表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

8/14

第八章 欲しいものの話、あるいは声が上ずること

花野原の道が、しばらく行くと少し下りになった。

下りといっても急ではなく、気づいたら低いところにいた、という種類の下りだった。草の丈が少し高くなって、風が弱くなって、気温が少しだけ上がった。

「近い?」エリィはそのものの背中に聞いた。

「近い」

「どのくらい」

「もうすぐ」

「もうすぐというのは、一般にどのくらいですか」

「一般は関係ない」

エリィはその答えをひとまず受け取って、歩き続けた。カエルが後ろで枝を踏んで音を立てた。ヴェルト師は音を立てなかった。老人が歩くと草が避けるような気がした。気のせいかもしれなかった。


扉があった。

野原の中に、唐突に。

枠だけがあった。建物がない。壁もない。ただ石の枠だけが立っていて、その中に扉がはまっていた。木の扉で、古く、表面に文字のようなものが彫ってある。読めない文字だった。でも触ると、また、指先に何かが伝わってくる気がした。熱さでも冷たさでもない、もっと別の。

「開けるのか」カエルが言った。

「開けてみなければわからない」エリィは言った。

「また同じことを言う」

「同じ状況なので」

カエルは何か言いかけて、やめた。

エリィは扉に手をかけた。さっきの扉より軽かった。するりと開いた。


中は、部屋だった。

小さな部屋だった。

石の壁。石の床。天井は低く、蝋燭が三本だけ燃えていた。大聖堂ほどの広さも荘厳さもない。ただ、四方の壁が本棚になっていた。

床から天井まで。

本が、並んでいた。

大きいもの、小さいもの、厚いもの、薄いもの。背表紙に文字があるものも、何も書かれていないものも。古いものも、新しいものも。どう分類されているのかわからなかった。でも整然としていた。乱雑ではなく、ただ、人間の分類方法とは別の順序で並んでいた。

エリィはしばらく入口に立って、部屋を見回した。

腹が減っているのを、忘れた。


そのものが棚の前を歩いた。一度止まった。また歩いた。また止まった。棚を見上げて、少し首を傾けて、また歩いた。何かを探しているようでも、ただ確かめているようでも見えた。

