、まだ生きた光が規則正しく灯っている。部屋の中央に、一人ぶんの寝台のような窪みがあった。その脇の壁から、細い管が何本も伸びている。管の先が、透明な小瓶に繋がっていた。中身は、あの培養液とは違う。もっと澄んだ、淡い金色の液体だ。
「治療室です」
ノアが、小瓶の一つをそっと手に取った。
「この施設は、命を造るだけの場所ではありませんでした。傷ついた体を直すための技術も、ここにあります。造るのも直すのも、根は同じ技術なんです」
「それ、化け物を造った水と、同じもんじゃねえのか」
正直、気味が悪かった。あの筒の中で、魚を化け物に変えた液。それを自分の体に入れるのかと思うと、鳥肌が立った。
「あちらは、無造作に漏れたものです。これは、傷を塞ぐためだけに調整されています。骨を継ぎ、肉を寄せて、それきり静かになる。理屈の上では、そうなっています」
ノアは、絶対とは言わなかった。言えないんだろう。一万年前の技術だ。この人形にも、確かなことは分からない。
脇腹を押さえる。
ここで肋を抱えたまま奥へ進めば、次の化け物で、今度こそ死ぬ。それだけは、はっきりしている。
「やってくれ」
「よろしいのですか」
「おまえが調整した水じゃねえのに、信じろってのも酷な話だ。だが、おまえが危ないと思ったら、途中でも止めるだろ。だから、やる」
ノアはしばらく俺を見ていた。それから小さく頷いて、管の先を、俺の脇腹に当てた。
淡い金色が、傷口へ染み込んでいく。
最初は、冷たかったが、だんだんと折れたところが熱くなっていく。骨が、みしみしと音を立てて勝手に動きだす。皮膚の下を、無数の虫が這い回っているような、ぞっとする感覚。歯を食いしばって、寝台の縁を握りしめた。
「動かないでください。今、骨が繋がっています」
繋がっているというより、無理やりくっつけられている感じだった。痛い。だが、その痛みは、折れたときのそれとは種類が違う。壊れる痛みじゃない。塞がる痛みだ。
どれくらい、そうしていたか。
熱が、ふっと引いた。
恐る恐る、息を吸ってみた。深く。思いきり。
痛くない。
脇腹に力を込めてみる。捻ってみる。痛みが、どこにもなかった。笑うだけで刺すように痛んだ肋が、まるで最初から折れていなかったみたいに、静かだ。
「嘘だろ」
立ち上がって、その場で軽く跳んでみた。何ともない。
一万年前の連中は、こんなものまで造れたのか。命を生み出して、傷を消し去って。その力が手に負えなくなったから、艦隊を並べて蓋をした。得体の知れない技術だ。だが、いまはありがたく使わせてもらう。
ふと、頭の隅を、嫌な考えがよぎった。この一瓶があれば、村で怪我をした漁師も助かるかもしれない。だが、化け物を生んだのと同じ水を、あの村へ持ち込むのは、はたして正しいことなのか。判断がつかなかった。だから今は、考えないことにした。
「助かった。礼を言う」
「お役に立てたなら、何よりです」
ノアが微かに笑った。その手が、まだ残っている小瓶をそっと黒匣へ収めようとして、止まった。
床が、揺れた。
最初は、地震かと思った。違った。
ドーム全体が、ぐらりと揺れた。壁の光が、いっせいに激しく明滅する。奥の通路から、生ぬるい水が、どっと押し寄せてきた。どこかで、大きな亀裂が広がったんだ。
そして、歌が聞こえた。
これまでの、遠い調べじゃない。すぐ近くで、腹の底を震わせる、地鳴りのような低い声。
ノアが弾かれたように、広間の奥を振り向いた。その顔から、いつもの穏やかさが、完全に消えていた。
「起きます」
「なんだって」
「一番奥の槽です。いちばん大きなものが、目を覚まします」
広間の、ずっと奥。
これまでで一番でかい筒。いや、筒なんてものじゃない。壁一面ほどもある、巨大な水槽だ。その分厚いガラスの向こうで、影が、ぐるりと身をよじった。
押しのけられた液が、内側からガラスを叩く。びしり、と、亀裂が走った。裂け目から、生ぬるい水が、滝みたいに噴き出してくる。
水槽いっぱいの、いや、この広間そのものと、同じくらいの。
途方もない、影だった。




