第八章 欲しいものの話、あるいは声が上ずること
花野原の道が、しばらく行くと少し下りになった。
下りといっても急ではなく、気づいたら低いところにいた、という種類の下りだった。草の丈が少し高くなって、風が弱くなって、気温が少しだけ上がった。
「近い?」エリィはそのものの背中に聞いた。
「近い」
「どのくらい」
「もうすぐ」
「もうすぐというのは、一般にどのくらいですか」
「一般は関係ない」
エリィはその答えをひとまず受け取って、歩き続けた。カエルが後ろで枝を踏んで音を立てた。ヴェルト師は音を立てなかった。老人が歩くと草が避けるような気がした。気のせいかもしれなかった。
扉があった。
野原の中に、唐突に。
枠だけがあった。建物がない。壁もない。ただ石の枠だけが立っていて、その中に扉がはまっていた。木の扉で、古く、表面に文字のようなものが彫ってある。読めない文字だった。でも触ると、また、指先に何かが伝わってくる気がした。熱さでも冷たさでもない、もっと別の。
「開けるのか」カエルが言った。
「開けてみなければわからない」エリィは言った。
「また同じことを言う」
「同じ状況なので」
カエルは何か言いかけて、やめた。
エリィは扉に手をかけた。さっきの扉より軽かった。するりと開いた。
中は、部屋だった。
小さな部屋だった。
石の壁。石の床。天井は低く、蝋燭が三本だけ燃えていた。大聖堂ほどの広さも荘厳さもない。ただ、四方の壁が本棚になっていた。
床から天井まで。
本が、並んでいた。
大きいもの、小さいもの、厚いもの、薄いもの。背表紙に文字があるものも、何も書かれていないものも。古いものも、新しいものも。どう分類されているのかわからなかった。でも整然としていた。乱雑ではなく、ただ、人間の分類方法とは別の順序で並んでいた。
エリィはしばらく入口に立って、部屋を見回した。
腹が減っているのを、忘れた。
そのものが棚の前を歩いた。一度止まった。また歩いた。また止まった。棚を見上げて、少し首を傾けて、また歩いた。何かを探しているようでも、ただ確かめているようでも見えた。
それから一冊を抜いた。
大きくなかった。薄くもなかった。普通の本だった。革の表紙で、飾りはなく、背表紙にも何も書かれていなかった。古い。でも傷んでいない。
そのものがエリィを振り返った。
「これでしょ?」
差し出してきた。
エリィは本を見た。何も書かれていない表紙を見た。
見た瞬間に、わかった。
わかった、というのが正しいかどうかわからなかったが、何かが胸の中で動いた。鐘が鳴ったわけではなく、光が走ったわけでもなく、ただ、動いた。
エリィは手を伸ばしていた。考えてから伸ばしたのか、先に手が動いたのか、後から考えても判断できなかった。
本が、手の中にあった。
重くなかった。温かくもなく、冷たくもなかった。ただの本の感触だった。でも持った瞬間に——
これだ。
という感覚があった。
名前のない問いに名前がついた瞬間のような。答えではなく、問いそのものが形になった感覚だった。今まで一晩中考えても届かなかったものたちが、全部、この中にある。
「え」とエリィは言った。
それから一拍遅れて、「……ええ」と言った。
自分の声が少し高いことに、言ってから気づいた。
「隠してるつもり?」
そのものが言った。怒ってはいなかった。少し、意外そうだった。
「隠していません」エリィは言った。「ただ」
「ただ?」
「……声が上ずっていましたか」
「上ずってた」
エリィは本を見た。表紙を見た。何も書かれていない革の表紙を、もう一度見た。
落ち着こうとした。落ち着けなかった。こういうことは、あまりなかった。
「あの」
「なに」
「少し待ってください」
「いいよ」
エリィはしばらく本を持ったまま立っていた。カエルが部屋の壁際で腕を組んでいた。ヴェルト師は棚の前に行って、背表紙を眺めていた。
エリィはもう一度、本を見た。
「中を、見ていいですか」
「見ていい。でもその前に話がある」
「順番が逆ですか」
「逆の方がいい」
エリィは本を持ったまま、そのものを見た。
「全部、入ってる」とそのものは言った。
「何が、ですか」
「答えが。お前が今まで聞いた問いも、これから聞く問いも。知りたかったけど誰にも聞けなかったものも。神学書を三冊読んでも出てこなかったものも」
エリィは本を持つ手に、少し力が入った。
「本当に」
「本当に」
「……金林檎がおやつに含まれるかどうかも」
「入ってる」そのものは少し間を置いた。「それが一番聞きたいやつ?」
「一番ではないです。でも最初に思いついたので」
「そっか」とそのものは言った。少し楽しそうだった。
エリィは本を持ったまま、もう少し落ち着こうとした。落ち着いてきた。落ち着いてきたところで、気づいた。
話がある、と言っていた。
「続きを聞きます」とエリィは言った。
そのものが、床に腰を下ろした。エリィも本を持ったまま、向かいに座った。
