第46話 懐かしい水の匂い
あばらが折れると、息を吸っても痛い。くしゃみでもしようものなら目の前が真っ白になる。おかげで俺はこの数日、浜の小屋で間の抜けた置物みたいに座らされていた。動くたびに脇腹が抗議してくるので、動かないでいるのが、いちばん賢い過ごし方だった。
ノアが朝晩、脇腹の当て布を替えてくれる。リルは村の婆さんに教わったとかいう苦い薬湯を、俺の口に押し込んでくる。土を煮詰めたような味がした。
「うぐ。なんだこれ、泥か」
「文句言わない。飲めば早く治るんだから」
治るのは肋で、口の中の泥は治らない。そう言い返したかったが、また笑って痛い思いをするのはごめんだった。だから俺は黙って、泥を飲み下した。
村は、静かになっていた。
夜ごとの光が消えて、連中は久しぶりにまともに眠れているらしい。日が暮れても、子どもが浜で遊んでいる。家の陰に隠れて息をひそめる暮らしは、もう終わったのだ。マレナの家からは、夜になると、下手くそな笛の音が聞こえてくるようになった。誰かが余裕を取り戻した証だった。
だが、海はまだ死んでいた。
朝、浜に出るたび、白い腹の魚が何匹も打ち上げられている。マレナの漁船は舫ったまま、一歩も沖へ出ない。光は止んでも、網は打てない。打てば化け物に食われる。
半分だけの平和だ。残りの半分は、まだ海の底に沈んでいる。
マレナは、俺が浜に出るたび、遠くから頭を下げてきた。礼を言いたいが、まだ言えない。そういう顔だった。夜の光を消したくらいで、この網元は満足しない。海が魚を返すまで、依頼は終わっていないと思っている。だから俺も、まだ礼は受け取らないことにした。魚が戻ってから、まとめてもらう。そのほうが、こっちも気持ちがいい。
鯨号の耐圧殻は、旗艦であちこちひびが入っていた。
あのひびを抱えたままでは、ネレイスの深さには潜れない。二百メートルの底で船殻が割れれば、俺たちは一瞬で潰れて、それきりだ。浜に船を引き上げて、タルガがその腹をじっくり撫でていた。掌で、ひびの一本一本を確かめるように。
「妙な船だ。旧文明の匂いがする」
「直せるか、爺さん」
タルガは義足の膝を鳴らして、しゃがみ込んだ。罅の一つに、節くれだった指を差し込む。
「船のひびを塞ぐのは五十年やってきた。だが、こんな鉄は初めて触る」
俺は黒匣から、旗艦で拾った動力の核を取り出した。青く澄んだ、拳ほどの結晶だ。タルガの目が細くなる。
「これを殻に埋めるんだと。旧文明の鉄は、旧文明の力で継ぐしかない。ノアが、そう言ってた」
タルガは結晶を受け取って、しばらく黙って見ていた。潮に灼けた顔に、深い皺が寄る。
「墓場から、持って帰ったのか」
「持ち主は、もう要らないとよ」
嘘じゃない。あいつらは一万年ぶんの持ち場から、やっと解放されたんだ。形見の一つや二つ、俺が使ったところで、文句は言うまい。
タルガはふっと息を吐いて、義足を軋ませながら立ち上がった。
「あんたは、死んだ連中を起こして、始末して、その形見で船を継ぐ。たいした度胸だ。おれには、とても真似できん」
「褒めても、薬湯は代わってくれねえぞ」
タルガが、はじめてほんの少しだけ笑った。それから三日、爺さんは朝から晩まで、鯨号の腹に張りついていた。
ノアの右腕は、タルガの手にも負えなかった。
当たり前だ。船のひびとは、わけが違う。あれはこの人形の、体そのものだ。
小屋の奥で、ノアは自分の右腕の外装を開けていた。切り裂かれた義肢の内側で、細い骨組みがいくつも折れている。補修機の火に、斜めに舐められた痕だ。その傍らに、旗艦から持ち帰った旧文明の部品が、丁寧に並べてあった。
「同じ時代のものです」
ノアが左手だけで、器用に部品を選り分ける。
「わたしの体と、あの艦は、同じ工房から出たわけではありません。ですが、骨組みの造りが、よく似ています。これなら繋げます」
「あの艦の部品で、ノアの腕を直すのか」
「はい」
妙な気分だった。ノアは一万年前に沈んだ連中の残骸で、自分の体を継ごうとしている。俺がその形見で船を継ぐのと、まるで同じだ。この海の底の連中と、俺たちは知らないうちに、ずいぶん深く縁を結んでしまったらしい。
ノアの指が、旧文明の部品を一つ、そっと持ち上げた。
その手が、止まった。ほんの一瞬。
「ノア?」
「――いえ」
ノアはまた、手を動かしはじめた。だが俺は見てしまった。この人形が、その部品を頬に近づけて、そっと匂いを嗅いだのを。まるで、遠い昔に嗅いだ匂いを思い出そうとするみたいに。
「懐かしい匂いでも、したか」
軽い冗談のつもりだった。
ノアは答えなかった。かわりに、いつもの穏やかな顔でこう言った。
「潮の匂いがします。海の、ずっと底の」
それは、答えになっていなかった。俺はそれ以上、訊かないことにした。訊いたところで、この子は決して、本当のことを言わない。
夕方、ナジが小屋の戸を叩いた。
手に、古い潜水具を抱えている。父親のものだと、一目で分かった。ナジの細い体には、まだ大きすぎる。
「おれも、連れていってくれ」
案の定だった。
「駄目だ」
「なんでだよ!おれはこの村の誰より、あの海を知ってる。父ちゃんと、何度も潜ったんだ!」
