第49話 喉のひらく刹那
化け物が亀裂から頭を引き抜いた。
目のない顔がノアのほうへ向く。外の海へ出ることも忘れて、こいつはその声に聞き入っていた。
「ノア、おまえ」
訊きたいことは山ほどあった。なぜ、おまえがこの歌を知っている。なぜ、この化け物がおまえの声に振り向く。だが今は、訊いている場合じゃない。
ノアが歌の合間に、こちらを見ずに言った。
「この個体は、生まれる前に聞いた声を覚えているようです。培養槽の中で、ずっと流されていた音でしょう」
「おまえは、なんでそれを歌える」
「分かりません。分からないことに、しておいてください」
その声に、いつもの穏やかさはない。
それ以上は、言わなかった。ノアが分からないことにしておきたいなら、今は、分からないままでいい。片づけるのが先だ。
だが、腹の底がざわついていた。
考えるのは、あとだ。今は、目の前の一匹を海へ出さないことだけ考えろ。
化け物がゆっくりと口を開けた。
ノアの歌に応えるように、喉の奥から低い声が漏れはじめる。歌い返そうとしているのだ。
その喉の甲が、内側から、わずかに持ち上がった。
あそこだ。
喉の甲が、ほんの少し、浮いた。歌い返す息が、そこから漏れている。斬れない鎧に、たった一枚だけ開く所がある。
こいつが歌い返すとき、喉が開く。ノアが歌えば、こいつは応える。応えれば、鎧が開く。
黒鴉を握り直し、すぐに顔をしかめた。
喉は、俺の背丈の十倍は上にある。開くのは、まばたきひとつぶん。跳んだところで届く高さじゃない。刃を投げても、あの一瞬であの隙間に吸い込ませるのは、まず無理だ。
「リル! あいつの喉まで、俺を担ぎ上げる手はないか!」
「む、無茶言わないでよ!」
リルが痛む腕を押さえながら、必死に頭を巡らせているのが分かった。それでも、
こういうときのこいつの頭は、よく回る。
「あたしの光じゃ、人は運べない! でも、足場なら作れるかも!」
「足場だと」
「崩れた天井を撃って、あいつのそばに瓦礫の山を積む! 段々にすれば、駆け上がれるでしょ!」
いい考えだった。
だが、時間がない。化け物の歌い返しは、だんだん大きくなっていた。ノアの歌に心地よさそうに身を委ね、こいつは今、無防備だった。だが、これがいつまで続くかは分からない。
「ノア、あとどれくらい保たせられる」
ノアの声が、歌の切れ目に、少しだけ届いた。
「長くは。この歌は、わたしの知らないところから出ています。無理に汲み上げている感覚があって、あまり、長くは」
「上等だ。三十数えるうちに、片をつける」
リルの光弾が崩れかけた天井を撃ち抜いた。
二発、三発。抉れた天井材が、化け物の脇へどどどと崩れ落ちていく。リルは腕の痛みに顔を歪めながらも、狙いを外さなかった。落ちた瓦礫の上へ次の瓦礫を重ねていく。積み木みたいに、少しずつ、段が高くなっていった。
その段の下へ走り込んだ。
一段目に飛び乗る。濡れた瓦礫が、ぐらりと揺れる。二段目、三段目。踏むそばから崩れそうな足場を、止まらずに駆け上がる。
だが、瓦礫の山は、化け物の肩までしか届かない。
そこから上、喉までは、まだ遠い。見上げると、鎧の頂で、あの喉の甲がじれったく開いたり閉じたりしている。
「クロウ、そこから跳んで! 背中、押すから!」
リルの声。
次の瞬間、俺の背中を、光の塊がどんと突き上げた。リルの光弾だ。爆風を、そのまま足場にしやがった。体がふわりと持ち上がる。強化服の背が焦げる匂いがしたが、知ったことか。俺は、その勢いのまま、化け物の甲を蹴った。
つるつる滑る甲を、二歩、三歩と駆け上がる。
瓦礫が崩れる。踏み直す。また崩れる。片手で甲の縁を掴んで、体を引き上げた。膝が笑う。背中の傷が一歩ごとに疼く。それでも登った。登るしかなかった。
喉が、もう、すぐそこまで来た。
だが、その喉は閉じていた。
この瞬間、化け物は歌い返していなかった。息継ぎだ。歌と歌の、その合間。喉は、ぴたりと閉ざされている。
しくじった。タイミングが合わない。
甲の上で、俺は棒立ちになった。眼下では、リルが崩れかけた足場の下から、必死にこちらを見上げている。頼みの綱の瓦礫は、もう半分崩れて水に沈んだ。降りることも、登ることもできない。宙ぶらりんだ。
こいつが息を吐くとき、喉は開く。だが、俺がここに着いた今は、こいつが息を吸っている最中だった。このまま甲の上でもたつけば、次にこいつが身震いした瞬間、俺は振り落とされて、下の瓦礫に叩きつけられる。
滑る甲に爪先を食い込ませて、踏みとどまった。ここまで来て、落ちるわけにはいかない。やり直しは、きかない。次の一回で決める。
「ノア! もう一度、高く伸ばせ! できるだけ、長く!」
賭けだった。ノアの声が、どこまで保つか。あいつが、また同じように応えてくれるか。どれも、確かめている暇はない。
