第42話 一万年の号令
ピィン、と、二度目が鳴った。
澄んだ音だ。教会の鐘みたいに綺麗で、腹の底が冷える。
「なんの音!?」
「音を投げて、跳ね返りを聞いています。わたしたちの形を、測っているんです」
ノアの声に、感情がない。こういうときのこの子は、機械の側に立って喋る。
「測ってどうする」
「排除の手順を、選びます」
選び終わったらしい。
通路の奥で、けたたましい警報が鳴りはじめた。天井の赤い灯が、規則正しく回りだす。一万年ぶりに仕事を思い出した艦の、寝ぼけまなこの怒りみたいだった。
どこかで、ごうん、と重い音がした。
続いて、水の音。
「区画注水です」
ノアが、はっきり言った。
「侵入者は、溺れさせて排除する。この艦の手順は、それです」
合理的だ。むかつくほど。
足元を見ると、通路の床の格子から、黒い水がじわりと湧きあがってきていた。
「戻るぞ!」
叫んで、俺は駆けだした。
だが、通路の先で、隔壁が落ちてきた。分厚い鉄の板が、床までの隙間を残して、がしゃんと止まる。
外れだ。来た道は、もう塞がった。
「反対!」
リルが、艦の奥を指さす。奥は、下だ。艦は傾いて沈んでいるから、奥へ行くほど深くなる。水も、そっちから来る。
それでも、開いている道はそこしかない。
水は、もう膝まで来ていた。
冷たい。強化服の中まで、じわじわと沁みてくる。
その水の中に、最初の一人が浮いていた。
人間だ。
うつぶせに、通路の壁に引っかかっている。灰色の外套。ぼろぼろに乾いた手が、鉄の手すりを掴んだまま固まっていた。
乾いた空気の中で、干からびていたんだろう。そこへ水が入って、浮いた。
「財団の連中か」
「ええ」
その先に、もう一人。さらに奥に、二人。
全員、同じ方向を向いていた。
艦の、奥。下だ。誰も、逃げようとしていない。這ってでも、下へ行こうとした恰好のまま死んでいる。
背筋が、ぞわりとした。
こいつらは、逃げ遅れたんじゃない。行こうとしたんだ。もっと深いほうへ。
「――誰か」
声がした。
通路の脇の、細い扉。開けると、男が壁にもたれて座っていた。
灰色の外套。頬がこけて、目が落ちくぼんでいる。膝の上に工具箱を抱えたまま、俺を見上げた。生きている。ぎりぎり、生きている。
「水を」
水筒を口元にやると、男はほんの少しだけ飲んで、むせた。
「あんた、財団の人間か」
「回収官補佐、だ。三十七日、ここにいる」
三十七日。艦の中の、一万年前の空気を吸って。
「仲間は、みんな行っちまった。呼ばれてな」
「呼ばれた?」
「隊長は、この艦のコアを抜いたんだ。持ち帰れば、財団は艦隊ごと手に入る、とな。抜いて、それを床に放り出して、下へ降りていった」
男が、笑った。笑ったつもりの、ただの引きつりだった。
「宝より、歌のほうがよかったんだとよ」
「歌が、聞こえるんだよ。下から。とても、いい歌だ。あんたには、聞こえないか」
俺は、首を振った。
「聞こえないなら、耳を塞いでろ。おれは、耳栓を打ちつけて、この部屋に閉じこもった。それで三十七日だ」
男の手が、震えながら懐を探る。
出てきたのは、金属の記録板だった。俺に押しつけてくる。
「持っていけ。……もう、うちの連中は帰ってこない」
言い終える前に、男の手から力が抜けた。
目は、開いたままだった。
俺はその瞼を指で下ろしてやった。財団の犬だ。同情する義理はない。ないが、耳栓を打ちつけて三十七日耐えた男を、水に浮かせたままにする気にもなれなかった。
艦橋は、その一つ下にあった。
