第37話 灯りの夜
その晩、アステライアは祭りだった。
街じゅうの通りに、色とりどりの灯籠がぶら下がっている。夜だってのに、昼間みたいに明るい。屋台がずらりと軒を連ねていた。焼けた肉の匂いがする。甘い菓子の匂いもする。それが風に乗って、鼻先をくすぐった。どこかで、笛と太鼓が鳴っている。人波が川みたいに、通りをゆっくり流れていく。
俺たちも、その流れに身を任せた。宿でだらだらするのも悪くはなかった。だが、リルがどうしても行きたいと聞かなかったのだ。まあ、たまにはこういうのも、いいもんだろう。砂ばかりの日々の、いい口直しだ。
「うわあ、すごい!ねえクロウ、あれ何?あの、光ってる飴!」
リルが俺の袖をぐいぐい引っ張った。目がそこらの灯籠より、よっぽどきらきらしている。祭りとなると、こいつのはしゃぎっぷりは手がつけられない。まるで子どもだ。
「わかったわかった。買ってやるから、そう引っ張るな。腕が取れちまう」
串に刺した飴細工を、一本買ってやった。リルは満面の笑みで、それを高く掲げる。灯りに透かすと、赤い飴が宝石みたいにきらめいた。
「見て見て、すっごくきれい!」
「ああ。まあ、お前が持つと、なおさら映えるな」
つい、口が滑った。言ってから、しまった、と思う。リルがきょとんと目を丸くした。それから、ぼっと頬を赤く染める。
「な、なにそれ。クロウ、今日、なんか変だよ」
「……祭りの空気に、あてられたんだよ。忘れろ」
柄にもないことを言うもんじゃない。俺はばつが悪くなって、そっぽを向いた。
「ふふ。ご主人様も、たまには素直でいらっしゃいますね」
隣で、ノアが口元を隠して笑っている。こっちの失言を、しっかり聞かれていたらしい。まったく、逃げ場がない。
三人で、賑やかな人混みをぶらぶら流した。
金魚すくいの屋台で、リルが童心に返った。真剣な顔で、網を構える。だが、あいつは不器用だ。ものの数秒で、網を破いてしまった。「あーっ!」と、悔しそうな声を上げる。その様子が、なんとも可笑しくて、俺は思わず吹き出した。射的みたいに狙って撃つのは得意なくせに。こういう細かい手仕事は、からきしらしい。
次は、綿菓子の屋台だ。リルが雲みたいにでかい綿菓子を買った。嬉しそうに頬張る。口の周りを、べたべたにしながら。ノアが苦笑して、手ぬぐいでそれを拭いてやった。まるで、聞かん坊の妹の世話を焼く姉さんだ。
こういう、なんてことのない時間が、俺は嫌いじゃなかった。攻略すべき遺跡もない。襲ってくる化け物もいない。ただ、灯りの下を、気の置けない連中とあてもなく歩く。それだけのことが、やけに贅沢に思えた。砂漠の、あの水も飲めない心細い夜を思えば、なおさらだ。人ってのは、失って初めて、当たり前のありがたさに気づく。我ながら、単純なもんだよ。
人波に押されて、ふと、リルが俺たちのそばを離れた。次の屋台が、気になったらしい。
しばらく、俺とノアだけが、通りの端に取り残される。
灯籠の淡い光がノアの横顔をやわらかく照らしていた。いつもの、穏やかな微笑み。だが、祭りの灯りのせいだろうか。今夜のノアはいつもより少しだけ大人びて見えた。綺麗だ。そう、素直に思った。
「ご主人様」
ノアがぽつりと口を開いた。
「わたし、こうしてあなたとお祭りを歩ける日が来るなんて。拾っていただいた頃は、思ってもいませんでした」
「なんだよ、藪から棒に」
「あの頃のわたしは、自分が何者かもわからなくて。ただ、ずっと途方に暮れていました。行く当てもない。生きる意味もわからない。そんなわたしを、あなたは何も聞かずに拾ってくださった」
ノアの声は、いつもよりずっとやわらかい。
「それが今は、こんなに賑やかな場所で、あなたとリルさんと笑っている。……幸せだな、と。ふと、そう思ったんです」
俺はなんだか無性に面映くなって、頭をがしがし掻いた。こういうとき、気の利いた返しの一つもできやしない。
「大げさだな。ただの、そこらの祭りだぞ」
「ええ。ただの祭りです。でも、そのただの祭りが、わたしには宝物みたいに思えるんです。あなたのそばにいられる。それだけで、わたしは、じゅうぶん幸せなんです」
ノアはそこで少しだけ頬を染めた。それから、まっすぐに俺を見て微笑む。
その笑顔を真正面から向けられて、俺は柄にもなく、胸の奥がとくんと跳ねた。灯りのせいだ。祭りの、浮ついた空気のせいだ。俺は必死で、自分にそう言い訳した。だが、その言い訳が、あんまり役に立っていないことも、うすうす、わかってはいた。困ったもんだ。この歳になって、初心な小僧みたいじゃないか。
と、そこへ。
綿菓子を食べ終えたリルがぴょこんと戻ってきた。
「二人とも、なに話してたの?」
