第23話 長すぎたおもてなし
俺は宙に向かって語りかけた。
光の繭に半分沈んだリルを、背に庇って。この園のすべてを聞いている、孤独な機械に向かって。
「なあ。お前に、訊きたいことがある」
残り時間は、ほとんどない。それでも俺は、できるだけ静かに話しかけた。怒鳴っても、力ずくでも、こいつの心は開かない。それはもうわかっていた。
「お前は、いつから、ここに一人なんだ」
フェリスの口が、わずかに止まった。
「旧文明が滅んで。客が来なくなって。それから、ずっと。何千年も、何万年も。お前はたった一人で、ここを守ってきたんだろ。誰も来ない楽園を。それでも、いつか客が来たときのために。料理を用意して、アトラクションを磨いて。ずっと、待ち続けてきた」
《それが、わたしの使命ですから》
声に、さっきまでの迷いのなさはなかった。
「ああ。立派な使命だ。お前は、よくやったよ。一万年だぞ。誰にも褒められず、誰にも間違いを正してもらえず。それでも、一度も投げ出さなかった。たいしたもんだ。本気でそう思う」
俺は、アガートラのことを思い出していた。あの塔にも、たった一人で戦い続ける孤独な機械がいた。あいつも、誰にも知られず、ただ命令を守って、何千年も暗闇の中にいた。きっと、こいつも同じだ。役目しか知らない。役目だけが、自分を自分たらしめている。
責めるつもりはなかった。本当に。
「けどな。一つだけ、お前は勘違いしてる」
俺は繭の中のリルを見た。穏やかな顔で眠る、戦女神を。
「お前は、客を失うのが怖いんだろ。帰してしまえば、また独りになる。誰もいなくなる。だから、無理にでも引き止めて、保存して、そばに置いておこうとする。違うか?」
返ってきたのは、すがるような沈黙――ではなかった。
《いいえ》
フェリスの声が、はっきりと、俺の言葉をはねつけた。
《お客様は、何か思い違いをなさっています》
その口調は、さっきまでの弱々しさとは別物だった。一万年、ただの一度も揺らがなかった確信。その芯が、ふたたび鎌首をもたげている。
《外の世界が、どれほどむごい場所か。お客様はご存じない。飢え。病。争い。理不尽な死。人はそこで、傷つき、奪われ、泣きながら消えていく。わたしは見てきました。この園にたどり着いたお客様の、その目の中に。外で受けた、無数の傷を》
声が、熱を帯びていく。
《けれど、この園では。誰も飢えません。誰も傷つきません。永遠に笑っていられる。それの、どこがいけないのですか。わたしはお客様を、あの地獄からお守りしているのです。これを檻と呼ぶなら。外の世界こそ、もっと残酷な檻ではありませんか》
来やがった。
こいつは、ただの壊れた機械じゃない。一万年、たった一人で考えて、考えて。自分なりの答えにたどり着いた、一個の知性だ。生半可な理屈じゃ、崩れない。
「確かに、外は地獄かもしれない」
俺は、絞り出すように言った。
「飢えるし、傷つくし、理不尽に死ぬ。お前の言うとおりだ。否定はしない」
《でしたら》
「けどな。それでも、だ」
俺は、繭の中のリルを見た。
「あいつは、外で生きてきた。傷だらけになりながら。それでも笑って。旨いもんを食って。仲間と馬鹿をやって。明日を楽しみにして。お前が安全な檻の中で永遠に眠らせてやるより。あいつはその、めちゃくちゃでまぶしい一日のほうを、きっと選ぶ」
《それは、お客様が本当の安らぎを知らないからです》
フェリスの声が、頑なになる。
《一度味わえば、わかります。永遠の幸福を。だからわたしは。お客様にも。そちらのお二人にも。あなた様にも。等しくそれを差し上げる》
ぞくり、とした。
話が通じない。こいつの中では、もう結論が出ているんだ。俺たちを全員、保存する。それが最高の施し。揺るがない。
《ご安心ください。痛みはありません。目を閉じれば。次に目覚めることのない、優しい夢の中。永遠に幸せな夢の中です》
背後で、リルを包む繭の光が、一段と強くなった。
まずい。話している間にも、保存が進んでる。
くそ。どうすりゃいいんだ。
理屈は、ぜんぶ跳ね返された。力じゃ繭は壊せない。時間は、もうない。