「全部の答えを持つ」とそのものは言った。「それはそのまま。嘘じゃない」
「はい」
「ただし」
来た、とエリィは思った。
「問いは消えない」
エリィは一度、その言葉を頭の中に置いた。
問いは消えない。全部の答えを持っても、問いは消えない。
「どういう意味ですか」とエリィは聞いた。説明を求めたのではなく、自分の理解を確かめるために聞いた。
「答えを知ったら、次の問いが生まれる。それが止まらない」
「今もそうですが」
「今より速くなる。止まらなくなる、かもしれない」
エリィは本を見た。何も書かれていない表紙を見た。
腹が、鳴った。
部屋の静けさの中で、はっきりと。
「……すみません」
「気にしない」そのものは言った。「お腹が空いてる間は、止まれるね」
エリィはその言葉を聞いて、少し動きが止まった。
止まれる。
「問いが消えないなら」エリィはゆっくり言った。「止まれますね」
「え?」そのものが少し眉を上げた。
「問いがある間は、立ち止まって考えられる。答えを持っても問いが消えないなら——止まる理由がなくなるわけじゃない」
そのものは少し黙った。
「そういう受け取り方をするんだ」
「違いましたか」
「違うとも言えない」そのものは言った。「ただ、そう受け取った者は少ない」
カエルが、壁際から言った。「それ、持って帰るのか」
「まだ決めていないですが」
「そうか」
それだけだった。でもカエルの声は、少し低かった。
エリィは本を持ちなおした。
「答えを出すのは、今じゃなくていい?」
「今じゃなくていい」
「わかりました」エリィは言った。「少し考えます」
「考えていい」
「ただ」エリィは本を見ながら言った。「中を見てから考えてもいいですか。見てしまったら答えが変わるかもしれないですが」
「変わったとしても、それがお前の答えだよ」
エリィは表紙に触れた。開けなかった。まだ開けなかった。でも持ったままにした。
カエルが、動いた気配がした。エリィは顔を上げた。カエルは壁際で、腕を組んだまま立っていた。でも視線がエリィの方を向いていた。エリィを見ているのか、エリィが持っている本を見ているのか、あるいは全体を見ているのか。でも見ていた。それだけはわかった。
エリィは視線を本に戻した。ヴェルト師は棚の前に立ったまま、背表紙をひとつひとつ指でなぞっていた。老人の指が、静かに棚の上を動いていた。
「急がなくていい」とそのものが言った。
「はい」
「ここはしばらく、ある」
「どのくらい」
「わからない。ただ、消えるときは消える」
「それまでに決めればいいということですか」
「そう」
エリィは部屋を一度見回した。本棚。蝋燭の炎。石の床。小さな部屋。外の花野原の方が、広かった。でもここの方が、密度が高かった。
「一つ聞いていいですか」
「どうぞ」
「師も、昔ここへ来ましたか」
そのものは少し間を置いた。「来た者もいる」と言った。答えではなかった。でも答えになっていた。
エリィはヴェルト師の背中を見た。老人は振り返らなかった。指が、棚の上を動いていた。
本を持ったまま、エリィは少し俯いた。
欲しい、と思っていた。今まで気づかなかったくらい強く、欲しいと思っていた。それが少し、意外だった。自分がこんなに何かを欲しがれるということが。金林檎を誰かに渡しても惜しくなかった。板を使い切っても残念と思わなかった。財布を忘れても大丈夫と思った。でも今、この本を手から離すことを想像したとき、何かが抵抗した。小さく、でも確かに。
「……変ですね」エリィはひとりごとのように言った。
「何が」とそのものが聞いた。
「私がこんなに何かを欲しがっているのが」
そのものは何も言わなかった。
「欲しがってはいけないわけじゃないんですが」エリィは続けた。「ただ、自分がこういう顔をするとは思っていませんでした」
「どんな顔してるかわかるの?」
「声が上ずったので、たぶん顔にも出ていると思って」
そのものは少し黙った。それから「かわいいね」と言った。
エリィはしばらく考えた。「……褒めてますか、今」
「褒めてる」
「そうですか」
「そうだよ」
「わかりました」とエリィは言った。
帰りの道で、エリィは本を荷物の中に入れた。そのものが「それ、持って出ていいよ」と言ったので、持って出た。答えを出す前でもそれはいいらしかった。
「答えを出す前に開いたら、どうなりますか」とエリィは聞いた。
「試してみれば」とそのものは言った。
「試した人はいますか」
「いる」
「どうなりましたか」
そのものは歩きながら空を見た。花野原の空だった。青くて、雲がなかった。
「続きは、また今度」
「今度があるんですか」
「さあ」
エリィはその答えをひとまず受け取った。荷物の中の本が、少しだけ重く感じた。重いというより、あった。確かにそこにあった。
花が揺れていた。金属の音が、また聞こえた。今日は遠かった。でも消えていなかった。どこかで、静かに、続いていた。まるで何かを、数えているように。




