第44話 持ち場を、離れよ
水は、もう顎の下だった。
天井まで、あとわずかしかない。俺たち三人は、鉄の箱の天井近くに残った空気を、順番に吸っていた。冷たい海水が全身から体温を奪っていく。核の柱だけが、水没した区画の底で、青白く光り続けていた。
その光の中で、持ち場に座った骨たちが、静かに揺れている。水に浸されても、誰ひとり椅子から離れない。一万年、彼らはこうしてこの船を守ってきた。そして今、その同じ船が、俺たちを溺れさせようとしている。
「クロウ。あたし、いいこと考えた」
リルの声が震えている。
「なんだ」
「あたしが天井を撃って、穴を開ける。そしたら外に出られるよ」
「外は海だ。二百メートルの底だぞ。穴を開けたら、この船が一瞬で潰れて、俺たちも一緒に潰れる」
「……却下だね」
「却下だ」
だが、その発想そのものは悪くなかった。力ずくで壊せないなら、力ずく以外の手で開けるしかない。
俺は水面から顔だけ出して、核の柱を睨んだ。
こいつは、乗員の“何か”を寄越せと言っている。声か、印か、体か。声は聞けない。骨は喋らない。だが、乗員が残したものなら、まだこの部屋にある。
俺は懐から金属の板を引っぱり出した。艦長の骨が膝に抱えていた、あの板だ。
「ノア。これ、艦長のものだよな」
「はい。指揮官の記録装置です。艦長の指揮権限も、その中に残っているはずです」
指揮権限。この核が欲しがっている、まさにそれだ。
板は、掌の中でずしりと重かった。一万年前、この重さを最後に握った男は、それを膝に抱えたまま、椅子の上で朽ちた。俺は、その男の遺したものを、いま借りようとしている。悪く思うな、と胸の内で断って、板を握り直した。
息を大きく吸って、水に潜った。
冷たさが、頭のてっぺんまで包む。核の柱に板を押しつけ、黒鴉の刃を、その両方へ触れさせる。艦長の権限を、板から吸い上げ、核へ流し込んでいく。
柱の光が赤から青へ戻った。
――指揮権限、照合。艦長を認証。
通った。俺は、その勢いのまま「封鎖解除」を叩き込んだ。死んだ艦長の声を騙るのは、いい気分じゃない。だが、この核を黙らせるには、それしかなかった。今度こそ。
だが、核はまた拒んだ。
柱の光が濁った。さっきの赤じゃない。黄色だ。警告の色だった。
――待機命令に抵触する。
――封鎖は、脅威の排除をもって解除される。
――脅威は、いまだ排除されていない。
息が続かず、俺は水面へ跳ね上がった。空気を吸う。もう、こぶし一つ分しか残っていない。
「だめだ。艦長でも、解除はできねえ」
「なぜです」
「命令がそもそも違う。ただ封鎖しろ、じゃない。あれを片づけるまで封鎖しろ、だ」
海の底の“何か”が、まだそこにいるかぎり、封鎖は解けない。艦長ですら、この命令は取り消せない。艦長自身が、そう決めて沈んだんだから。
俺は、天井を仰いだ。
リルが、俺の腕に必死でしがみついていた。泳げない魔法使いが、顎まで水に浸かって、それでも杖だけは手放していない。その指先が、氷みたいに冷たかった。俺が沈むたびに、この手が離れそうになる。離すな、と俺は毎回、心の中で念じた。
残った空気が、みるみる薄くなっていく。潜るたびに、少しずつ吸い込んで、少しずつ減らしている。あと二回。潜れて、あと二回だ。
詰みかけていた。ほとんど、詰んでいた。
そのとき、頭の隅で、あの二行がちらついた。
持ち場を離れるな。我々が沈黙すれば、あれが出る。
沈黙すれば、あれが出る。
だったら、逆はどうだ。
誰かが代わりに見張るなら、こいつらは、もう沈黙してもいいんじゃないのか。
「ノア」
俺は、水の中の人形を掴んだ。
「軍の艦ってのは、当直を交代するよな。見張りが、次の見張りに持ち場を渡す。あれは、命令として、この核に入ってるか」
ノアの目が、ほんの一瞬だけ見開かれた。それから恐ろしい速さで思考が回りだすのが、伝わってきた。
「あります。指揮権限の移譲という手順です。任務そのものを、後任へ引き継ぐ。旧文明の軍でも、正式に認められていました」
「それなら、通るか」
「封鎖は解除されません。任務も続きます。ただ、担い手が変わるだけです。待機命令には抵触しません」
それだ。
封鎖を、やめさせるんじゃない。封鎖を、俺たちが引き継ぐんだ。
最後の空気を、肺が破れるくらい吸い込んだ。
水に潜って、板と核に黒鴉を突き立てる。艦長の権限で、命令を綴りはじめた。今度は、解除じゃない。
――封鎖任務を、後任へ引き継ぐ。
核が、問い返してきた。
――後任の指揮権限を提示せよ。
後任。つまり、俺だ。