水は、腰まで来ている。
円い部屋の中央に、旧文明の端末が立っていた。珊瑚に半分食われながら、まだ息をしている。画面の奥で、青白い光が明滅していた。
俺は黒鴉を抜いて、その光に刃を当てた。
言葉が、流れ込んでくる。
――記録。深度作戦群〈アビス=フリート〉。任務、封鎖。
――対象、海底施設〈ネレイス〉。
封鎖。俺は、その言葉を頭の中で二度なぞった。
――封鎖の目的は、内側からの流出の阻止である。
内側からの、流出。
――施設は、命令系統を喪失。生産は停止しない。
――我々は、出てくるものを沈める。すべて沈める。
その前後に、途切れ途切れの断片が挟まっていた。
――生産物、規格外。
――個体、成長を継続。
――回収は不能である。
規格外。成長を継続。
旧文明の連中が、自分たちで作ったものを、自分たちの手に負えなくなった。よくある話だ。ただし、その「よくある話」を、こいつらは一万年、海の底で押さえつけてきた。
背中が、冷たくなった。
この艦隊は、俺たちを海の底へ入れないために撃ってたんじゃない。
海の底の“何か”を、外へ出さないために撃ってたんだ。一万年、ずっと。
――燃料、残り三パーセント。休眠に入る。
――封鎖は、継続される。
そこで、記録が途切れた。
次の一行は、間が空いていた。
――一万年が経過した。上空より、招集信号を受信。
――封鎖任務、継続。
――全艦、砲の充電を再開する。
ひと月前。
塔の心臓も、砂の底の頭脳も、同じ声に叩き起こされた。そしてこいつらも、目を覚まして、一万年前の続きを始めた。
律儀な連中だ。反吐が出るほど。
記録の最後に、機械の言葉じゃないものが混じっていた。乗組員の、手書きの記録だ。
――帰れないことは、分かっている。
――だが、あれを海から出すわけにはいかない。
――誰か、いつか、これを読む者へ。すまない。
俺はしばらく、その一行を見ていた。
こいつらは、沈むと分かって沈んだのか。
「ご主人様」
ノアが、端末の裏側を覗き込んでいた。
「管制コアが、ありません。抜かれています」
「抜かれた?」
俺は、死んだ男から預かった記録板を、黒鴉の刃に触れさせた。
財団の文字が、走った。
――旗艦以外の管制コアを回収。兵器の統制権は旗艦に集約されている。
――旗艦への侵入は不可能。撤収する。
撤収して、この様か。
だが、意味は分かった。この艦の端末は、もう空っぽだ。ここをいくらいじっても、あの光は止まらない。
止めたきゃ、旗艦へ行け。そういうことだ。
水が、胸まで来た。
艦橋の扉が、ごうん、と閉じる。
残った通路は、一本。もう水没している。
「泳ぐしかありません」
「泳げないってば!あたし、泳げないってば!」
リルの声が、悲鳴に近い。杖を抱きしめて、壁に貼りつくみたいに後ずさっている。目が、完全に据わっていない。
水は、もう肩だ。
俺はリルの前に背を向けてしゃがんだ。
「乗れ」
「え」
「言っただろ。塞げなかったら、担いで浮くって」
リルが、俺の背中にしがみついた。細い腕が、首に食い込む。震えている。
「息を止めろ。俺の背中から、絶対に手を離すな」
「――うん」
水が、天井に届いた。
水の中は、静かだった。
ノアが先を行く。銀の刃が、閉じかけた隔壁の継ぎ目に差し込まれ、こじ開けられていく。ひと押しで、鉄が悲鳴を上げて割れた。この人形は、水の中でも一切、力が鈍らない。
背中で、リルの心臓が、めちゃくちゃな速さで鳴っていた。
角を曲がったところに、青白い球が浮いていた。
