第45話 船乗りたちの終い
死んだ艦の中は、静かだった。
撃たれる心配がなくなると、旗艦の腹はただの古い船に戻った。珊瑚に食われた通路を、俺たちはゆっくり歩いた。急ぐ理由が、もうない。
黒匣を担いだのはノアの左手だ。右腕は、相変わらず垂れている。
拾えるものは、拾った。
旧文明の合金の板。生きたままの動力の欠片。中身の詰まった、封印された箱がいくつか。番人が守っていただけあって、どれも上等だった。街へ持って帰れば、そこそこの値がつく。
「これで、ノアの腕も直せるな」
「わたしより、ご主人様のあばらが先です」
「あばらは勝手にくっつく。腕はくっつかねえだろ」
ノアはそれには答えなかった。かわりに、拾った板を一枚、黒匣にそっと収めた。
封印された箱の一つを、ノアが開けた。中には、拳ほどの結晶が収まっていた。青く澄んで、内側で小さな光が脈打っている。砂の底で手に入れた叡核ほどの格じゃないが、街の工房で使えば、鯨号の壊れた耐圧殻を丸ごと作り直せるくらいはあるという。
「動力の予備です。旧文明の潜水艦は、こういうものをいくつも積んでいました」
「売れば、いくらになる」
「村が、三年は食べていける程度には」
俺は、口笛を吹きそうになった。腕利きが見向きもしない安請け合いの依頼が、蓋を開ければ、この始末だ。
もっとも、代償にあばらを何本か持っていかれたのだから、割に合うかどうかは微妙なところだ。
艦長席のあった区画に、それは残っていた。
小さな金属の帳面だ。骨の指のすぐ脇に落ちていた。
黒鴉の刃を触れさせると、褪せた文字が、宙に滲んで並んだ。
私的な記録だった。命令でも報告でもない。ただの一人の男の言葉だ。
――今日で、燃料が尽きる。
――砲は、あと数発ぶんしか撃てない。溜めて、夜にだけ撃つことにする。
――そうすれば、あと千年は保つ。私はもう、いないが。
千年。この男は、千年先の勘定をして、艦を眠らせ方まで決めていた。
――部下には、家に帰りたい者もいる。私も、帰りたい。
――だが、我々が持ち場を離れれば、下のものが海へ出る。そうなれば、帰る家のほうが、なくなる。
――だから、ここにいる。
文字が、少し途切れた。
――いつか、この海を通る者へ。
――もし、あなたがこれを読んでいるなら、我々の封鎖は、破られたということだ。
――どうか、下のものを、外へ出さないでほしい。
――そして、もし叶うなら。
――我々のことを、少しだけ、覚えていてほしい。
そこで、記録は終わっていた。
俺は、しばらく動けなかった。
こいつらは、逃げなかったんじゃない。帰りたかったんだ。帰りたかったのに、帰らなかった。
リルが、骨の前にしゃがんで、そっと手を合わせていた。
「……この人たちも、待ってる人が、いたのかな」
「いただろうな」
俺は金属の帳面を黒匣にしまった。売り物じゃない。これは持っておく。
ノアが艦長席の骨に向かって、静かに頭を下げた。
「あなたたちの封鎖を破りました。ですが」
いつもの、穏やかな声で。
「下のものは、わたしたちが引き受けます。ですから、もう、お休みください」
骨は、何も言わなかった。
背筋を伸ばして、計器盤に手を置いたまま、一万年の続きを、俺たちに渡した。
海面へ、昇った。
ハッチを開けると、朝の光が目に刺さった。塩の匂いがする。腐った肉の匂いは、少し薄れていた。
だが、海は、まだ死んでいた。
村へ戻る途中、白い腹を見せた魚がいくつも浮いていた。喰らい魚の骨板も、遠くで水を切っている。
沖の光は、消えた。だが、海を狂わせている本当の元凶は、まだ底にいる。
そういうことだ。門を一つ、壊しただけ。門の奥には、まだ何かがいる。
「ねえ、クロウ」
リルが舷側にもたれて言った。
「あの光が消えたら、村の人、喜ぶよね」
「喜ぶだろうな。ただし、魚が戻るまでは、半分だけだ」
沖は開いた。けど、その沖には、まだ化け物が湧いている。漁に出られるようになっても、食われちまえば同じことだ。
本当の礼をもらうのは、底のあれを片づけてからだな。
それでも、夜の光が消えたのは、大きい。
昨夜、村の連中は久しぶりに家の外で眠ったらしい。ひと月ぶりに空に星が出ていた。撃たれる光がないというだけで、夜の海はまた夜の海に戻っていた。
ナジが、浜のいちばん前で手を振っていた。俺たちの鯨号に向かって、腕がちぎれそうなくらい大きく。
入り江が見えてきたとき、それは、待っていた。
鉄の船だ。俺たちの時代の船。灰色に塗られた、細くて速そうな船体。
