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レリック・ワールド ~最強の遺跡探索者、銀髪の少女と メイドの自動人形と、終わった世界の謎を解く~  作者: トンエリア
第04編〈海域〉アビス

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第46話 懐かしい水の匂い

 あばらが折れると、息を吸っても痛い。くしゃみでもしようものなら目の前が真っ白になる。おかげで俺はこの数日、浜の小屋で間の抜けた置物みたいに座らされていた。動くたびに脇腹が抗議してくるので、動かないでいるのが、いちばん賢い過ごし方だった。

 ノアが朝晩、脇腹の当て布を替えてくれる。リルは村の婆さんに教わったとかいう苦い薬湯を、俺の口に押し込んでくる。土を煮詰めたような味がした。


「うぐ。なんだこれ、泥か」


「文句言わない。飲めば早く治るんだから」


 治るのは肋で、口の中の泥は治らない。そう言い返したかったが、また笑って痛い思いをするのはごめんだった。だから俺は黙って、泥を飲み下した。


 村は、静かになっていた。

 夜ごとの光が消えて、連中は久しぶりにまともに眠れているらしい。日が暮れても、子どもが浜で遊んでいる。家の陰に隠れて息をひそめる暮らしは、もう終わったのだ。マレナの家からは、夜になると、下手くそな笛の音が聞こえてくるようになった。誰かが余裕を取り戻した証だった。

 だが、海はまだ死んでいた。

 朝、浜に出るたび、白い腹の魚が何匹も打ち上げられている。マレナの漁船は舫ったまま、一歩も沖へ出ない。光は止んでも、網は打てない。打てば化け物に食われる。

 半分だけの平和だ。残りの半分は、まだ海の底に沈んでいる。

 マレナは、俺が浜に出るたび、遠くから頭を下げてきた。礼を言いたいが、まだ言えない。そういう顔だった。夜の光を消したくらいで、この網元は満足しない。海が魚を返すまで、依頼は終わっていないと思っている。だから俺も、まだ礼は受け取らないことにした。魚が戻ってから、まとめてもらう。そのほうが、こっちも気持ちがいい。


 鯨号の耐圧殻は、旗艦であちこちひびが入っていた。

 あのひびを抱えたままでは、ネレイスの深さには潜れない。二百メートルの底で船殻が割れれば、俺たちは一瞬で潰れて、それきりだ。浜に船を引き上げて、タルガがその腹をじっくり撫でていた。掌で、ひびの一本一本を確かめるように。


「妙な船だ。旧文明の匂いがする」


「直せるか、爺さん」


 タルガは義足の膝を鳴らして、しゃがみ込んだ。罅の一つに、節くれだった指を差し込む。


「船のひびを塞ぐのは五十年やってきた。だが、こんな鉄は初めて触る」


 俺は黒匣から、旗艦で拾った動力の核を取り出した。青く澄んだ、拳ほどの結晶だ。タルガの目が細くなる。


「これを殻に埋めるんだと。旧文明の鉄は、旧文明の力で継ぐしかない。ノアが、そう言ってた」


 タルガは結晶を受け取って、しばらく黙って見ていた。潮に灼けた顔に、深い皺が寄る。


「墓場から、持って帰ったのか」


「持ち主は、もう要らないとよ」


 嘘じゃない。あいつらは一万年ぶんの持ち場から、やっと解放されたんだ。形見の一つや二つ、俺が使ったところで、文句は言うまい。

 タルガはふっと息を吐いて、義足を軋ませながら立ち上がった。


「あんたは、死んだ連中を起こして、始末して、その形見で船を継ぐ。たいした度胸だ。おれには、とても真似できん」


「褒めても、薬湯は代わってくれねえぞ」


 タルガが、はじめてほんの少しだけ笑った。それから三日、爺さんは朝から晩まで、鯨号の腹に張りついていた。


 ノアの右腕は、タルガの手にも負えなかった。

 当たり前だ。船のひびとは、わけが違う。あれはこの人形の、体そのものだ。

 小屋の奥で、ノアは自分の右腕の外装を開けていた。切り裂かれた義肢の内側で、細い骨組みがいくつも折れている。補修機の火に、斜めに舐められた痕だ。その傍らに、旗艦から持ち帰った旧文明の部品が、丁寧に並べてあった。


