第12話 凱旋とごちそう
その晩、鯨号の食堂は、かつてないほど賑やかだった。
長いテーブルの上に、ノアの手料理が所狭しと並んでいる。湯気を立てる肉の塊。こんがり焼けたパン。彩りのいい温野菜。見たこともない香草の効いた一皿。どれも、ため息が出るほど旨そうだ。
「さあ、どうぞ。今夜は、好きなだけ召し上がってください」
エプロン姿のノアが、にこにこと料理を運んでくる。アガートラであれだけの目に遭ったってのに、もうすっかり、いつもの調子だ。タフなやつだよ、まったく。
「うわぁ!なにこれ、ぜんぶ食べていいの!?」
リルが目を輝かせて、テーブルにかぶりついた。
「いいに決まってんだろ。今日の主役は、お前だ」
「あたし!?なんで!?」
きょとんとするリルに、俺はにやりと笑ってみせた。
「歓迎会だよ。お前の」
乾杯の音頭は、わざわざ顔を出してくれた、ギルドの支部長が取ってくれた。
灰色の髪に狼の耳の彼女は、片手に酒の杯、もう片方に子どもみたいな大盛りの皿を持って、すっかり上機嫌だった。
「あの塔を黙らせたんだ。これくらいの騒ぎは当然よ。ほら若いの、飲め飲め」
ほかにも、何人か顔見知りのハンターが混じってる。アステライアで、リルと組んだことのある連中だ。みんな、彼女があの塔から無事に戻ってきたことを、自分のことみたいに喜んでいた。
「リルちゃん、生きて帰ってよかったよ!あの塔に挑むって聞いたときは、正気か?って思ったもん」
「そうそう。あんた、無茶ばっかするんだから」
口々にそう言いながら、みんな嬉しそうに、彼女の肩を叩いていく。リルは、照れくさそうに頭をかいていた。
なるほどな。リルは、この街でちゃんと慕われてたんだな。一人で生きてきたみたいな顔して、ちゃんとこいつなりの居場所を作ってたんだ。
杯がぶつかる。笑い声がはじける。鯨号の狭いはずの食堂が、人の熱気でいっぱいになった。
料理は、飛ぶように消えていった。
とくにリルの食いっぷりは、見ていて気持ちがいいくらいだった。あの細い体のどこに入るんだか。皿が空くそばから、ノアが新しいのを運んでくる。
「クロウも、ぼーっとしてないで食べなよ!ノアさんのごはん、なくなっちゃうよ!」
「お前が食い尽くす勢いだからだろ」
「失礼な!あたし、まだ三皿目だし!」
「三皿目で、その台詞が出るのが、逆にすごいんだよ」
軽口を叩き合う。こんな、なんでもないやり取りが、やけに心地よかった。
「ノアさん、これ、すっごくおいしい!なんてお料理?」
「ふふ。旧文明の古い料理書を、再現してみたんです。お口に合ってよかった」
「天才!ノアさん、天才!」
べた褒めされて、ノアがまんざらでもなさそうに笑う。
俺も杯を傾けながら、その光景を眺めていた。
ついこの前まで、ノアと二人きりの、静かな旅だった。それが、リルが加わって。今夜は、こんなに人がいて。
悪くない変化だ。いや、ずいぶんいい変化だ。
「ご主人様も、ちゃんと召し上がってくださいね。お酒ばかりでは、お体に毒です」
いつのまにか、ノアが俺の皿にも、山盛りの料理をよそっていた。世話焼きは、相変わらずだ。
「わかってるよ。ん、うまい。やっぱ、お前の飯がいちばんだな」
「ふふ。光栄です」
夜が更けて、さんざん飲み食いした連中が、千鳥足で引き上げていった。支部長は別れ際に、リルの頭をぽんと一つ叩いて、「達者でな」とだけ言って帰っていく。
潮が引くみたいに、騒がしさが去っていった。
残ったのは、いつもの三人だ。
リルが、満腹でソファにぐでっと沈み込んでいる。ノアが、てきぱきと片づけをはじめた。俺は、食後の茶をすすっていた。
ふと、リルがぽつりと言った。
「ねえ、クロウ」
「ん?」
「あたし、ほんとに、いていいの?ここに」
その声は、さっきまでのはしゃぎようとは別人みたいに、静かだった。
「気まぐれで、ついてきちゃったけど。あたし、どこの誰かもわかんないし。足手まといかも、しれないし」
俺は、茶を置いた。
こいつ。あんなに笑ってたくせに。心の隅で、ずっとそんなこと考えてたのか。
寄る辺がない、ってのは、こういうことだ。どこにも帰る場所がない。誰も、自分を待ってない。そういう不安は、賑やかな夜のあとほど、ふいに胸を刺す。
「ばか言うな」
俺は、できるだけ軽い調子で言った。
「足手まといなら、あの塔でとっくに置いてきてる。お前がいなきゃ、勝てなかった。それに――」