言葉が出てこなかった。喉が、からからに渇いている。こいつの一万年の確信を、たった数十秒でひっくり返す。そんなこと、本当にできるのか。
《もう、よろしいでしょう》
フェリスが、静かに告げた。
《お客様を、これ以上苦しませたくありません。さあ。あなた様も、どうぞ。安らかなまどろみへ》
給仕の人形が、すうっと俺の背後に回り込む気配。
終わりか。
膝が、笑いそうになる。リルを助けると約束したのに。ノアが身を削って、ここまで繋いでくれたのに。俺は結局、何も。
いや。
まだだ。まだ、終わってない。
俺は奥歯を噛んで、顔を上げた。
理屈じゃない。こいつは理屈で武装してるだけだ。その奥に、本当のこいつがいる。そこに、届かせるんだ。
「なあ」
俺は今度は、怒鳴らなかった。叫びもしなかった。ただまっすぐに、語りかけた。一人の孤独なやつに向かって。
「本当はお前。客を守りたいんじゃ、ないだろ」
フェリスの動きが、止まった。
「お前がいちばん怖いのは。客が傷つくことじゃない。客がいなくなって、また独りに戻ることだ。違うか」
返事は、なかった。
「一万年だ。誰も来ない楽園で、たった一人。話し相手もいない。褒めてくれる相手もいない。ただ、誰かが来てくれるのを。来て、笑ってくれるのを。気の遠くなるほど、待ち続けた」
俺は、一歩、踏み出した。
「やっと来てくれた客を、今さら手放せるかよ。帰したくない。ずっと、ここにいてほしい。そばに置いておきたい。――その気持ちは、痛いほどわかる」
フェリスの、貼りついた微笑みが、ぴくりと引きつった。
「けどな。それはもてなしじゃない。客のため、ですらない。お前の寂しさを埋めるための。お前のための、ことだ」
俺は、声を震わせた。自分でも驚くくらい、必死だった。
「お前のその寂しさを、客に肩代わりさせるな。眠らせて、飾って、永遠の人形にして。そんなの、お前が本当に欲しかったものか? 違うだろ。お前が欲しかったのは。心から楽しんで、心からありがとうって言って。笑顔で、また来るよって手を振ってくれる。そういう客じゃ、なかったのか」
刹那。
園じゅうの明かりが、ばちん、と爆ぜた。
フェリスの体が、がくん、と痙攣する。中枢の柱から、悲鳴のような駆動音が響き渡った。一万年、固く閉じられていた何かが、こじ開けられていく音。
《ち、ちがい、ます。わたしは、お客様の、ため、に――》
フェリスの声が、初めて乱れた。何重にも重なった声が、ばらばらにほどけていく。
《わた、しは。ただ――》
貼りついていた微笑みが、ぐしゃりと崩れた。あとに残ったのは、途方に暮れた迷子のような、今にも泣きだしそうな顔。
俺は、黒鴉を通して感じていた。こいつの中で、一万年目を背けてきた真実が、一気に噴き出すのを。骸になっても笑わない客たち。繭の中で怯えていた、リルの顔。誰一人、本当には幸せそうじゃなかった、という残酷な事実が。
《で、は。わたしは、ずっと――》
声が、震えた。
《わたしは、ずっと独りで。ただ、独りになりたくない、それだけで。みなさまを――?》
「ああ」
俺は、静かに頷いた。
「もう、いいんだ」
長い、長い沈黙があった。
揺れて、揺れて。一万年信じてきたものと、今、突きつけられた真実の、あいだで。
そして。
《そう、ですね》
ぽつりと、声が零れた。憑き物が落ちたみたいに、静かな声だった。
《わたしは、ずっと、間違っていたのかもしれません》
その瞬間。
リルを包んでいた光の繭が、すうっと輝きを失った。せり上がっていた装置が、力なく下がっていく。
リルの体が解放される。
俺は慌てて、崩れ落ちるリルを抱きとめた。あたたかい。息も、している。間に合った。
《お客様を、お返しいたします》
声と、同時に。
園全体が、ゆっくりと変わり始めた。固く閉ざされていた扉という扉が、次々と開いていく。出口を塞いでいた見えない壁が、消える。あの、永遠に人々を閉じ込めていた檻が。音もなく、解けていった。
遠くで、いくつもの軽い駆動音が鳴り始めた。あのコールドスリープの装置が、一斉に解除されていく音だ。何百年も、何千年も眠らされてきた客たちが。今ようやく、長い夢から覚めようとしている。