「同じ時代のものです」


 ノアが左手だけで、器用に部品を選り分ける。


「わたしの体と、あの艦は、同じ工房から出たわけではありません。ですが、骨組みの造りが、よく似ています。これなら繋げます」


「あの艦の部品で、ノアの腕を直すのか」


「はい」


 妙な気分だった。ノアは一万年前に沈んだ連中の残骸で、自分の体を継ごうとしている。俺がその形見で船を継ぐのと、まるで同じだ。この海の底の連中と、俺たちは知らないうちに、ずいぶん深く縁を結んでしまったらしい。

 ノアの指が、旧文明の部品を一つ、そっと持ち上げた。

 その手が、止まった。ほんの一瞬。


「ノア?」


「――いえ」


 ノアはまた、手を動かしはじめた。だが俺は見てしまった。この人形が、その部品を頬に近づけて、そっと匂いを嗅いだのを。まるで、遠い昔に嗅いだ匂いを思い出そうとするみたいに。


「懐かしい匂いでも、したか」


 軽い冗談のつもりだった。

 ノアは答えなかった。かわりに、いつもの穏やかな顔でこう言った。


「潮の匂いがします。海の、ずっと底の」


 それは、答えになっていなかった。俺はそれ以上、訊かないことにした。訊いたところで、この子は決して、本当のことを言わない。


 夕方、ナジが小屋の戸を叩いた。

 手に、古い潜水具を抱えている。父親のものだと、一目で分かった。ナジの細い体には、まだ大きすぎる。


「おれも、連れていってくれ」


 案の定だった。


「駄目だ」


「なんでだよ!おれはこの村の誰より、あの海を知ってる。父ちゃんと、何度も潜ったんだ!」


「知ってるやつから死ぬんだよ。あの海は」


 ナジの顔が歪んだ。図星だったからだ。ナジの父親は、この村の誰より海を知っていて、それでも帰ってこなかった。

 村の連中は、ナジの父親のことを、あまり口にしない。無茶をして死んだ男の話は、残された者には毒だからだ。それでも、浜の古い連中は覚えていた。あの男が、海が濁りはじめた最初の年に、たった一人で沖へ出ていったことを。原因を突き止めて、村を救うのだと言い張って。そして、船だけが、空っぽで戻ってきたことを。

