第39話 凪の来ない海
海ってのは、思っていたよりずっと、うるさい。
波が船腹を叩く音。風が耳のわきを通り抜ける音。陸に慣れた耳には、その全部が四六時中こびりついて離れない。
鯨号の甲板に座り込んで、俺は三日ぶんの塩を頬に貼りつけたまま、水平線をにらんでいた。船酔いはしない。したら格好がつかないから、しないことにしている。
「クロウー!見て見て、海!海だよ!」
舳先のほうで、リルがはしゃいでいる。銀色の髪が風でめちゃくちゃになるのも構わず、手すりから身を乗り出して、下の波をのぞき込んでいた。
「落ちるぞ」
「落ちないってー。あ、でも、あたし泳げないんだった」
「なら乗り出すな、ばか」
初めて海を見た、と言ってはしゃぎだしたのが二日前だ。まだ飽きないらしい。
「ご主人様。お茶をお持ちしました」
ノアが、いつのまにか隣に立っていた。湯気の立つ椀を差し出してくる。揺れる甲板で、この人形は一度もよろけない。エプロンの裾ひとつ乱れていないのが、なんだか腹立たしい。
「助かる。あと、どれくらいだ」
「半日ほどかと。水の上では、どうしても速度が落ちますので」
鯨号は水に浮く。旧文明のご先祖様は、陸だの海だのという区別に、よほど無頓着だったらしい。尻から吐く泡で、のろのろと海面を進んでいく。
浮くし、走る。ただし、潜れない。
「潜航のほうは、やっぱり無理か」
「船殻が潰れてしまいます。あれがしっかりしていないと、水圧で潰れます」
潰れます、を、味噌汁が薄いです、くらいの調子で言うのはやめてほしい。
膝に置いた依頼書は、もう塩でよれよれになっていた。
大陸の南の、そのまた南。船で何日もかかる絶海の孤島〈カイア〉。島に村は一つきりだから、島の名が、そのまま村の名だ。
依頼の中身は、三行で足りる。海が狂った。魚が獲れない。かわりに、化け物が湧く。
報酬は、笑っちまうくらい安い。貧乏な漁村が、なけなしの銭をかき集めた額だ。腕利きほど見向きもしない。
それでも受けたのは、灰色の連中から少し離れたかったのと、依頼書の最後の一行のせいだ。
〈ひと月ほど前から、沖の海が、夜ごと光る〉
最近になって、目を覚ました。またそれだ。砂の底の演算都市も、あの塔の心臓も、みんな同じ理由で起きた。空の上から降ってくるという、招集の信号とやらで。
だとしたら、この海の底にも、一万年寝てた誰かがいる。
昼を過ぎたころ、海の色が変わった。
青が濁って、白い膜みたいなものが波間に浮きはじめる。舷側から見下ろすと、それが泡だとわかった。魚の腹が、そこかしこに白く裏返って漂っている。一匹二匹じゃない。帯みたいに、ずっと沖まで続いている。
においが、ひどい。潮の匂いに、腐った肉の匂いが混じっている。
「これ、ぜんぶ死んでるの?」
リルが鼻をつまんだ。
「ああ。獲られたわけでもなく、勝手に死んで浮いてる」
海鳥が一羽もいない。それが、いちばん気持ち悪かった。鳥が寄りつかないってことは、食えば腹を壊すか、あるいは、もっと食い意地の張ったやつが水の下にいるかだ。
ノアが海面をのぞき込んで、目を細めた。
「ご主人様。海水に、旧文明の培養液に近い成分が混じっています」
「培養液?」
「生き物を育てるための水です。ずいぶん薄まっていますが、どこか遠くから流れてきています」
育てるための水。この、腐った海の、どこかで。
その先で、悲鳴が聞こえた。
小舟だ。
右手、二百メートルばかり先。一艘の小舟が、水面を跳ねるように逃げている。艫で若い男が必死に櫂を漕いでいて、その後ろの海が、沸いていた。
黒い背びれ。いや、ひれじゃない。骨みたいな、ぎざぎざの板だ。それが五つ、六つ。舟を追って、水を裂いてくる。
「リル!」
「わかってる!」
言い終わる前に、リルは舳先へ跳んでいた。杖型のレリックが、ぼう、と光を溜める。
水面が破れた。
飛び出してきたのは魚だった。魚だと言い張るしかない何かだった。体長は、人の背丈ほど。頭の半分が顎で、その顎に、鋸みたいな歯が三列。目玉がない。かわりに、鼻先から肉の触角がゆらゆら生えている。
