第48話 ファイナルソニアタイム
「……ううん、どこも痛くないわ」
私は首を横に振り、溢れる涙を手の甲で乱暴に拭った。
「じゃあ、何か嫌なことでもあった? 僕でよければ話を聞くよ」
健太郎さんは私の隣に座り、背中を優しくさすってくれる。その温もりが、さらに涙腺を刺激した。
「私からじゃなくて……」
私は震える声で、健太郎さんの目を見つめた。
「彼女から、直接聞いてあげてください。……ソニアに、」
健太郎さんが目を丸くする中、私は脳内の奥深くに語りかけた。
(ソニア。……出てきて。最後くらい、ちゃんと健太郎さんとお話しして)
〈……ゆいぽん。泣き顔、ブサイクになってるよ〉
脳内で照れ隠しのように笑う声が聞こえ、私は自ら進んで、ソニアタイムのスイッチを押し込んだ。
カチリ、と。
いつもより少しだけ、静かで優しい音が頭の奥で鳴った。
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主導権を握った私の体は、ぽろぽろと零れ落ちていた涙を指先でサッと拭い、健太郎さんに向き直った。
『……チッスー、夫ちゃん。お風呂上がり、セクシーじゃん』
「そ、そーぽよちゃん? 結衣、急に泣き出して……どうしたの? そーぽよちゃんは何か知ってる?」
健太郎さんの心配そうな顔を見て、ソニアはいつもより少しだけトーンを落とした、穏やかな声で話し始めた。
『ゆいぽんはね、気づいちゃっただけ。アタシがもうすぐ、ゆいぽんの中に完全に溶けちゃうってことに』
「……溶ける?」
『そ。アタシは元々、ゆいぽんが自分を守るために作った、ただの防衛の壁みたいなもんだったからさ。でも、夫ちゃんっていう最高の味方ができた今、アタシの役目はもう終わり。これからは、アタシとゆいぽんは、完全に一つの人格に「融合」するの』
健太郎さんは息を呑み、言葉を失った。
「それって……もう、そーぽよちゃんとは話せなくなるってこと?」
『ま、そういうことだね。表に出てきて、夫ちゃんとワチャワチャと喋るのは、これが最後ってわけ』
健太郎さんの顔に、明らかな動揺と寂しさが広がった。彼にとってソニアは、単なる妻の幻覚ではなく、一緒に笑い、一緒に踊り、仕事の悩みも聞いてくれた、大切な「親友」になっていたのだ。
「そんな……。寂しくなるよ、そーぽよちゃん」
健太郎さんの真っ直ぐな言葉に、ソニアは嬉しそうに目を細めた。
『夫ちゃんがアタシのために寂しがってくれるなんて、マジで泣ける。……でもね、悲しむことはないんだよ。ゆいぽんはアタシで、アタシはゆいぽんだから。元々一人の人間なんだし、これからは、ゆいぽんの中にアタシの「ギャルマインド」がちゃんと残るからさ』
ソニアは健太郎さんの手に、自分の手をそっと重ねた。
『だからさ、最後に夫ちゃんに「ゆいぽん取扱説明書」を伝授しとく!』
「……取扱説明書?」
『そう! ゆいぽんはマジで不器用で、素直じゃないからね。いい? ゆいぽんが理屈っぽく怒り出したら、それは大抵「寂しい」か「構ってほしい」のサインだから、言い返さずにギュッとハグしてあげること。それから、照れ屋だから言葉にしなきゃ伝わんないよ。「カワイイ」とか「愛してる」とか、毎日ちゃんと口に出して言うこと! わかった!?』
健太郎さんは、ソニアの言葉を一つ一つ噛み締めるように、真剣な顔で頷いた。
「わかった。……ちゃんと守るよ。結衣のことは、俺が絶対に幸せにする」
『っしょ! 夫ちゃんなら絶対やってくれるって信じてる!』
ソニアは満足げに笑い、立ち上がろうとした。
「待って、そーぽよちゃん」
健太郎さんがソニアを引き留めると、急いでリビングの棚の方へと向かった。そして、一枚のアナログレコードを取り出してきた。
それは以前、ソニアが爆音で流し、義母の芳江ママと一緒に踊り狂った、あのサイケデリックなジャケットのユーロビートのレコードだった。
「これ……そーぽよちゃんに、プレゼント。俺からの、友情の証だ」
健太郎さんが少し照れくさそうにそれを差し出すと、ソニアは目を丸くした。
『えっ……アタシに?』
「うん。そーぽよちゃんが結衣を自由にしてくれたおかげで、結衣はすごくよく笑うようになった。そして、俺たち夫婦の絆を深めてくれた。……俺にとっても、君は最高の親友だった。本当に、ありがとう」
ソニアはレコードを受け取ると、肩を震わせてプッと吹き出した。
『あははは! 夫ちゃん、マジでウケるんですけど! アタシにこれくれたって、アタシの体はゆいぽんの体なんだから、結局この家に置かれたままになるだけじゃん! 意味ないっしょ!』
「あ……っ、確かに。言われてみれば、全然物理的なプレゼントになってないな……あいや、違う。今後もこのレコードはそーぽよちゃんの所有権として我が家に残り続けるってことだ」
健太郎さんが頭を掻いて苦笑いする。
しかし、ソニアはレコードを胸にギュッと抱きしめ、顔を下に向けた。
ポタッ、ポタッ、と。
拭ったはずの涙が、再びレコードのジャケットの上に落ちていく。
『……でも、マジで嬉しい。夫ちゃん……最高のプレゼント、ありがと……』
震える声でそう呟くソニアの頭を、健太郎さんは大きな手で優しく、何度も撫でた。
数分後。
ソニアは大きく深呼吸をして、顔を上げた。その顔には、もう涙はなかった。
『よし! 湿っぽいのはアタシらしくないっしょ! 夫ちゃん、ゆいぽんの人生、これからもっともっとアガっていくから、しっかりエスコートしてよね!』
「任せておいて」
健太郎さんが力強く頷くと、ソニアは一歩下がり、顔の横で全力のギャルピースを作った。
『じゃあね、夫ちゃん! 今までマジでサンキュー! ゆいぽんをよろしく!』
満面の、太陽のように明るい笑顔だった。
カチリ。
頭の奥で、これまでで一番静かで、温かい音が鳴った。
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「……っ」
ふっと体に重力が戻り、私に主導権が返還された。
視界がクリアになると、目の前には、少しだけ目を潤ませながらも、優しく微笑んでいる健太郎さんの顔があった。
そして私の手には、彼がソニアに贈ってくれた友情の証であるレコードが、しっかりと抱きしめられていた。
「おかえり、結衣」
健太郎さんの声が、リビングに優しく響く。
「……はい。健太郎さん……」
私はレコードを抱えたまま、健太郎さんに向かって、今までで一番自然で、明るい笑顔を見せた。
窓の外からは、雨上がりの澄んだ夜風が、静かに吹き込んでいた。




