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第十章 飢えの谷、あるいはお腹が鳴ること

花野原が終わる場所に、気づいたらいた。

終わり方がわからなかった。花があって、草があって、空が青くて、足元が軟らかかった。次の一歩を踏んだら——空気が変わった。温度が落ちた。草の感触がなくなった。足の下が、固くなった。

岩だった。

切り立った岩壁の間に、道があった。人が二人並んで歩けるくらいの幅。上を見ると、岩が空を切り取っていた。空が細い。遠かった。ここが内側で、空が外側、という感じがした。

「谷ですか」エリィはそのものに聞いた。

「谷と呼ぶ人もいる」

「他には何と呼びますか」

「試練の一つ目」

エリィはその答えをひとまず受け取った。カエルが岩壁を一度見上げた。カイが歩幅を少し狭くした。狭い道に合わせた動きだった。元騎士の癖だろうと思った。

愚者は変わらなかった。歩調も、笑みも、服の埃のなさも。岩の間でも花野原にいるときと同じだった。

「あの」エリィは愚者の方を向いた。「試練の間も同行するんですか」

「そのつもりだよ」

「試練に影響しませんか」

「するかもしれない」

「それは……」

「そういうものだよ」愚者は言った。「邪魔をするつもりはない。ただいる」

ただいる、という言い方が、少し引っかかった。でも今はそれより——

腹が鳴った。「……」

また鳴った。今度はさっきより大きかった。

「どうした」とカエルが言った。

「鳴りました」

「今日だけで何回目だ」

「数えていません」

「俺は数えていた。もう五回だ」

「すみません」

「謝るな。腹が減っているなら言え」

「減っています」

「それは知ってる」

カイが前を歩きながら振り返らずに言った。「宿まであと半日はある」

「半日」エリィは言った。「長いですね」

「長い」カエルも言った。

カイが何か言いかけた。その瞬間、エリィの腹が、また鳴った。今度は、違った。音の種類が違った。さっきまでの空腹の音じゃなかった。もっと深いところから来た。深くて、重くて、体の芯が空洞になるような音だった。

エリィは少し立ち止まった。「これが試練ですか」

「うん」とそのものが答えた。

「腹が減るんですか。もっと」

「もっと」

「……そういう試練なんですか」

「いろいろあるよ」とそのものは言った。「腹が減る。目がおかしくなる。足が遠くなる。人によって出方が違う」

カイが立ち止まった。何も言わなかったが、顔色が少し変わっていた。カエルは黙って歩き続けた。止まる気がない歩き方だった。

少し進んだあたりで、エリィの視界が揺れた。揺れた、というより——厚みが消えた。世界が薄い紙みたいになった気がした。岩壁がある。道がある。みんながいる。でも全部が、一枚の絵みたいに見えた。奥行きがなかった。

「……揺れていますか、ここ」

「揺れてない」カイが答えた。声が少し遠かった。

「そうですか」

「大丈夫か」

「大丈夫とはどの程度からですか」

「立てているか」

「立てています」

「では大丈夫だ」

エリィはその定義をひとまず採用した。

腹が、また鳴った。今度は音の大きさの問題ではなかった。鳴るたびに、少し視界が揺れた。腹が鳴る→視界がずれる→元に戻る。それが繰り返された。

「これ」エリィは言いながら歩いた。「腹が鳴るたびに視界がおかしくなりますか」

「人による」とそのものが答えた。

「私は鳴りやすいんですが」

「知ってる」

「つまり」

「つまりそうなるね」

カエルが振り返らずに言った。「喋るな。体力を使う」

「そうですか」

「そうだ」

エリィは黙った。黙って歩いた。腹が鳴った。視界が揺れた。また歩いた。

ルーメンが隣を歩いてきた。「律の書 第四節に、飢えは魂を磨くとあります」

「今は少し黙っていてください」エリィは言った。

「そうですね」ルーメンは言った。傷ついた様子はなかった。

リュウが、エリィの肩の上でじっとしていた。普段はよく動くのに、動かなかった。重かったが、温かかった。それだけが、はっきりしていた。

半分まで来たあたりで、エリィは一度立ち止まった。岩壁が、溶けているような感じがした。溶けているのではなく、岩の向こう側が見える気がする、という方が近かった。岩の奥に、何かが流れていた。続いていた。名前がわからなかった。でも確かに、そこにあった。

「エリィ」カエルが戻ってきた。「歩けるか」

「歩けます」

「本当に」

「足が動きます」エリィは言った。「ただ、視界が岩を通り抜けている気がします」

「何を見ている」

「わかりません。でも何かが」

カエルはエリィの顔を見た。それからヴェルト師を見た。老人はゆっくり歩いていた。変わらなかった。岩壁を見ていなかった。前だけを見ていた。この試練を知っている人の歩き方だった。

「行けるか」カエルが聞いた。

「行けます」

「転んだら言え」

「わかりました」

「言えないくらいになったら、俺が気づく」

「どうやって」

「前しか見ていない奴を、しばらく見てきたんでな」カエルはエリィを見た。「お前はまだちゃんと喋れてる」

エリィはその言い方が、少し意外だった。カエルはいつも前しか見ていない人なのに。

「ありがとうございます」

「礼はいい。歩け」

歩いた。腹が鳴った。視界が揺れた。また歩いた。

愚者を見たのは、そのときだった。一秒だけだった。

カエルが前に出て、リュウが動いて、エリィの視界がまた揺れた、その瞬間に——愚者が、何かを見ていた。笑みがなかった。笑みがなく、準備がなく、ただ、何かを見ていた。目線の先に何があるかは見えなかった。でも目の強さがわかった。欲しいものを見るときの目だった。腹が鳴るよりずっと深いところ、骨より奥から来るような欲しさの目だった。