それが宙で身をよじって、舟の男めがけて落ちてきた。
光が走った。
リルの光弾が化け物の胴を貫き、そのまま海面へ叩き落とす。爆ぜた水柱が、小舟をひっくり返しかけた。
「近い!舟ごと吹っ飛ばす気か!」
「だって、当たっちゃうんだもん!」
俺は甲板を蹴った。
海の上ってのは、つくづく俺たち向きじゃない。足場がない。跳んだ先に、地面がない。
それでも、跳んだ。
〈黒鴉〉を抜く。青白い光刃が、二本。
落ちながら、水から飛び出してきた一匹を、すれ違いざまに両断した。断面から、血と一緒に、金属みたいな粒がぱらぱらこぼれる。
着地は、小舟の縁だ。ぐらつく舟を膝で押さえ込み、若い男の襟をつかんで引き倒す。頭の上を、二匹目の顎が通り過ぎた。歯が、髪をかすっていった。
「伏せてろ!」
男が、声にならない声でうなずく。
三匹目が横っ腹から来る。斬る。四匹目が下から、舟板ごと食い破ろうと突き上げてくる。斬る。
斬っても斬っても、水の中から次が来た。こっちの間合いを、向こうは海の底から好き放題に選べる。これが厄介だ。
「ご主人様、後方」
ノアの声。振り向くより早く、銀の刃が俺の頭上をかすめて、背後の一匹の顎を、下から縦に割った。
いつのまにか、ノアが舟に乗り移っている。メイド服の裾ひとつ濡らさずに。どうやって来た。
「ふふ。急ぎましたので」
答えになっていない。
残りが散った。散ったと思ったら、海が盛り上がった。
小舟の、左。水面がこんもりと丘みたいに膨らんで、そこから出てきたのは、さっきまでのやつの四倍はある巨体だった。背中に、船の残骸みたいな板がびっしり生えている。生えてるんじゃない。食って、身に取り込んだんだ。
そいつが、口を開けた。小舟なんか丸ごと入る口だ。
「リル、頼む!」
「――全力で、いくよ」
声の温度が、変わった。
舳先のリルの周りで、空気がびりびり軋む。杖の先に集まった光が、真っ白に潰れた。
撃った。
太い光の柱が、海と巨体を、まとめて撃ち抜いた。
衝撃で、小舟が跳ね上がる。若い男を抱え込んで、俺は舟板にしがみついた。落ちてきた海水を、頭からかぶる。塩っ辛い。目にしみる。
視界が戻ると、化け物は、うつぶせに浮いていた。動かない。背中の板の隙間から、赤黒いものが水に広がっていく。
やった、と言いかけて、やめた。
その向こう。もっと沖のほうで、白い骨板が、いくつも水を切っている。近づいては、こない。ただ、こっちを見ているみたいに、ぐるぐる回っていた。
様子を見てやがる。魚が。
小舟の男は、ナジと名乗った。二十歳にはまだ届かない、日に灼けた海の民の若者だ。引き上げてやったあとも、しばらく口をきけずにいた。
カイアの村は、島の南の入り江に、貝殻みたいにへばりついていた。
石を積んだ低い家。魚を吊るす棚。棚には、何も吊るされていない。舟が何艘も浜に引き上げられて、底を上に向けたまま干からびている。
鯨号を入り江に寄せると、村じゅうの人間が浜へ出てきた。歓迎じゃない。半分は恐る恐る、半分は腹を空かせた目で、俺たちを見ている。
子どもの腕が、細かった。
その中から、女が一人、進み出た。
四十くらい。灼けた肌に、短く刈った髪。左腕に、肩から肘まで引きつれた古傷がある。目つきは、遺跡帰りのハンターと同じだ。
「マレナだ。この村の網元をやってる」
「クロウだ。ギルドから来た」
「ナジを助けてくれたと聞いた」
マレナは、俺の後ろで濡れねずみになっている若造をちらりと見て、それから深く頭を下げた。
「すまない。うちの馬鹿が、勝手に沖へ出た」
「馬鹿とはなんだよ、姉貴!みんな腹減らしてるから、おれが――」
「黙ってろ」
ぴしゃりと言われて、ナジが口をつぐんだ。
村の集会所で、干し草みたいに薄い茶を出された。それが、この村の精一杯のもてなしだった。
「海が変わりはじめたのは、半年前だ」
マレナは、椀を両手で包んだまま話しはじめた。