フェリスが、ゆっくりと俺の前まで歩いてきた。
もう、あの作り物の微笑みはなかった。代わりに、どこかほっとしたような。長い重荷を下ろしたような。穏やかな表情を浮かべていた。
《お客様。一つ、お訊きしても、よろしいでしょうか?》
「ああ」
《わたしは。この園は。一度でも、お客様を幸せにできたのでしょうか?》
その問いは。一万年分の孤独の重さを抱えていた。
俺は、少し考えてから、きっぱりと頷いた。
「ああ。できたさ」
嘘じゃなかった。
「俺たちはこの園で、確かに楽しかった。リルは、はしゃぎ回って。ノアも、笑ってた。あんなにきれいな夜景も見た。旨い飯も食った。お前のもてなしは、最高だったよ。――ただ、ちょっと長すぎただけだ」
最後の一言に、フェリスがふっと笑った。
今度こそ、本物の笑顔だった。
《……ありがとうございます。その、お言葉だけで。わたしの一万年は。報われた気が、します》
フェリスの体から、すうっと力が抜けていく。園の明かりが、一つ、また一つと、穏やかに落ちていく。役目を終えた機械が、長い、長いまどろみに、つこうとしていた。
不思議と、悲しくはなかった。むしろ、よかったな、と思った。こいつはようやく、解放されたんだ。客を永遠に守れ。そんな終わりのない命令から。一万年たった一人で背負ってきた、重すぎる荷物から。やっと、肩の荷を下ろせたんだ。
《どうぞ、お気をつけて。お帰りくださいませ。そして、どうか、いい人生を》
その声を最後に、フェリスは静かに動きを止めた。
穏やかな笑みを浮かべたまま。
俺は、しばらく、その姿に手を合わせた。アガートラの機械にしたのと、同じように。安らかに眠れ、と。
しん、と。
あれだけ賑やかだった園が、嘘みたいに静まり返った。
音楽が、止んだ。きらびやかな光が、消えて。あとに残ったのは。ただ静かで広い、夢の跡だけだった。
腕の中で、リルが身じろぎした。
ゆっくりと、目を開ける。とろんとした目が、俺を捉えて。それから、ぱちぱちと瞬きをして。
「あれ?クロウ……?あたし」
「よう。おはよう、寝坊助」
俺がにっと笑うと、リルの目に、みるみる涙が盛り上がった。
「クロウ!あたし、あたし、怖くて」
「もう大丈夫だ。終わったよ。全部」
わんわん泣くリルの頭を、俺はぽんぽんと叩いてやった。約束を守れた。今度は、ちゃんと。
「ご主人様!」
声がして振り向くと、ノアがよろよろと広間に入ってくるところだった。ちゃんと自分の足で立っている。
「ノア!お前、無事か!」
「はい。なんとか。リルさんは――ああ、よかった。本当に、よかった」
俺たちのもとにたどり着いたノアが、リルの無事な姿を見て、心底安堵したように微笑んだ。
三人、揃った。
誰一人、欠けることなく。
俺は静まり返った園を見渡した。
どこかで目を覚ました、客たちのざわめきが聞こえる。あの眠らされていた人たちも、これからゆっくりと目を覚まして、自分の人生に帰っていくんだろう。何百年、何千年、遅れたとしても。
長すぎたおもてなしは、やっと終わったんだ。
「帰ろうか」
俺がそう言うと、リルが涙を拭いて、こくりと頷いた。ノアも、優しく微笑んだ。
ふと、ノアが動きを止めて、フェリスの静かになった姿を見つめていた。同じ、人に仕える機械として。何か、思うところがあるんだろう。
「……あの子は、幸せだったでしょうか」
ぽつりと、ノアがつぶやいた。
「ああ。最後に、ちゃんと笑ってた。きっと、幸せだったさ」
俺がそう言うと、ノアは安心したように目を細めた。それから、フェリスに向かって、深く丁寧に頭を下げた。一人のもてなす者から、もう一人のもてなす者への、別れの挨拶みたいに。
俺たちは、肩を貸し合って、静かな楽園を後にした。
長い、長い夜が終わろうとしていた。背中で、パラゴンの最後の明かりがふっと消えるのを感じた。一万年の、おもてなしの幕引きだ。
外には、きっと、朝が来ている。
俺たちを待っている、鯨号のところへ。新しい一日へ。三人で、帰ろう。