大きかった。欲しいものが。その目に映っているものの大きさが、人の体に収まらない大きさだった。谷よりも、この岩壁よりも。輪郭がわからない大きさのものを、愚者はずっとここで見ていた。

その目が、エリィに向いた。一秒だけ。次の瞬間には、笑みが戻っていた。

「大丈夫?」愚者は言った。準備された声で。「顔色が悪い」

「少し」エリィは言った。「視界がおかしいです」

「そうか」

「今のは」エリィは続けた。「何を見ていましたか」

愚者は少し間を置いた。笑みがあった。

「何か見えたかい」

「見えました」

「何が」

「答えるより先に聞いた方がいいと思ったので」

愚者はエリィを見た。笑みがあった。でも一瞬、その笑みの形が、変わり方をした。笑みが薄くなったわけではなかった。薄くなったのではなく——遠くなった。

「鋭いね」

「鋭くないです」エリィは言った。「見えたから聞きました」

愚者は答えなかった。笑みだけがあった。エリィも追わなかった。追っても今は無理だと思ったし、視界がまた揺れたので、足元を見るのが先だった。

谷を抜けたのは、日が傾いてからだった。出口に出た瞬間、空気が戻ってきた。温度と、厚みと、匂いが。世界が三次元に戻った感じがした。

エリィはその場に膝をついた。膝をつくつもりはなかったが、足が止まった。

「大丈夫か」カイが来た。

「大丈夫です。膝をついただけです」

「つかなくていいところで膝をついている」

「そうですね」

カエルも来た。何も言わずに、水筒を差し出した。「ありがとうございます」「飲め」

飲んだ。水だった。ただの水だった。でも今まで飲んだどの水よりはっきりしていた。体の中に、水が入っていく感触があった。谷の中では何もかもが薄かったのに、水だけが実体を持っていた。

腹が鳴った。「……まだ鳴るか」カエルが息を吐いた。

「鳴ります」

「化け物め」

「褒めてますか、今」

「褒めていない」

「そうですか」

ヴェルト師が隣に来た。立ったまま、谷の出口を見ていた。

「師」「うん」「あの谷、何度来ても同じですか」

老人は少し間を置いた。「出方は変わる」

「何が変わりますか」「何を持って入るかで、出るものが変わる」

エリィは考えた。今回持って入ったもの。荷物。本。板が二枚。みんな。それから、腹の空き具合。老人が谷の方を見ている目が、少し細くなった。それが答えだとエリィは思った。聞かなかった。

そのものが、エリィの隣に来た。「よく出た」

「そうですか」「あの谷、途中で引き返す者もいる」「引き返してどうなりますか」「また入ることになる。別の形で」

エリィはその言葉を頭の中に置いた。

「宿は近いですか」「近い」「どのくらいですか」「もうすぐ」「もうすぐというのは——」「一般は関係ない」「わかりました」

カイが前を向いて歩き始めた。カエルもそれに続いた。エリィも立ち上がった。膝に土がついていた。払った。荷物を持ち直した。本の重さが、ちゃんとあった。谷の中では薄かった感触が、また戻っていた。

よかった、とエリィは思った。本がちゃんとある。

腹が鳴った。「本当にまだ鳴るんだね」とそのものが言った。「止まりません」「谷の中でもずっと鳴ってた」「鳴っていましたね」「鳴るたびに、ここにいるってわかった」そのものは言った。「お前の場合」

エリィはその言葉を少し考えた。ここにいる。腹が鳴るから、ここにいるとわかる。谷の中で視界がおかしくなって、世界が薄くなっても——腹が鳴った。その音だけは、変わらなかった。

「……なるほど」エリィはゆっくり言った。「腹が鳴るのは、悪いことじゃないかもしれないと思いました」

「思ってなかったの?」「今まであまり考えていなかったです」「そうか」とそのものは言った。少し楽しそうだった。

金属の音が、した。谷を抜けて初めて聞こえた音だった。谷の中では止まっていた。でも今、また始まっていた。リズムは変わらなかった。一定で、静かで、確かだった。数えていた。何を数えているのかは、まだわからなかった。

夕方、宿に入った。テーブルに座ってすぐ、スープが来た。温かかった。

エリィは一口飲んで、目を閉じた。一秒だけ。それだけでよかった。「……おいしいです」

「当然だ」カエルが言った。「今日はよく歩いた」「カエルさんも」「俺は歩いただけだ」「十分です」エリィは言った。カエルは何か言いかけて、スープに向かった。

愚者は少し離れた席に座っていた。スープには手をつけていなかった。必要がないのかもしれなかった。こちらを見ていなかった。でも、いた。エリィはそれを確認して、スープに戻った。

腹が鳴った。スープを飲んでいるのに鳴った。

「……飲んでいる最中に鳴るのか」カイが言った。「鳴りました」「原理がわからない」「私もわかりません」エリィは言った。「でもなんとかなります」

カイは天を仰いだ。ヴェルト師が、口元を少し緩めた。

金属の音が、宿の外で静かに続いていた。


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