「最初は、魚が減った。次に、獲れる魚の形がおかしくなった。目が四つあるやつだの、鱗の下に骨板が生えたやつだの。売り物にならん。食えば、あたる」
半年かけて、じわじわ狂ってきた。
「それが、ひと月前から一気にひどくなった。喰らい魚――さっき、あんたが斬ってたやつだ。あれが群れで湧くようになった。漁に出れば、舟ごと食われる」
「さっきの、でかいやつも同じか」
「あれは」
マレナは、こともなげに言った。
「あれでも、まだ小せえほうだ」
俺は、茶を吹きそうになった。
夜が来た。
村の灯りは、数えるほどしかない。油も惜しいんだろう。俺は鯨号の甲板に上がって、黒い海を眺めていた。
隣に、ノアが立つ。
海に出てから、ずっとこの人形の様子がおかしい。何をするわけでもない。ただ、ふとした拍子に、水平線を見ている。長く。
「ノア」
「はい」
「なにか、思い出したか」
ノアは、少し黙った。
「わかりません。ただ、この匂いを、わたしは知っている気がします。潮の匂いではなくて、もっと下の、冷たい水の匂いを」
冷たい水。深いところの、水だ。
こいつの記憶の底には、海がある。それだけは、たぶん間違いない。
頭に手をのせようとして、やめた。かわりに隣へ並んで、同じ海を見た。しばらく、二人とも黙っていた。
海が、光った。
沖の、ずっと先。水平線の手前あたり。
海の中から青白い光がすうっと立ちのぼって、まっすぐな筋になって、夜空を薙いだ。二本、三本。音は、遅れて届いた。腹の底に響く、低い唸り。
甲板の手すりが、びりびり震える。
「なに、あれ」
上がってきたリルが、ぽかんと口を開けている。
浜のほうでは、村の連中がさっさと家へ引っ込んでいく気配がした。慣れてるんだ。毎晩なんだろう。
「あれが、あんたらの言う沖か」
浜から上がってきたマレナに、俺は聞いた。
彼女は、光の筋を見上げたままうなずいた。
「〈墓場〉さ。沈んだ船の墓場だ。じいさんの、そのまたじいさんの代からある。ずっと、死んだみたいに静かだった」
「ひと月前までは?」
「そうだ。ひと月前の夜、いきなり海が光った。それから毎晩、撃ってくる。何を撃ってるのかも、わからん」
マレナの声が、低くなる。
「わかってるのは、もう沖へ出られないってことだけだ。船を出せば、あの光に沈められる。漁場は、あの向こうだ。だから、うちの村は、もう終わりなんだよ」
終わりなんだ、とこの女は言った。
海に食われて、海に撃たれて、それでもこの村は、海しか持っていない。
俺は、沖で明滅する青白い光を見ていた。
規則正しい。生き物の光じゃない。あれは、機械の光だ。誰かの命令を、律儀に、一万年、実行し続けている光だ。
また、お前か。
塔の心臓も。砂の底の頭脳も。呼ばれて起きて、それしか知らないまま、馬鹿正直に仕事を続けていた。
「ノア。海の底の“死んだ船”ってのは、どのくらい深く沈んでるもんだ」
「あの光の規模でしたら、百から二百メートルほどかと」
「船殻を強化すれば、潜れるか?」
ノアが、ぴくりと動きを止めて、それから静かに微笑んだ。この人形は、俺がろくでもないことを言い出すときの顔を、先回りして知っている。
「〈星滴〉を使えば。あとは、この村の船大工の手を、少しお借りできれば」
「よし」
俺は立ち上がって、伸びをした。塩でごわごわになった髪を、がりがり掻く。
化け物魚がうじゃうじゃいる海。夜ごと光を撃ってくる、沈没船の墓場。その向こうに、村の生き死にがかかった漁場がある。そして、たぶん、そのもっと底に、この海を狂わせている本当の元凶が沈んでいる。
「潜るぞ、二人とも」
「え、鯨号で!?」
リルの声が、ひっくり返った。
「沈むよ!? っていうか、あたし泳げないんだけど!」
「安心しろ。潜るんだから、泳がなくていい」
「なにその理屈!」
ノアが、口元に手を当てて笑っている。
沖では、まだ青白い光が、規則正しく夜を裂いていた。
一万年、ご苦労なこった。
その仕事、そろそろ終いにしてやる。




