第41話 沈黙の艦隊
夜明け前に、俺たちは潜った。
浜には村の連中が総出で出ていた。誰も声を出さない。海に声を投げると、あいつらに聞こえる。この島の連中は、本気でそう信じている。
マレナが無言で拳を突き出した。俺もそれに拳を合わせた。
ナジは唇を結んだまま立っていた。行くな、とも、行け、とも言わない。ただ、こっちを見ていた。
ハッチが閉まる。空気が、しん、と詰まった。
「潜航、はじめます」
ノアの手が、舵輪の脇のレバーを引く。
鯨号がゆっくり沈んでいく。窓の外で、白っぽい海面が頭の上へ遠ざかった。青が濃くなる。濃くなって、藍になる。
「うわ、うわ、うわ」
リルが窓に貼りついたまま、同じ音を繰り返している。
「クロウ、水!水の中!」
「見りゃわかる」
「だって、水の中!」
語彙が死んでる。
もっとも、笑っていられたのは最初の百メートルまでだった。
深く行くほど、光が減る。青が黒に近づいて、やがて外は何も見えなくなった。船体が、みし、と鳴る。骨を軋ませるみたいな音だ。
「今の、なに?」
「殻が、水の圧を受け止めている音です。正常ですよ」
「正常でも、怖いんだけど!」
俺も同感だった。口には出さないが。
タルガの海図は、正確だった。
海溝の縁を、地面を這うみたいに進む。鯨号は魚のようには泳げない。海底に腹を擦らせて、のろのろと、歩くみたいに沈んでいく。
推進の泡を、絞れるだけ絞る。当て布のおかげで、船体の音は外へ漏れない。
灯りは点けない。ノアは音の反射だけを頼りに舵を切っている。
「ご主人様。上を」
言われて、天井の小窓を見上げた。
闇の中を、青白いものが、すうっと通り過ぎていった。
光の筋だ。まっすぐで、ためらいがない。ずっと上の、海の表面へ向かって撃たれている。
俺たちの、二十メートルばかり頭の上。
誰もしゃべらなかった。リルなんて両手で口を押さえている。
通り過ぎる。二本目。三本目。それきり、闇が戻った。
途中、窓のすぐ外を、白いものがよぎった。
骨板だ。喰らい魚の背中の、あのぎざぎざ。一匹じゃない。何十匹という影が、鯨号のまわりをゆっくり回っている。
リルが杖に手をかけた。俺は、それを手で制した。
やつらは、音を探している。当て布に包まれた鯨号は、こいつらにとってはただの岩だ。
群れは、しばらく舐めるようにまとわりついて、それから、興味を失って散っていった。
背中に、じっとり汗をかいていた。
「三発。今夜のぶんは、撃ち切ったかと」
ノアの声が、いつもより硬い。
「溜めて、撃つ。溜まるまでは、あちらも撃てません。いまが、いちばん近づける時間です」
撃った直後は、空っぽ。
流木に腰かけた爺さんの、酒くさい証言が、こんなところで効いてくる。
やがて、鯨号の灯りが点いた。
闇に、白い円が広がる。その円の中に、それは現れた。
船だ。
鉄の船が、海の底に横たわっていた。
腹の膨れた、まるっこい船体。それが、珊瑚に食われている。装甲の継ぎ目から赤や紫の枝が生え、砲塔だったものを飲み込んで、岩みたいな塊に変えていた。
一隻じゃない。
灯りを振ると、闇の奥から次の船が浮かび上がる。その隣にも。もっと奥にも。
何十隻もある。船首をみんな同じ方向へ向けて、整然と並んでいた。
沈んだんじゃない。並んで、待っている。
「〈アビス=フリート〉」
ノアが、静かに言った。
「珊瑚に飲まれても、隊列を崩していません。ここは墓場ではありません。錨地です」
停泊地。
ぞっとした。死んだものは、並んだりしない。
灯りの端に、別のものが引っかかった。
珊瑚じゃない。船だった。俺たちの時代の船だ。真っ二つに裂けて、海底に突き刺さっている。焼け焦げた縁が、ぱっくり口を開けていた。
灰色の塗料が、まだ残っている。
「財団の連中の船か」
ノアが淡々と言う。
財団は、正面から来たんだ。音を立てて、堂々と。それで、上から撃たれた。
同情はしない。だが、これが答えだ。あの光は、確実に船を沈める。
鯨号を、いちばん手前の艦の脇につけた。ここから先は、外へ出る。
「行くぞ」
俺は〈黒鴉〉を腰に吊って、強化服の首元を締めた。旧文明製のこいつは、水の中でも問題なく動く。中の空気も、しばらくもつ。ノアの整備のおかげだ。
リルが、青い顔で杖を握りしめた。
「あ、あたし、泳げないんだけど」
「泳ぐな。歩け。海の底にも、地面はある」
「そっか。地面か。うん、地面ならいける!」
立ち直りが早い。
海の底へ降りた。
足が、砂に沈む。音が、遠い。自分の心臓の音だけが、やたら近くで鳴っている。
珊瑚は、生きていた。艦の装甲から生えた赤や紫の枝が、水の中でゆっくりと開いては閉じる。一万年かけて、こいつらは鉄を食い、鉄の中で育った。