「知ってるやつから死ぬんだよ。あの海は」
ナジの顔が歪んだ。図星だったからだ。ナジの父親は、この村の誰より海を知っていて、それでも帰ってこなかった。
村の連中は、ナジの父親のことを、あまり口にしない。無茶をして死んだ男の話は、残された者には毒だからだ。それでも、浜の古い連中は覚えていた。あの男が、海が濁りはじめた最初の年に、たった一人で沖へ出ていったことを。原因を突き止めて、村を救うのだと言い張って。そして、船だけが、空っぽで戻ってきたことを。
俺は脇腹を押さえて、立ち上がった。
「おまえの親父は、どこで消えた」
ナジがはっと顔を上げる。
「沖の、暖かい潮のところだ。冬でも、そこだけ水が生ぬるい。魚がわんさか集まる。父ちゃんは、そこが村を救うって言って、潜っていって、それきりだ」
暖かい潮。生ぬるい水。魚の集まる場所。
俺はノアと目を合わせた。ノアが静かに頷く。歌の聞こえるほうと、同じだ、という顔だった。
「そこだな」
ネレイスは、そこにある。海を狂わせた元凶の、蓋の在り処だ。ナジの親父は、それを一人で見つけて、そして飲まれた。村を救おうとして。
「親父さんの潜った場所は、俺たちが行く。仇も、謎も、まとめて片づけてくる」
「だから、おれも行く!」
「おまえは、ここで待て」
俺はナジの、大きすぎる潜水具を、指先で叩いた。
「それが体に合う頃には、この海はもう静かになっている。そうしたら、おまえが親父さんの漁場を継げばいい。生きて継ぐんだ。潜って死ぬんじゃなくてな」
ナジは唇を噛んで、俯いた。
しばらくして、小さく頷いた。その頷きを見届けて、俺はこの子を巻き込まずに済んだことに、少しだけほっとした。
その夜。
リルが小屋の外で、膝を抱えて座っていた。空には星が出ている。もう光に裂かれることのない、ただの夜空だ。
「眠れねえのか」
隣に腰を下ろすと、リルは膝に顔を半分埋めたまま口を開いた。
「ねえ。ネレイスって、どのくらい深いの」
「二百メートルは下だな」
「あたし、泳げないよ」
「知ってる」
「暗いのも、狭いのも、大っ嫌い」
「知ってる」
リルはしばらく黙って、それから俺の袖を、きゅっと掴んだ。細い指に、力がこもっている。
「置いていったら、怒るからね」
「置いていかねえよ」
「ほんとに?」
「担いで潜る。旗艦のときと、同じだ。おまえが手を離さなきゃ、死なせやしねえ」
リルは俺の顔をじっと見た。星明かりのせいで、その頬が赤いのか、そうでないのか、よく分からない。
「別に、あんたを信じてるわけじゃ、ないんだからね」
「はいはい」
「はいは一回!」
やっぱり、笑うと肋が痛かった。それでも、悪くない夜だった。
三日後、鯨号の耐圧殻に、青い核が埋まった。
タルガの継ぎ目は荒っぽいが、叩いても蹴っても、びくともしない。ノアの右腕も、旧文明の骨で継がれて、また静かに動きだした。指を一本ずつ折り曲げて、ノアは「問題ありません」と言う。今度は、嘘には聞こえなかった。
直らないのは、俺の肋だけだ。
脇腹に手を当てて、そっと息を吸ってみる。奥のほうが、まだ鈍く疼く。骨がくっつくには、あと半月はかかると、村の婆さんは言った。
本当なら、それを待つつもりだった。あれはどこへも行かない、焦ることはない。旗艦を黙らせた夜、俺は確かに、そう思っていた。
だが、海のほうが、待ってくれなかった。
この数日で、浜に打ち上がる魚は、日ごとに増えている。ノアの言う歌も、日ごとに大きくなっていた。底のあれは、眠ったままじゃない。少しずつ、目を覚ましかけている。
「ご主人様。せめて、肋が塞がってから、という手も」
「その口で、歌はもう待たないと言ったのは、どこのどいつだ」
ノアは口をつぐんだ。それから、静かに頭を下げる。
「では、無茶は、わたしが引き受けます」
「頼りにしてる」
準備万端とは、口が裂けても言えない。だが、行く理由なら、腐るほどあった。
出る朝、俺は舳先に立って沖を見ていた。ナジが暖かい潮と呼んだ場所。冬でも生ぬるい、魚の集まる海。その、ずっと底に、ネレイスが沈んでいる。
ノアが隣に立った。潮風に、黒い髪が揺れている。
「歌は」
「はっきり、聞こえます」
ノアは目を閉じた。
「あの暖かい水のほうから。とても、懐かしい匂いがします」
懐かしい、と、この人形は二度言った。
俺はそれについて、やっぱり訊かなかった。だが、いつか訊かなきゃならない。海の底のあれを片づけたら、そのときは。そんな気がしていた。
浜には、村の連中が出ていた。
マレナが、無言で腕を組んでいる。タルガが、義足を軋ませて、鯨号の継ぎ目を最後にもう一度、掌で確かめた。
「おれの継ぎ目だ。深いところでも、そう簡単には割れん。割れたら、化けて出てやる」
「縁起でもねえな」
ナジは、少し離れたところに立っていた。大きすぎる潜水具を、まだ抱えたまま。俺と目が合うと、唇を結んで、こくりと頷いた。行ってこい、という頷きだった。
リルが、俺の隣で、大きく伸びをした。強がっているのは、握った拳が白くなっているので、すぐに分かった。
鯨号が、暖かい潮へ向かって走りだす。
海の底で、何かが俺たちを待っていた。
懐かしい匂いのする生ぬるい水の、そのもっと下で。