それから一冊を抜いた。

大きくなかった。薄くもなかった。普通の本だった。革の表紙で、飾りはなく、背表紙にも何も書かれていなかった。古い。でも傷んでいない。

そのものがエリィを振り返った。

「これでしょ?」

差し出してきた。

エリィは本を見た。何も書かれていない表紙を見た。

見た瞬間に、わかった。

わかった、というのが正しいかどうかわからなかったが、何かが胸の中で動いた。鐘が鳴ったわけではなく、光が走ったわけでもなく、ただ、動いた。

エリィは手を伸ばしていた。考えてから伸ばしたのか、先に手が動いたのか、後から考えても判断できなかった。

本が、手の中にあった。

重くなかった。温かくもなく、冷たくもなかった。ただの本の感触だった。でも持った瞬間に——

これだ。

という感覚があった。

名前のない問いに名前がついた瞬間のような。答えではなく、問いそのものが形になった感覚だった。今まで一晩中考えても届かなかったものたちが、全部、この中にある。

「え」とエリィは言った。

それから一拍遅れて、「……ええ」と言った。

自分の声が少し高いことに、言ってから気づいた。

「隠してるつもり?」

そのものが言った。怒ってはいなかった。少し、意外そうだった。

「隠していません」エリィは言った。「ただ」

「ただ?」

「……声が上ずっていましたか」

「上ずってた」

エリィは本を見た。表紙を見た。何も書かれていない革の表紙を、もう一度見た。

落ち着こうとした。落ち着けなかった。こういうことは、あまりなかった。

「あの」

「なに」

「少し待ってください」

「いいよ」

エリィはしばらく本を持ったまま立っていた。カエルが部屋の壁際で腕を組んでいた。ヴェルト師は棚の前に行って、背表紙を眺めていた。

エリィはもう一度、本を見た。

「中を、見ていいですか」

「見ていい。でもその前に話がある」

「順番が逆ですか」

「逆の方がいい」

エリィは本を持ったまま、そのものを見た。

「全部、入ってる」とそのものは言った。

「何が、ですか」

「答えが。お前が今まで聞いた問いも、これから聞く問いも。知りたかったけど誰にも聞けなかったものも。神学書を三冊読んでも出てこなかったものも」

エリィは本を持つ手に、少し力が入った。

「本当に」

「本当に」

「……金林檎がおやつに含まれるかどうかも」

「入ってる」そのものは少し間を置いた。「それが一番聞きたいやつ?」

「一番ではないです。でも最初に思いついたので」

「そっか」とそのものは言った。少し楽しそうだった。

エリィは本を持ったまま、もう少し落ち着こうとした。落ち着いてきた。落ち着いてきたところで、気づいた。

話がある、と言っていた。

「続きを聞きます」とエリィは言った。

そのものが、床に腰を下ろした。エリィも本を持ったまま、向かいに座った。

「全部の答えを持つ」とそのものは言った。「それはそのまま。嘘じゃない」

「はい」

「ただし」

来た、とエリィは思った。

「問いは消えない」

エリィは一度、その言葉を頭の中に置いた。

問いは消えない。全部の答えを持っても、問いは消えない。

「どういう意味ですか」とエリィは聞いた。説明を求めたのではなく、自分の理解を確かめるために聞いた。

「答えを知ったら、次の問いが生まれる。それが止まらない」

「今もそうですが」

「今より速くなる。止まらなくなる、かもしれない」

エリィは本を見た。何も書かれていない表紙を見た。

腹が、鳴った。

部屋の静けさの中で、はっきりと。

「……すみません」

「気にしない」そのものは言った。「お腹が空いてる間は、止まれるね」

エリィはその言葉を聞いて、少し動きが止まった。

止まれる。

「問いが消えないなら」エリィはゆっくり言った。「止まれますね」

「え?」そのものが少し眉を上げた。

「問いがある間は、立ち止まって考えられる。答えを持っても問いが消えないなら——止まる理由がなくなるわけじゃない」

そのものは少し黙った。

「そういう受け取り方をするんだ」

「違いましたか」

「違うとも言えない」そのものは言った。「ただ、そう受け取った者は少ない」

カエルが、壁際から言った。「それ、持って帰るのか」

「まだ決めていないですが」

「そうか」

それだけだった。でもカエルの声は、少し低かった。

エリィは本を持ちなおした。

「答えを出すのは、今じゃなくていい?」

「今じゃなくていい」

「わかりました」エリィは言った。「少し考えます」

「考えていい」

「ただ」エリィは本を見ながら言った。「中を見てから考えてもいいですか。見てしまったら答えが変わるかもしれないですが」

「変わったとしても、それがお前の答えだよ」

エリィは表紙に触れた。開けなかった。まだ開けなかった。でも持ったままにした。

カエルが、動いた気配がした。エリィは顔を上げた。カエルは壁際で、腕を組んだまま立っていた。でも視線がエリィの方を向いていた。エリィを見ているのか、エリィが持っている本を見ているのか、あるいは全体を見ているのか。でも見ていた。それだけはわかった。

エリィは視線を本に戻した。ヴェルト師は棚の前に立ったまま、背表紙をひとつひとつ指でなぞっていた。老人の指が、静かに棚の上を動いていた。

「急がなくていい」とそのものが言った。

「はい」

「ここはしばらく、ある」

「どのくらい」

「わからない。ただ、消えるときは消える」

「それまでに決めればいいということですか」

「そう」

エリィは部屋を一度見回した。本棚。蝋燭の炎。石の床。小さな部屋。外の花野原の方が、広かった。でもここの方が、密度が高かった。

「一つ聞いていいですか」

「どうぞ」

「師も、昔ここへ来ましたか」

そのものは少し間を置いた。「来た者もいる」と言った。答えではなかった。でも答えになっていた。

エリィはヴェルト師の背中を見た。老人は振り返らなかった。指が、棚の上を動いていた。

本を持ったまま、エリィは少し俯いた。

欲しい、と思っていた。今まで気づかなかったくらい強く、欲しいと思っていた。それが少し、意外だった。自分がこんなに何かを欲しがれるということが。金林檎を誰かに渡しても惜しくなかった。板を使い切っても残念と思わなかった。財布を忘れても大丈夫と思った。でも今、この本を手から離すことを想像したとき、何かが抵抗した。小さく、でも確かに。

「……変ですね」エリィはひとりごとのように言った。

「何が」とそのものが聞いた。

「私がこんなに何かを欲しがっているのが」

そのものは何も言わなかった。

「欲しがってはいけないわけじゃないんですが」エリィは続けた。「ただ、自分がこういう顔をするとは思っていませんでした」

「どんな顔してるかわかるの?」

「声が上ずったので、たぶん顔にも出ていると思って」

そのものは少し黙った。それから「かわいいね」と言った。

エリィはしばらく考えた。「……褒めてますか、今」

「褒めてる」

「そうですか」

「そうだよ」

「わかりました」とエリィは言った。


帰りの道で、エリィは本を荷物の中に入れた。そのものが「それ、持って出ていいよ」と言ったので、持って出た。答えを出す前でもそれはいいらしかった。

「答えを出す前に開いたら、どうなりますか」とエリィは聞いた。

「試してみれば」とそのものは言った。

「試した人はいますか」

「いる」

「どうなりましたか」

そのものは歩きながら空を見た。花野原の空だった。青くて、雲がなかった。

「続きは、また今度」

「今度があるんですか」

「さあ」

エリィはその答えをひとまず受け取った。荷物の中の本が、少しだけ重く感じた。重いというより、あった。確かにそこにあった。

花が揺れていた。金属の音が、また聞こえた。今日は遠かった。でも消えていなかった。どこかで、静かに、続いていた。まるで何かを、数えているように。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