俺は黒鴉を通して、自分の“何か”を核に差し出した。声でも印でもない。この一年、遺跡から遺跡へ機械の言葉を読み書きし続けてきた、俺という鍵。そのものを、まるごと。
後任になるということは、この見張りを引き受けるということだ。一万年この連中を縛り続けた重荷を、そっくり肩に乗せるということだ。断る道もあった。核が開かなければ、それまでだと言い訳もできた。
だが、ここで背を向けたら、あの村の連中と何が違う。半年、海に食われながら、それでも逃げなかった連中と。
柱の光が、俺を舐めるようにゆっくり走った。
やけに、長い一瞬だった。核が、俺の資格を、隅から隅まで検分している。
その最中、区画のどこかで珊瑚に食われた梁が折れた。鉄の塊が水中を沈んでくる。避けきれず、脇腹をしたたかに打った。肋の奥で、鈍い音がした。息を吐いた拍子に、口から、銀色の泡がごぼりと漏れる。
まだだ。まだ、手を離すな。
――後任を、登録。指揮権限を、移譲する。
通った。
薄れかける意識の端で、俺は最後の命令を綴った。
こいつらに、ずっと言ってやりたかった言葉を。
――全艦へ告ぐ。
――当直を交代する。任務は後任が引き継ぐ。
――諸君は、よくやった。
――もう、持ち場を離れていい。
核の光が、青から白へ変わった。
艦全体が、長い息を吐いたように感じた。張りつめていた何かが、鉄の芯からゆっくりほどけていく。
どこか遠くで、重い音が、順番に鳴りはじめた。落ちてきた隔壁が、一枚、また一枚と、巻き上がっていく音だ。床の弁が閉じ、水が渦を巻いて引いていく。胸まであった水が腰へ、膝へ、くるぶしへと下がっていった。這い回っていた補修機が、腕の火を失って、脚を止め、次々と水底に沈んでいく。命令が、艦の隅々まで行き渡ったんだ。
「引いてく。水が引いてくよ、クロウ!」
リルが、水の減っていく壁を、信じられないという顔で見ていた。ノアが動く左手で、そのリルの肩をそっと支える。片腕でも、この人形は最後まで、俺たちのどちらかを守る側に立とうとする。
俺は膝をついて咳き込んだ。血の混じった水を吐く。肋が、内側から胸を突き破ろうとしている。それでも、空気だ。かび臭くて鉄くさい、いくらでも吸える空気だった。
リルが、俺の背中に崩れるように寄りかかってきた。
「……生きてる」
「ああ」
「生きてるよね?」
「三回目だぞ、その確認」
リルが、へへ、と笑った。目のふちが、ぐしゃぐしゃに濡れていた。
核の柱の光が静かに落ちていく。
役目を終えたんだ。統制権は、俺に移った。あの兵器は、もう勝手には撃たない。
俺は艦長席の骨のほうを振り返った。
背筋を伸ばし、計器盤に手を置いたまま、一万年そこにいた男。帰りたかったのに、帰らなかった男だ。
「あんたの持ち場は、もらった」
骨に向かって、そう言った。
「下のあれは、俺が引き受ける。だから、あんたはもう、休んでいい」
あんたが千年先の勘定までして守った海を、ここで放り出しはしない。だから、そんな不安そうに背筋を伸ばして、座っていなくていい。
骨は、何も言わなかった。
ただ、天井の珊瑚がぱらぱらと静かに崩れた。一万年ぶりに緩んだ緊張が、艦の全体から、そっと抜けていくみたいだった。
ノアが、動く左手を胸に当てて、深く頭を下げた。動かない右腕は、垂れたままだ。
「お疲れさまでした」
それだけだった。それで、十分だった。
核の柱の残光が、ゆっくりと闇に溶けていく。あの兵器は、もう二度と村の空を裂かない。夜ごと三発、村の希望をぶった切っていた光は、俺の命令の下で、静かに眠りについた。
ノアが、垂れた右腕を左手で押さえて、俺の隣に立った。その腕は、街の工房でないと直らない。俺の肋も、たぶん何本かいっている。ずいぶん高い当直だった。
それでも、旗艦の腹には、まだ青白い残光があちこちに揺れていた。旧文明の合金や、生きたままの動力の核。封印された箱も、まだいくつも残っている。しばらくは拾い放題だ。
だが、それより気になるのは、その下だった。
艦長たちが命がけで封じ続けたもの。それが、この海の底に、いまもいる。門は開いてしまった。開けたのは、俺だ。
俺は、痛む脇腹を押さえて、静かになった艦をぐるりと見回した。門の向こうへ踏み込むのは、治してからだ。焦る必要はない。あれは、もうどこへも行かない。俺が、行くまでは。
「まずは、この棺の中身を、いただいていくとするか」
世界の見張りなんていう、とびきり割に合わない役目を引き受けたんだ。手間賃くらいは、しっかりもらっておかないと、まったく引き合わない。