言葉を切って、俺は食堂を見回した。片づけをするノア。空っぽになった皿の山。
ついさっきまでの、笑い声の余韻。
「ここはもう、お前の家でもあるんだよ。今さら出てけって言われても、困る」
リルが、ぱちぱちと瞬きをした。
「……家」
その言葉を噛みしめるみたいに、繰り返す。
「あたしの、家」
ノアも片づけの手を止めて、やわらかく微笑んだ。
「ええ。おかえりなさい、リルさん。これからは毎日、わたしのごはんが食べられますよ」
その一言で、こらえていたものが、決壊したらしい。
「……っ、う、うう」
リルの大きな目から、ぽろぽろと涙がこぼれた。慌てて、袖でぐしぐしこする。
「な、なんで泣いてんの、あたし。やだもう。お腹いっぱいで、気がゆるんだだけだ
から!」
強がる、その声が震えてる。
俺とノアは、顔を見合わせて笑った。
泣き虫だな、戦女神。
「わ、笑うな!もう!でも」
リルは、涙でぐしゃぐしゃの顔を上げた。さっきまでの不安は、もうどこにもない。代わりに、くしゃっと、子どもみたいな笑顔が咲いていた。
「ありがと。クロウ、ノアさん。あたし、ここにいる。ずっと、いるからね」
「ああ。いてくれ」
なんてことのない約束だった。けど、こいつにとっちゃ、たぶん、すごく大きなことなんだ。
リルが泣き疲れて、自分の部屋に引っ込んだあと。
「ご主人様。傷の手当てを、しましょう」
ノアが救急箱を手に、俺の隣に腰を下ろした。
そういえば、すっかり忘れてた。アガートラで、脇腹をやられたんだった。騒ぎのあいだは気が紛れてたけど、こうして静かになると、じくじくと痛みが戻ってくる。
シャツをめくる。脇腹に、横一文字の裂け傷。守護者のケーブルが、かすめた痕だ。血は、もう止まってる。
「無茶を、なさいますね」
ノアが傷を見て、小さく眉を寄せた。消毒液を含ませた布で、そっと傷口を拭っていく。少し、しみた。
「お前を助けるためだ。安いもんさ」
俺がそう言うと、ノアの手が、ほんの一瞬止まった。
「……わたしのために、ご主人様が傷つくのは。あまり、嬉しくありません」
その声が、いつものお姉さんの余裕とは、少し違った。
「あの心臓に操られているあいだ。わたしは自分の手で、ご主人様に刃を向けていました。あれが、ずっと頭から離れないんです」
包帯を巻くその手つきは、丁寧で優しくて、けど、どこか自分を責めるみたいだった。
俺は、その手に、自分の手をそっと重ねた。
「ノア。お前はあの土壇場で、命令をぶち破って俺を助けた。刃を止めたのも、お前の意志だ。お前は最後まで、俺の味方だったよ」
ノアが、顔を上げる。黒い瞳が、すぐ近くで揺れていた。
「だから、もう気に病むな。お前のせいじゃ、ないんだから」
ノアの長いまつ毛が、かすかに震えた。何か言いかけて、けど言葉にならないみたいに、唇を結ぶ。
いつも誰かの世話を焼いてばかりのこいつが、こんなふうに自分の弱いところを見せるのは、珍しい。記憶を失くして寄る辺がないのは、リルだけじゃない。ノアだって、本当は同じなんだ。仕えるべき主を失くしたまま、それでも、誰かに尽くさずにはいられない。
しばらく、ノアは黙って俺を見ていた。
それから、ふっと肩の力を抜いて、いつもの穏やかな顔に戻る。
「はい。ありがとうございます、ご主人様」
巻き終えた包帯を、ぽん、と軽く叩いて。
「では、もう無茶はなさらないように。次にご主人様がこんな傷を作ったら――今度は、わたしが本気で叱りますからね」
いたずらっぽく笑う、ノア。
ああ、これだ。この顔が、いい。
「善処する」
「あら。約束は、してくださらないんですね」
くすくす、とノアが笑った。
窓の外では、アステライアの夜景が瞬いている。遠くから、まだ酔っ払いの上機嫌な歌声が、聞こえてきた。
明日からは、また考えなきゃならないことが、山ほどある。動力炉の核のこと。ノアと、リルの記憶のこと。塔が遺した、〈白〉の謎。
でも、それは明日でいい。
今夜はただ、仲間が一人増えて、ちょっと家が賑やかになった。その温かさを噛みしめながら、眠ろう。
隣の部屋からは、もう、リルの寝息が聞こえてくる。よっぽど疲れたんだろう。それとも、ようやく安心したのかもな。帰る場所が、できて。
俺は、茶の最後の一口を飲み干して、小さく伸びをした。




