第5話 キスの味
「ただいま。……いい匂いがするね」
夜。仕事を終えた健太郎さんが帰宅した時、私は無言でいつもの落ち着いたネイビーの部屋着に着替え、キッチンで黙々とアジの開きを焼いていた。
食卓に向かい合い、綺麗に骨を外して一口食べた健太郎さんは、目を細めて微笑んだ。
「僕、結衣の焼くアジ大好きなんだ。それにしても、今日は随分と激しい戦いだったみたいだね?」
私の精神的に疲労困憊した顔を見て、健太郎さんは一部始終を察したように笑ってくれた。
(……本当に、この人には敵わない)
ソニアの暴走に振り回されるのはひどく疲れるが、健太郎さんのこの包容力があるからこそ、私は彼に付いていきたいと思えるのだ。
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翌週の休日の朝。心地よい日差しが差し込むダイニングには、甘く香ばしい匂いが漂っていた。
キッチンには、休日のリラックスしたルームウェアにエプロンを身につけた健太郎さんが立っている。休日の朝食は健太郎さんが担当してくれることが多く、今日は彼特製のパンケーキだ。完璧な焼き色、ふっくらとした美しいフォルム。地方公務員として規則正しい生活を送る私にとって、休日の朝のこの穏やかな時間は至福の時……のはずだった。
だが現在、私の肉体は『ソニアタイム』の真っ最中だった。
『うっひょー! 夫ちゃん特製パンケーキ、マジ美味そう! テンション爆上がりなんだけど!』
「熱いうちに食べてね、そーぽよちゃん」
健太郎さんは敏腕営業マンの爽やかな笑顔で、パンケーキの皿をテーブルに置いた。
『いっただーきまーす! ……あ、ちょっと待って。これ乗っけたら絶対ヤバくない?』
ソニアが冷蔵庫から嬉々として取り出してきたのは、なんと『納豆』と、スプレータイプの『ホイップクリーム』だった。
(……ちょっと。ソニア、あなた正気ですか? 何をしようとしているの)
〈えー? 納豆のネバネバとホイップの甘さが絶妙にマッチして、マジで神スイーツになる予感しかしないっしょ!〉
(やめなさい! それは味覚の暴力です! 健太郎さんがせっかく綺麗に焼いてくれたパンケーキへの冒涜よ!)
私の脳内での絶叫を無視して、ソニアはパンケーキの上に納豆を豪快にぶちまけ、その上から雪山のようにホイップクリームを絞り出し始めた。
(絶対に、食べさせないわ……!)
私は前回のスーパーでの死闘を思い出し、再び全精神力を左手に集中させた。ガシッ! と、フォークを握る右手を、私の左手が強引に掴んで止める。
『ちょっ、ゆいぽん! また左手!? ここでの横槍はマジでルール違反だって言ってんじゃん!』
(体の主として、このような無法地帯を口内に形成することは断じて許されません! 断固として阻止します!)
右手と左手が空中でブルブルと震え、激しい拮抗状態に陥る。しかし、今はソニアタイム中。ベースの主導権を握っているソニアの「どうしても食べたい」というギャル特有の謎の執念が、この時ばかりは私の防衛線を上回った。
『甘い! アタシの食欲を舐めんなーっ!』
右手が左手を力ずくで振り切り、納豆とホイップクリームがたっぷり乗った凶悪なパンケーキの塊が、私の口の中に放り込まれた。
(う、うわあああああっ……!)
納豆の強烈な発酵臭と、ホイップクリームの暴力的な甘さ。それが口の中で混ざり合う、この世のものとは思えない混沌とした味が、共有された味覚を通して私の脳髄を直撃する。
その一部始終――妻が自分自身の腕と格闘した末に、ゲテモノパンケーキを自ら口に放り込んで絶望に白目を剥いている姿――を、目の前で見ている健太郎さんは、止めるどころかお腹を抱えて笑い転げていた。
ピピピピピ……。
絶望の淵に沈む中、リビングのタイマーが鳴り響いた。
『あーっ! マジか、ここで時間!? ゆいぽん、あとはじっくり味わって食べなよー!』
その無責任な捨て台詞を最後に、頭の奥のスイッチが切り替わった。
「……っ! げほっ、ごほっ!」
主導権を取り戻した私は、慌てて手元の水を飲み干し、口内に残る最悪の味をなんとか洗い流そうと奮闘した。涙目になりながら、いまだに肩を揺らして笑っている夫を睨みつける。
「もう、健太郎さんったら! 笑い事じゃありませんよ!」
「あはは! ごめんごめん、結衣。あまりにも二人のやり取りが面白くて、つい」
健太郎さんは目尻に涙を浮かべるほど笑った後、ふと真面目な顔になり、スッと私の隣に座った。そして、怒っている私の機嫌を取るようにそっと私の頬に手を添え、優しく唇を重ねた。
「……っ!?」
突然のキスに、私の心臓は跳ね上がった。公務員としての冷静さなど一瞬で吹き飛び、顔がカッと熱くなる。休日の朝からこんな甘い雰囲気になるなんて。照れくさいけれど、彼の真っ直ぐな愛情が伝わってきて、胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。
しかし、健太郎さんは唇を離した直後、少しだけ顔をしかめた。
「……うん。結衣、ごめん。今後、納豆の後のキスはやめような」
「……っ!」
せっかくのロマンチックなムードは、納豆とホイップの残り香によって見事に粉砕された。
私は羞恥心と怒りで顔を限界まで真っ赤にしながら、頭の奥底で呑気にくつろいでいるであろう親友に向けて、特大の怒りをぶつけた。
(ソニア……! 全部、あなたのせいよ!)
〈わりぃ!〉