無邪気に、そう聞いてくる。ノアが慌てて、俺から少し距離を取った。
「い、いえ。なんでもありませんよ。ねえ、ご主人様」
「あ、ああ。なんでもない。次は、どこ行くかって話だ」
リルが俺とノアの顔を、じっと見比べた。それから、少しだけ、頬を膨らませる。
「なーんか、あやしい。二人だけ、ずるいよ」
勘のいいやつだ。だが、こういうのは、鈍いふりをするに限る。俺はわざとらしく話を逸らした。
「ほら、あっちで、火吹きの大道芸をやってるぞ。見に行くか」
「わっ、見る見る!」
リルの機嫌は、あっさり直った。こういう単純なところが、こいつの取り柄だ。
広場の真ん中で、大道芸人が松明を振り回していた。口に含んだ油を、ぶわっと噴く。炎が夜空に、大きな花みたいに咲いた。見物人から、わあっと歓声が上がる。リルも目を輝かせて、手を叩いた。
「すごいすごい!クロウ、見た今の?」
「ああ、見たよ。派手なもんだな」
炎に照らされたリルの横顔。その隣で笑うノアの顔。二人とも、心底楽しそうだった。俺はそのことが、なんだか無性に嬉しかった。この二人が笑っていられる。それだけで、砂の底で泥まみれになった甲斐もあったってものだ。こんな夜が、ずっと続けばいい。柄にもなく、そんなことを思っちまった。
その、和やかな空気を。
突然、断ち切る声が、割り込んできた。
「これはこれは。ずいぶんと、楽しそうな夜ですねえ、黒衣の」
聞き覚えのある、涼しい声だった。
振り返る。人混みの中に、一人、黒い外套の男が立っていた。仕立てのいい服。革の手袋。そして、あの薄っぺらい笑み。
クレイスだった。
背筋がすうっと冷えていく。カルナフで、砂の底に置き去りにしてきたはずの男が。よりにもよって、なぜ、この街にいる。
「あんた……なんで、こんなところに」
「ご挨拶ですねえ。決まっているでしょう。あなた方を、はるばる追ってきたんですよ」
クレイスは悪びれもせず、にやりと笑った。見れば、その周りには、いつのまにか、揃いの装束の連れが数人。祭りの人波にさりげなく紛れて、じわりと、俺たちを取り囲みつつある。
俺はさっと、リルとノアを背にかばった。祭りの浮かれた空気は、もう、どこかへ吹き飛んでいた。
「単刀直入に、申し上げましょうか」
クレイスが手袋をはめた手を、すっと差し出す。
「あなたが、カルナフから持ち帰った、あるもの。あの、演算核の欠片を、我々に譲っていただきたい。もちろん、ただでとは言いません。正当な対価は、お支払いします。あなたが、一生、左うちわで遊んで暮らせるだけの、ね」
叡核のことだ。ボズが、命がけで隠せとあれほど念を押した、あの結晶。やっぱり、こいつは、とっくに嗅ぎつけていたのだ。
「断る、って言ったら、どうする」
「おや、おや。もっと賢明な方だと、思っていたのですがね」
クレイスの目が笑みの形のまま、すっと冷たく細くなる。
「ご覧の通り、これだけの人混みだ。もし、ここで、何か不幸な事故でも起きれば。巻き込まれるのは、あなた一人では済まないかもしれませんよ。たとえば、そこのお美しいお嬢さんや。あちらで、無邪気にはしゃいでいる、銀髪のお嬢さんがね」
脅しだ。それも、ノアとリルを、露骨に引き合いに出しての。
かっと、頭に血が上りかけた。手が勝手に、腰の黒鴉へ伸びる。
だが、俺はその手をすんでのところで止めた。
ここで下手に暴れれば、何の関係もない祭りの客たちを、巻き込んじまう。こいつは、それを百も承知で言ってるのだ。周りの人混みを、まるごと盾にしてやがる。反吐が出る。だが、こいつの言う通り、迂闊には動けなかった。
「ずいぶんと、汚い手を使うんだな」
「必要な手段を、選んでいるだけですよ。感傷は、捨てました。あなたのように、ね」
感傷を捨てた、か。あいつは、カルナフの核でも、そう言っていた。機械も人も、ぜんぶただの道具。そういう生き方を、この男は選んだのだ。俺には、まっぴらな生き方だった。
「一つ、言っておく」
俺は低い声で言った。
「結晶は、渡さない。金がどうこうって話じゃない。あれは、一万年も独りで頑張った奴が、最後に遺したもんだ。あんたみたいな男の、玩具にされてたまるか」
クレイスの眉がぴくりと動いた。
クレイスが一歩、詰め寄ってくる。連れの男たちも、じり、と包囲の輪を縮めた。
俺はリルとノアを、じりじりと背にかばいながら、必死に頭を回転させた。
どう、切り抜ける。この人混みの中で、こいつら全員を、どう相手取る。しかも、仲間を、一人も傷つけさせずにだ。
打つ手がなかなか見つからない。じわじわと、追い詰められていく。冷や汗が、背中を伝った。
その、時だった。
クレイスの、すぐ背後の暗がり。そこで、何かが、ぎらり、と鋭く光った。