ノアが、途中で足を止めた。
黒い髪が、水の中で海草みたいに広がっている。彼女は顔を上げて、暗い水の奥を見ていた。ずっと奥の、底のほうを。
「どうした」
「――いえ」
ノアは首を振って、また歩きだした。
「なにか、聞こえたか」
「いいえ。何も」
嘘だ、と思った。だが、この場で問い詰めることじゃない。
艦の腹に、ハッチがあった。円い、鉄の扉。継ぎ目には珊瑚が食い込み、まわりには、こじ開けようとした傷が無数に残っていた。四十年前の、若いタルガたちの爪痕だ。
開くわけがない。こいつには、鍵がかかってる。物理の鍵じゃないほうの、鍵が。
俺は、黒鴉の刃をハッチの中心に当てた。
青白い光が、じわりと鉄に染みていく。刃の向こうから、硬くて規則正しい声が流れ込んできた。機械の言葉だ。
――照会。乗員コードを送れ。
――応答なし。封鎖を継続する。
悪いな。今日は、開けさせてもらう。
黒鴉が、その命令をなぞって、書き換える。封鎖継続を、解錠へ。
ごぎん、と、一万年ぶんの錆が鳴った。
ハッチが、開いた。
中は、乾いていた。
水が、一滴も入っていない。一万年、閉じこめられたままの空気だ。ライトを向けると、埃がゆっくり舞い上がった。
狭い通路が奥へ続いている。手すり。壁を這うパイプ。床に金属の食器が転がっていた。寝台の毛布が、めくれた形のまま固まっている。
一万年前、誰かがここで暮らしていた。
「ノア。空気は」
「吸えます。少し、古いですが」
面を上げた。かび臭くて、鉄くさい。人が住んでいた家の匂いだ。人の気配だけが、そっくり抜け落ちている。
リルがそっと食器を拾い上げた。
「……ごはんの途中、だったのかな」
その足元に、写真立てらしきものが落ちていた。ガラスは割れ、中身は褪せて、もう何も見えない。
壁には、落書きがあった。旧文明の文字で、名前が並んでいる。何人ぶんも。誰かが、寝台の脇の鉄板に、釘か何かで刻んだんだ。
「ここにいた人たちの名前です」
ノアが、指先でそっとなぞった。
「帰ったら消す、というつもりで刻んだのだと思います。こういうものは、いつも、そうですから」
通路の途中の小部屋で、リルが小さな箱を見つけた。手のひらに乗る、鈍く光る金属の塊だ。ノアが受け取って、裏返す。
「記録装置ですね。旧文明製で、生きています」
「読めるか」
「鯨号に持ち帰れば」
俺は、それを黒匣に放り込んだ。
外っ側は四十年前に浚われた。だが、この中は違う。ハッチが開かなかったから、誰も入れなかった。一万年、手つかずのままだ。
つまり、この艦の腹の中身は、まるごと俺たちのもんだ。ありがたい話だが、ありがたすぎて薄気味が悪い。
通路の奥で、珊瑚が動いた。
いや、珊瑚じゃない。
壁にへばりついた岩の塊が、ぼこりと膨らんで、内側から割れた。出てきたのは、丸い機械だ。人の頭ほどの球体に、珊瑚の枝が生えている。ふわりと浮いて、こっちを向いた。
球体の腹が割れる。中で赤い光が溜まりはじめた。
「機雷型の警備機です。ご主人様、下がって――」
言い終わる前に、俺は跳んでいた。
黒鴉の一閃。球体が真っ二つになって、床に落ちる。赤い光が消える寸前、思いきり蹴り飛ばした。
通路の先で、爆ぜた。
衝撃で、壁の珊瑚がぼろぼろ剥がれ落ちる。耳が、しばらく鳴っていた。
「あっぶな!中で爆発する気!?」
「自爆型か。趣味が悪いな」
剥がれた壁の裏から、二つ、三つと、同じ球体が這い出してくる。珊瑚に半分食われながら、それでも動く。一万年、この通路を守ってきたんだ。
リルの光弾が、狭い通路を薙いだ。ノアの刃が、天井から落ちてきた一つを縦に割る。
数えるほどの時間で、片がついた。
俺は床の残骸をつま先でつついた。
「弱いな」
本音だった。塔で殴り合ったヘヴィ・センチネルのほうが、よほど手強かった。こんなものが、この艦隊の兵隊か。
いや、違うな。
こいつらは兵隊じゃない。番犬だ。それも、艦の内側をうろつくだけの、留守番の番犬。
本命は、外だ。夜ごと海面を撃ってる、あの兵器。それを動かしている、どこかの中枢。
そのとき、足の裏に、伝わってきた。
どっ。
艦の、もっと奥。深い場所から。
どっ。どっ。
腹の底を、下から叩いてくる音だ。心臓の音。四十年前、タルガが聞いたという、あの音。
壁のパイプが震えはじめた。天井から、錆がぱらぱら落ちてくる。
「ご主人様」
ノアが、窓のない壁を見つめていた。その向こうは、海だ。
「艦隊が、目覚めました」
外の暗い海に、灯がともっていた。
一つ。二つ。十を数え、二十を超える。珊瑚に飲まれた艦隊の、青白い光がいっせいに灯っていく。
こっちを、見ている。
鼓膜の奥で、澄んだ音が鳴った。
ピィン、と。




