第34話 水の還る街
地上へ戻ると、ハザルの空気が変わっていた。
あの、砂と汗と苛立ちの匂いが薄れている。代わりに、どこか湿った土の匂いがした。門をくぐって、俺は思わず足を止めた。
街の真ん中の池。底の浅い水たまりだったはずのそれが、なみなみと水を湛えている。乾いてひび割れていた泥は、もうどこにもない。青い水面が日差しを受けて、きらきらと光っていた。
水際では、隊商の男たちが、痩せた獣にたらふく水を飲ませてやっていた。この街に着いた日、逃げ出すように去っていった連中だ。街に水が戻ったと噂を聞いて、また舞い戻ってきたんだろう。中継地の賑わいが、少しずつ、戻り始めていた。
地の底の街が水を飲むのをやめて、まだ半日も経っちゃいない。なのに、もうこれだ。地下の水脈ってのは、思ったよりずっと元気だったらしい。
「水だ!水が戻ったぞ!」
誰かが叫んだ。井戸の周りに、人がわらわらと集まってくる。汲み上げた水を、みんなで頭からかぶっている。子どもらが、水たまりではしゃぎ回っていた。あちこちで、笑い声と泣き声が上がる。渇きに怯えていた街が、みるみる生き返っていった。
人混みの中に、見覚えのある顔があった。街に着いた日、なけなしの一杯を売ってくれた、あの水売りの婆さんだ。今日は、桶に汲んだ水を、道行く子どもらに、ただで配って回っている。俺と目が合うと、皺だらけの顔で、にっと笑った。
「あんたらの仕業かい、余所者さん」
「さあな。俺たちは、ただ下を見てきただけだ」
「ふん。とぼけるのも、大概におし」
婆さんはそう言って、俺の手に、湿らせた布を一枚握らせた。乾いた顔でも拭け、ということらしい。粋な礼のしかたも、あったもんだ。
「黒衣殿」
声をかけてきたのは、神官長のザムドだった。あの頑固な、俺たちを罰当たり呼ばわりした爺さんだ。杖をつきながら、ゆっくり近づいてくる。
また神を穢したの何のと怒鳴られるのかと、俺は身構えた。
けど、ザムドは俺の前で、深々と頭を下げた。
「許せ。儂が、間違っておった」
絞り出すような声だった。
「地の底の声を神と崇めて、疑いもしなかった。あれが、ただの機械の悲鳴だったとも知らずにな。お前たちが降りてくれなんだら、この街は神の名のもとに、干からびて死んでおった」
「頭を上げてくれよ、じいさん。あんたは、あんたなりに街を守ろうとしてただけだ」
年寄りに頭を下げられるってのは、どうにも据わりが悪い。
「あんたが祈りにこだわったのも、水を求めた若いのが正しかったのも、どっちも街のためだろ。だったら、誰も間違っちゃいない」
ザムドはしばらく黙っていた。やがて皺だらけの顔をくしゃりと歪めて、笑った。
「そうさな。そうかもしれん」
その後ろで、掘削を訴えていた若い連中が、気まずそうに、けどどこかほっとした顔で立っていた。神を信じる年寄りと、水を求めた若者。長いこといがみ合ってきた両方が、今は同じ水を、一緒に浴びている。いい眺めだった。
サラが、池のほとりにひとりで立っていた。水面をじっと見つめている。俺はその隣に腰を下ろした。
「声、もう聞こえないか」
「……はい」
サラは静かに頷いた。
「生まれたときから、ずっと聞こえてたんです。地の底の、あの声。うるさいくらいに。それが、ぷっつり消えて。静かすぎて、寂しいくらいで」
少し笑った。けど、その目は潤んでいた。
「でも、あの子は、やっと眠れたんですよね。一万年も独りぼっちで頑張って。もう、いいって、言ってもらえて」
「ああ。お前が最後まで、あいつの痛みを聞いててやったからな」
俺はサラの頭に、ぽんと手を置いた。
「あいつは独りで目覚めて、独りで働いて、独りで眠るはずだった。けど最後に、お前がいた。ありがとうって言える相手がいた。あいつは、幸せだったよ」
サラの目から、ぽろりと涙がこぼれた。今度は、拭わなかった。
「これから、どうするんだ。お前の“聞く力”は、あの声が消えて、行き場をなくしたんじゃないか」
俺が訊くと、サラはゆっくり首を振った。
「いいえ。地の底の声は消えても、この街の人たちの声は、まだ聞こえます。誰が困ってるか、誰が我慢してるか。わたし、そういうのを聞き逃さない神官になります。神さまの代わりに、みんなの声を聞く。それが、あの子から受け継いだ役目だと思うから」
しっかりした目だった。ついこの間まで、神官長の陰でおどおどしてた娘とは思えない。人ってのは、一晩でこうも変わるものらしい。
その夜。街の外れに鯨号を出して、俺たちは久しぶりに、ちゃんとした夜を過ごした。
ノアが、あの拳ほどの結晶を灯りにかざして、しげしげと眺めている。
「これは、とんでもないものですよ、ご主人様」
その声が、少し上ずっていた。珍しい。