もう、後がない。喉が開くのは一瞬だ。その一瞬に、この一撃を間に合わせる。息を止めた。刃を握り直す。掌が汗で滑った。
ノアが応えた。
掠れた歌が、ひときわ高く長く、尾を引く。糸みたいに細く、今にも切れそうな声だ。それでも、伸びた。振り絞るように、伸びた。
化け物が、その声に引かれて大きく口を開けた。
喉の奥から、応えの歌がぶわりと吐き出される。
喉の甲が花みたいに、いっせいに開いた。
青白い肉が、目の前でぱっくりと露わになる。
時が、間延びして見えた。開いた戸も、覗く肉も、滑る足場も、何もかもがやけにゆっくりと、目に映る。この一瞬のために、ここまで登ってきた。外すわけには、いかない。
今だ。
黒鴉を、両手で逆手に構えた。全身の重さを切っ先の一点に乗せる。そして、開いた戸の奥へ。柔らかい肉の、いちばん深いところへ。渾身の力で、突き立てた。
刃が、通った。
初めて、この化け物の内側へ、青白い光刃が沈み込む。今度こそ、確かな手応えがあった。
肉が、刃を締めつけてくる。熱い。生きているものの、内側の熱だ。俺はその熱に逆らって、切っ先をさらに奥へ押し込んだ。ここが急所だと、指先が言っている。もっと深く。もっとだ。
全体重をかけた。腕が、肩が、悲鳴を上げる。それでも押した。この一撃が浅ければ、鎧はまた閉じて、刃ごと俺を噛み砕く。中途半端は、許されない。刃の柄が、肉に埋まるところまで、押し切った。
化け物が絶叫した。
これまでの歌でも、悲鳴でもない。生き物の、本物の絶叫だった。ドーム全体がびりびりと震え上がる。崩れかけていた天井が、あちこちで、いっせいに落ちてきた。
巨体が狂ったように暴れだす。
俺は甲の上から、あっけなく振り落とされた。宙を舞って、崩れた瓦礫の山に背中から叩きつけられる。息が、完全に止まった。目の前が、真っ白になる。
それでも、俺は笑っていた。
化け物の絶叫が、だんだんと細くなっていく。
最後に、こいつは一度だけ、低く鳴いた。悲鳴でも威嚇でもない。歌だった。ノアの声を探すような、短くて優しい歌だった。それが、こいつの、最後だった。
あれだけの巨体が、ぐらり、ぐらりと傾いで、やがてゆっくりと水の中へ崩れ落ちる。膝まであった水が、その巨体に押されて津波みたいに広間を洗った。俺は瓦礫にしがみついて、なんとか、その波をやり過ごした。
天井が、次々と落ちてくる。破片が雨みたいに降り注ぐ。轟音が、いつまでも収まらない。俺は頭を抱えて瓦礫の陰に伏せた。ドームそのものが、この化け物の死に、悲鳴を上げているみたいだった。
静かになった。
崩れた天井の穴から、青白い光の筋がいくつも差し込んでいる。ドームの割れ目から漏れる、深海の光だ。その光の中で、化け物の巨体が、ゆっくりと沈んでいった。もう動かない。海へ出ることも、歌うことも、二度とない。
「やった、の」
リルの、掠れた声。
「ああ」
声が、うまく出なかった。背中が痛い。だが、生きている。三人とも、生きている。安請け合いの依頼で、絶海の孤島まで来て、世界の見張りを引き継いで、こんな化け物まで沈めた。とんだ大仕事になったものだ。
ノアのほうへ目をやった。
礼を言おうとした。おまえの歌がなけりゃ、こいつは今ごろ海の中だ、と。
だが、言葉が喉で止まった。
ノアが、その場に崩れ落ちている。
膝から、水の中へ。糸の切れた操り人形みたいに、ゆっくりと。
「ノア!」
駆け寄って、抱き起こす。背中の痛みも忘れていた。
ノアの目は、開いていた。開いていたが、俺を見ていない。焦点の合わない瞳が、遠いどこかを見ている。たぶん、海の、ずっと底のほうを。
その口が、微かに動いていた。
まだ、歌っていた。
もう化け物は死んだのに。歌う必要は、どこにもないのに。ノアは、止まらない歌を、細く、細く、口ずさみ続けていた。
それは、あの化け物が最後に鳴いたのと、同じ一節だった。死んだ化け物と、生きているはずのノアが、同じ歌を、海の底へ向けて口ずさんでいる。片方は、もう二度と目を覚まさない。もう片方は、目を開けたまま、どこか遠くへ行ってしまっている。
俺が肩を揺すっても、名を呼んでも、その歌は止まらなかった。
リルが、水を掻き分けて駆けてきた。俺の隣に膝をつく。二人で、ノアの顔を覗き込んだ。
ノアの頬は、濡れていた。海の水か。それとも、別の何かか。俺には分からなかった。
このままじゃ、まずい。ドームは崩れかけている。水も、じわじわ増えてくる。ノアを担いで、鯨号まで戻る。今できるのは、それだけだ。
ノアを背負い直した。細い体は、驚くほど軽い。軽すぎて、怖かった。今にも、この歌ごと、指の間から零れ落ちてしまいそうで。
化け物は、沈めた。村の海を狂わせた元凶は、片づいた。それなのに、俺の腕の中で、いちばん大事なものが少しずつ、遠くなっていく。
まるで、その歌のほうが、ノアを離してくれないみたいに。