機雷型だ。水の中では、こいつらのほうが速い。ふわりと向きを変えて、腹を割る。赤い光が溜まりはじめた。
背中には、息を止めたリルがいる。跳べない。避ければ、爆風がこいつを潰す。
片手で黒鴉を振った。水の抵抗で、刃が鈍い。届かない。
その鼻先を、銀の影が横切った。
ノアが球体を抱え込んで、そのまま横の区画へ放り込む。分厚い扉を蹴って閉じた瞬間、向こう側で衝撃が弾けた。鉄が、ぐわん、と歪む。
水を通して、腹の底まで殴られた。
振り返ったノアが、口だけを動かした。
――急いで。
言われなくても、急ぐ。
通路を蹴る。壁を掴む。曲がる。
肺が焼ける。
ハッチが見えた。俺たちが開けた、あのハッチだ。その向こうに、鯨号の灯りが滲んでいる。
最後の三メートルを、蹴った。
甲板の床に、三人まとめて転がり込んだ。
水を吐く。咳き込む。天井が、ぐるぐる回っていた。
リルが、俺の背中を叩いた。
「ばか!ばか!死ぬかと思った!」
「死んでねえだろ」
「泣いてないから!これ、海の水だから!」
顔じゅう、水と鼻水でぐしゃぐしゃだった。
ノアが、無言で毛布を二枚持ってきて、俺たちの頭からかぶせた。それから、リルの頭を、ぽん、と一度だけ叩いた。
リルは毛布にくるまったまま、しばらく黙っていた。
「……ねえ。あの人たち、なんで下に行っちゃったの」
財団の連中のことだ。
「歌が聞こえたんだとさ」
「あたしには、聞こえなかったよ」
「聞こえなくていい」
俺は、リルの濡れた髪をがしがし拭いてやった。
「聞こえる耳より、聞こえない耳のほうが、たいてい長生きする」
着替えてから、艦で拾った記録装置を解析台に置いた。
青白い文字が、宙に滲んで並ぶ。
「乗組員の、私的な記録ですね」
ノアが静かに読みあげる。
海が濁りはじめた、という話だった。施設から漏れたものが魚を変え、その魚を食った魚が、また変わる。網にかかるのは、もう魚と呼べる形をしていない。
一万年前の男が、そう書いている。
喰らい魚だ。呼び名が違うだけで、同じものだ。
あの村の海に湧いているのは、昨日今日の災いじゃない。一万年前にも同じことが起きて、この艦隊が蓋をして、いったん止まった。それだけの話だった。
その蓋が、また開いた。
鯨号を、艦の陰まで下げる。
濡れた髪から水を垂らしながら、俺は舷窓の外を見ていた。
艦隊の灯が、動いた。
何十という青白い目玉が、いっせいに、同じ方向へ首を振る。
その先に、一隻だけ、桁違いの塊があった。
珊瑚に飲まれた、山みたいな影。ほかの艦の、三倍はある。
旗艦だ。
どっ、どっ、と、腹に響く音は、そこから来ていた。
その珊瑚の山の一部が、ゆっくりと持ち上がる。
鉄の板だ。艦の背に生えた、砲塔だったもの。錆と珊瑚をぼろぼろ撒き散らしながら、それが上を向いていく。
あと何刻かすれば、また電気が溜まる。溜まれば、あの光が海面を裂く。村の連中は今夜も家に引っ込んで、息をひそめて朝を待つ。
「〈ネレイス〉」
ノアが、ぽつりと言った。
「艦隊が封じている施設の名です。この海の底に、あります」
「海が狂った元凶か」
「おそらく」
俺は濡れた前髪をかき上げた。
外へ出すな、と一万年前の連中は言った。出したら、どうなるかは書いていない。書く必要がなかったんだろう。
「ノア。歌ってのは、まだ聞こえるか」
ノアが、こちらを見た。
いつもの、穏やかな顔で。今度は、嘘をつかなかった。
「――さっきより、大きくなっています」
「どこから聞こえる」
「下から。ずっと、下からです」