「星滴が力の塊なら、こちらは、いわば叡智の塊です。旧文明がものを考えるために造った、演算の核。その、ほんのひとかけら。星滴とは価値の種類が違いますが、値打ちで言えば、決して劣りません。欲しがる者にとっては、星滴以上でしょう」
「財団が血眼になるわけだ」
「ええ。迂闊に売れば、間違いなく命を狙われます。ですが」
ノアは、いたずらっぽく微笑んだ。
「使い道は、こちらにもあります。少しだけ拝借すれば、鯨号の解析装置と、黒鴉の“声を聴く”力を、一段引き上げられますよ」
言うが早いか、ノアは結晶のかけらを、慣れた手つきで解析装置に組み込んでいく。しばらくして、装置の盤面に、今まで見たこともない細かな文字の列が、すらすらと流れ始めた。旧文明の言葉を、少しずつだが、読み解いているらしい。
「便利なもんだな」
「ええ。次の遺跡では、扉ひとつ開けるのにも、頭を抱えずに済むかもしれません」
頼もしいメイドだ。拾ってきた宝を、ちゃっかり自分たちの力に変えちまう。
結晶をノアに預けて、俺は甲板に出た。
リルが先に来ていた。手すりにもたれて、砂漠の夜空を見上げている。星が、降ってきそうなくらい出ていた。
「隣、いいか」
「うん」
しばらく、二人で黙って星を見た。
「ねえ、クロウ」
リルがぽつりと口を開いた。
「あたし、あのとき、変なもの見たんだ。鍵が光ったとき」
「白い天井と、やわらかいベッド。誰かが手を握って泣いてた、ってやつか」
リルが驚いたように俺を見た。
「聞こえてたの?」
「ああ。うわ言みたいに言ってたぞ。あれ、お前の昔の記憶なんだろうな」
リルはこくりと頷いて、膝を抱えて小さくなった。
「わかんないんだ。誰だったのか。なんで泣いてたのか。掴もうとすると、すぐ消えちゃう。あたし、ほんとは何者なんだろうね」
心細げな声だった。
「さあな。けど、ひとつだけ確かなことがある」
「なに?」
「その鍵は、旧文明の街を動かした。ってことは、お前はあの一万年前の連中と、どこかで繋がってる。とんでもない秘密を、抱えてるのかもな」
「脅かさないでよ」
「最後まで聞け。だから、いつかその秘密を、必ず突き止めてやる。お前が何者だろうと、関係ない。今のお前が、俺たちの大事な相棒だ。それは、何があっても変わらない」
アガートラのときも、同じことを言った。一緒に探してやる、と。
リルはしばらく俺の顔を見ていた。やがて、ふにゃりと笑う。心細げな色は、もう消えていた。
「うん。ありがと、クロウ」
そう言って、俺の肩に、こつんと頭を預けてくる。ほんの少しだけ。すぐに、恥ずかしくなったみたいに離れた。
「あ、見て。流れ星」
砂漠の空を、光の筋が、すうっと横切った。
「願いごと、しなきゃ。……でも、たぶん、もう叶ってるやつ、かな」
リルは、いたずらっぽく笑った。何を願ったのかは、聞かないでおいた。野暮ってもんだ。
入れ替わりに、ノアが甲板へ上がってきた。温かい茶を二つ持っている。ひとつを俺に手渡した。
「リルさんは?」
「もう寝た。星を見てたら、安心したみたいでな」
ノアは微笑んで、俺の隣に腰を下ろした。二人で、湯気の立つ茶をすすった。砂漠の夜は冷える。温かいものが、腹に染みた。
ふと、ノアが胸元に手をやった。
その指の先で、何かがほんの一瞬、淡く光った気がした。リルの鍵と同じ、青白い色で。けど、それは瞬きするより早く消えた。
「どうした?」
「いえ。なんでもありません」
ノアは穏やかに微笑んだ。けど、その奥に、ほんの少しだけ、俺の知らない遠い何かが揺れた気がした。
このメイドも、拾ったときから謎だらけだ。旧文明の機械の声を聴き、その体は人形みたいに歳を取らない。リルの鍵に、こいつの何かが応えたのだとしたら。
けど、俺は聞かなかった。話したくなったら、そのとき聞けばいい。それまでは、俺の大事なメイドで、相棒だ。それで、十分だった。
茶を飲み干して、俺は夜空を見上げた。
地の底で聞いた、あの信号のことが、頭の隅に引っかかっていた。誰かが、眠った機械を片端から揺り起こしてる。アガートラでも、ここでも。まるで大陸じゅうの古いものが、一斉に目を覚まそうとしてるみたいに。
その“誰か”が、白い影だとしたら。人こそが災いだと断じた、あれだとしたら。厄介な話だ。けど、それもいつか、向き合うことになるんだろう。
まあ、今夜はいい。水は戻った。街は助かった。リルは笑ってる。ノアは隣にいる。それで、じゅうぶんだ。難しいことは、腹が満ちてから考えりゃいい。
「なあ、ノア。次は、どこへ行こうか」
ノアは、楽しそうに目を細めた。
「そうですね。海なんて、どうでしょう。ずっと砂ばかりでしたから、たまには水平線が見たくなりました」
海、か。潮の匂いってのも、たまには乙なもんだ。次の風は、そっちから吹くらしい。
砂漠の夜空の下で、俺は久しぶりに、明日が待ち遠しくなっていた。