入り江の口を塞ぐように、横づけしている。甲板に、揃いの外套を着た男が、何人も立っていた。
その舳先に、男が一人立っていた。
仕立てのいい外套に、手袋。潮風の中で、髪の一筋も乱れていない。
クレイスだ。
あの祭りの夜、俺たちから叡核を寄越せと言った、財団の回収官。こんな絶海の孤島まで、追ってきやがった。
「お帰りなさい」
クレイスは、笑っていた。愛想はいいが、温度のない笑みだ。
「見事なものです。四十年、誰にも開けなかった旗艦を、一晩で。あなたの黒鴉は、やはり素晴らしい」
「褒めても、何も出ねえぞ」
「褒めてなどいません。感心しているだけです」
クレイスの目が、俺の裂けた強化服と、ノアの垂れた右腕を順に舐めた。
こいつは、俺たちが満身創痍なのを、ちゃんと見ている。いま襲えば、勝てる。それが分かる目だ。
背中に汗が滲んだ。
俺の斜め後ろで、ノアが動く左手を、そっと腰の刃に添えた。片腕でも、この人形は戦う気だ。撃たれた腕を垂らしたまま、俺の前に出ようとする。
俺は、手のひらを下に向けてそれを止めた。まだだ。向こうにその気はない。
リルは杖を握りしめて、青い顔をしていた。だが、逃げようとはしない。強くなったもんだ、と場違いに思った。
「安心してください。今日は、やり合いに来たのではありません」
クレイスは両手を軽く広げた。
「あなた方には、感謝しているのですよ。私どもの船は、三隻沈められました。あの兵器は、我々の手に負えなかった。ですが、あなたが道を開けてくれた」
「道?」
「沖の光が消えた。つまり」
クレイスの笑みが深くなった。
「海の底の施設へ、もう、遮るものはない。そういうことでしょう?」
背筋が冷たくなった。
こいつは、知っている。旗艦が封じていたものが、海の底の施設だということを。財団が本当に欲しいのは、艦隊じゃない。その奥だ。
「あんたら、あの底に何があるか、分かってて言ってんのか」
「いいえ。分かりません」
クレイスは、あっさりと言った。
「分からないから、欲しいのです。旧文明が、艦隊を並べてまで封じたもの。それが、価値のないはずがない」
こいつは、あの艦長の記録を読んでいない。読んでいたって同じことを言うんだろうが。
「一つ、忠告を」
クレイスが指を一本立てた。
「あなたは、あの底へ潜るでしょう。止めても、潜る。そういう人だ。ですから、止めません」
「へえ」
「ただ、覚えておいてください。あなたが底から持ち帰るものは、いずれ我々のものになります。あなたが開けた扉から出てくるものは、すべて」
「もし、俺が持ち帰らなかったら」
「そのときは」
クレイスは、少しだけ、笑みを引っ込めた。
「あなたが、底から帰ってこなかった、ということです。それはそれで、我々には都合がいい」
こともなげに、そう言った。
俺が生きて宝を持ち帰れば、横から奪う。俺が死ねば、邪魔者が一人減る。どちらに転んでも、こいつは勝つ。そういう賭け方をしている。
こいつは、俺たちを道具にする気だ。
俺たちに底を開けさせて、出てきたものを、横からかっさらう。三隻沈めて学んだんだ。自分の手を汚すより、俺たちにやらせたほうが安い、と。
むかつく話だった。むかつくが、正しい。
俺は痛むあばらを押さえて、笑ってやった。
「悪いな。俺は、拾ったもんは、返さねえ主義でね」
「存じています」
クレイスは外套の裾を翻した。
「だからこそ、楽しみにしているのですよ。あなたが、何を拾ってくるのか」
灰色の船が静かに向きを変えた。エンジンの音を残して、入り江の口から離れていく。
襲っては、こなかった。指一本、触れずに。
それが、いちばん、たちが悪かった。
船影が水平線の向こうへ消えた。
入り江には、村の連中が出てきていた。灰色の船を見て、みんな、家の陰に身を潜めていたらしい。
マレナが浜へ降りてきた。
「あいつら、また来たのか」
「ああ。だが、今日は帰った」
「何しに来た」
「見物だとよ」
俺は、それ以上、言わなかった。
クレイスの狙いは、この村じゃない。海の底だ。村を巻き込む気は、たぶん、ない。だが、たぶん、で片づけていい相手でもない。
鯨号の甲板から、俺は沖を振り返った。
もう、あの光は撃たれない。海は、静かだった。
その静けさの、ずっと下のほうから。
あの歌が、まだ、聞こえている気がした。
「ノア」
「はい」
「いつ潜れる?」
ノアが動く左手で、垂れた右腕をそっと押さえた。
「あなたの怪我と、わたしの腕が、動くようになってからです」
それから、少しだけ、沖のほうを見た。
「――歌は、もう、待ってはくれないでしょうけれど」