 俺は脇腹を押さえて、立ち上がった。


「おまえの親父は、どこで消えた」


 ナジがはっと顔を上げる。


「沖の、暖かい潮のところだ。冬でも、そこだけ水が生ぬるい。魚がわんさか集まる。父ちゃんは、そこが村を救うって言って、潜っていって、それきりだ」


 暖かい潮。生ぬるい水。魚の集まる場所。

 俺はノアと目を合わせた。ノアが静かに頷く。歌の聞こえるほうと、同じだ、という顔だった。


「そこだな」


 ネレイスは、そこにある。海を狂わせた元凶の、蓋の在り処だ。ナジの親父は、それを一人で見つけて、そして飲まれた。村を救おうとして。


「親父さんの潜った場所は、俺たちが行く。仇も、謎も、まとめて片づけてくる」


「だから、おれも行く!」


「おまえは、ここで待て」


 俺はナジの、大きすぎる潜水具を、指先で叩いた。


「それが体に合う頃には、この海はもう静かになっている。そうしたら、おまえが親父さんの漁場を継げばいい。生きて継ぐんだ。潜って死ぬんじゃなくてな」


 ナジは唇を噛んで、俯いた。

 しばらくして、小さく頷いた。その頷きを見届けて、俺はこの子を巻き込まずに済んだことに、少しだけほっとした。


 その夜。

 リルが小屋の外で、膝を抱えて座っていた。空には星が出ている。もう光に裂かれることのない、ただの夜空だ。


「眠れねえのか」


 隣に腰を下ろすと、リルは膝に顔を半分埋めたまま口を開いた。


「ねえ。ネレイスって、どのくらい深いの」


「二百メートルは下だな」


「あたし、泳げないよ」


「知ってる」


「暗いのも、狭いのも、大っ嫌い」


「知ってる」


 リルはしばらく黙って、それから俺の袖を、きゅっと掴んだ。細い指に、力がこもっている。


「置いていったら、怒るからね」


「置いていかねえよ」


「ほんとに?」


「担いで潜る。旗艦のときと、同じだ。おまえが手を離さなきゃ、死なせやしねえ」


 リルは俺の顔をじっと見た。星明かりのせいで、その頬が赤いのか、そうでないのか、よく分からない。


「別に、あんたを信じてるわけじゃ、ないんだからね」


「はいはい」


「はいは一回!」


 やっぱり、笑うと肋が痛かった。それでも、悪くない夜だった。


 三日後、鯨号の耐圧殻に、青い核が埋まった。

 タルガの継ぎ目は荒っぽいが、叩いても蹴っても、びくともしない。ノアの右腕も、旧文明の骨で継がれて、また静かに動きだした。指を一本ずつ折り曲げて、ノアは「問題ありません」と言う。今度は、嘘には聞こえなかった。

 直らないのは、俺の肋だけだ。

 脇腹に手を当てて、そっと息を吸ってみる。奥のほうが、まだ鈍く疼く。骨がくっつくには、あと半月はかかると、村の婆さんは言った。

 本当なら、それを待つつもりだった。あれはどこへも行かない、焦ることはない。旗艦を黙らせた夜、俺は確かに、そう思っていた。

 だが、海のほうが、待ってくれなかった。

 この数日で、浜に打ち上がる魚は、日ごとに増えている。ノアの言う歌も、日ごとに大きくなっていた。底のあれは、眠ったままじゃない。少しずつ、目を覚ましかけている。


「ご主人様。せめて、肋が塞がってから、という手も」


「その口で、歌はもう待たないと言ったのは、どこのどいつだ」


 ノアは口をつぐんだ。それから、静かに頭を下げる。


「では、無茶は、わたしが引き受けます」


「頼りにしてる」


 準備万端とは、口が裂けても言えない。だが、行く理由なら、腐るほどあった。

 出る朝、俺は舳先に立って沖を見ていた。ナジが暖かい潮と呼んだ場所。冬でも生ぬるい、魚の集まる海。その、ずっと底に、ネレイスが沈んでいる。

 ノアが隣に立った。潮風に、黒い髪が揺れている。


「歌は」


「はっきり、聞こえます」


 ノアは目を閉じた。


「あの暖かい水のほうから。とても、懐かしい匂いがします」


 懐かしい、と、この人形は二度言った。

 俺はそれについて、やっぱり訊かなかった。だが、いつか訊かなきゃならない。海の底のあれを片づけたら、そのときは。そんな気がしていた。

 浜には、村の連中が出ていた。

 マレナが、無言で腕を組んでいる。タルガが、義足を軋ませて、鯨号の継ぎ目を最後にもう一度、掌で確かめた。


「おれの継ぎ目だ。深いところでも、そう簡単には割れん。割れたら、化けて出てやる」


「縁起でもねえな」


 ナジは、少し離れたところに立っていた。大きすぎる潜水具を、まだ抱えたまま。俺と目が合うと、唇を結んで、こくりと頷いた。行ってこい、という頷きだった。

 リルが、俺の隣で、大きく伸びをした。強がっているのは、握った拳が白くなっているので、すぐに分かった。

 鯨号が、暖かい潮へ向かって走りだす。

 海の底で、何かが俺たちを待っていた。

 懐かしい匂いのする生ぬるい水の、そのもっと下で。

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