第49話 融合と幕開け
深い夜の静寂の中、私は隣で眠る健太郎さんの穏やかな寝息を聞きながら、じっと天井を見つめていた。
窓の外では、昼間の嵐が嘘のように、月が静かに街を照らしている。
(……ソニア、いるの?)
心の中で呼びかける。今までなら、すぐに「呼んだー?」と、鼓膜を震わせるような大音量で返ってきたはずの声が、今は驚くほど遠く、穏やかに響いた。
〈いるよ、ゆいぽん。ずっと、ここにいるよ〉
脳内世界で、ソニアはいつもの派手な格好のまま、どこか満足そうに笑っていた。
〈ねえ、ゆいぽん。最後に、夫ちゃんに直接お別れ言わせてくれて、マジでありがとね。アタシ、最高にハッピーだったわ〉
(お礼を言うのは、私の方よ。あなたがいてくれたから、私は……)
厳格すぎる両親の下で、感情を殺して「完璧」を演じ続けてきた私。中学二年生のあの秋、限界を迎えそうだった私の心を守るために、あなたは現れてくれた。自由の象徴として、私を支え続けてくれた。
そして何より、健太郎さんという、私のすべてを受け入れてくれる人との絆を、あなたが繋いでくれた。
〈もー、湿っぽいのはナシ! アタシは消えるわけじゃないんだからさ。ゆいぽんの中に、完全に「合体」するだけ。これからは、ゆいぽんが自分で自分をハッピーにする番だよ〉
ソニアの姿が、少しずつ淡く、光の中に溶け込んでいく。
〈ゆいぽん、マジで幸せになりなよ!〉
それが、彼女の最後の言葉だった。
パチン、と。頭の奥で、小さなスイッチが弾けるような音がした。
それと同時に、ソニアという「他者」の気配が消え、彼女が持っていた強さや、自由奔放な色彩が、温かい雫となって私の心全体に広がっていくのを感じた。
+++
「……っ、う……」
目を開けると、視界が涙で滲んでいた。
堪えようとしても、溢れ出す涙を止めることができない。声にならない嗚咽が漏れる。
「……結衣?」
隣で眠っていた健太郎さんが、私の異変に気づいて身を起こした。
彼は何も言わず、ただ優しく、大切な宝物を扱うような手つきで私を抱き寄せた。
「お別れ、したんだね」
健太郎さんの胸の中で、私は子供のように何度もうなずき泣きじゃくった。ソニアという、十四年間ずっと一緒にいた唯一無二の親友がいなくなった喪失感。それと、彼女が残してくれた温かさが、胸の中で渦巻いていた。
「……健太郎、さん。私……」
私は鼻を啜りながら、ずっと心の奥底に封印していた「本当の理由」を、震える声で紡ぎ始めた。
「どうして、私があなたにソニアのことを告白したか、わかりますか?」
「……隠し事はしない、っていう約束だったからじゃないの?」
健太郎さんは私の背中をさすりながら、穏やかに問い返す。私は首を横に振った。
「もちろん、それもあります。でも……本当は、怖かったんです。自分の中に、自分でも制御できない、あなたに嫌われるかもしれない『ギャル』が住んでいる。いつか、それがバレて、あなたに見捨てられるんじゃないかって。……狂っていると思われるかもしれないっていう恐怖よりも、あなたに私のすべてを知って、その上で、愛してほしかったんです」
私は健太郎さんのパジャマをきつく握り締めた。
「地味で、堅物で、面白みのない私だけじゃなくて。醜くて、歪で、理解不能な部分も含めて……本当に全部を知って、それでも側にいてほしかった。私の、わがままでした」
長い沈黙が流れた。
健太郎さんは、私の額にそっと唇を寄せると、噛み締めるように言った。
「結衣の判断は、間違ってなかったよ」
「……え?」
「その告白があったからこそ、今、こんなに明るい未来が待っているんだ。俺は、完璧な公務員の結衣も、ヤキモチ焼きの結衣も、そして……そーぽよちゃんという情熱を持っていた結衣も、全部ひっくるめて愛してる。隠さずに見せてくれて、ありがとう」
その言葉が、私を縛り続けていた最後の鎖を解き放ってくれた。
私は健太郎さんの温もりに包まれながら、深い安堵感の中で、いつの間にか眠りについていた。
+++
翌朝、カーテンの隙間から差し込む心地よい日差しが、私の瞼を叩いた。
私はゆっくりと起き上がり、洗面台の鏡の前に立った。
少しだけ赤くなった目をしているけれど、表情は不思議なほど清々《すがすが》しい。
私は、リビングの棚の引き出しを開けた。
奥の方にしまってあった、小さな紙袋を取り出す。
中には、以前ソニアがデパートでおねだりして健太郎さんに買ってもらった、あの鮮やかなコーラルピンクのリップスティックが入っていた。
「……よし」
私は自分の意思で、そのキャップを外した。
鏡を見ながら、慎重に、けれど思い切りよく唇に滑らせる。
派手すぎて自分には似合わないと思っていたその色は、今の私の顔に、驚くほどしっくりと馴染んでいた。
リビングへ向かうと、そこにはすでに朝食の準備を始めた健太郎さんがいた。
私が近づくと、彼は振り返り、私の顔を見て少しだけ目を見開いた。
「おはよう、健太郎さん」
私は彼に向かって、今までで一番自然で、明るい笑顔を向けた。
健太郎さんは一瞬見惚れたように固まった後、嬉しそうに目を細めた。
「おはよう、結衣。……そのリップ、すごく似合ってる」
私は照れくさそうに笑いながら、窓際に置かれた鉢植えへと歩み寄った。
ピンクのフリルリボンとラインストーンで魔改造された、あの『バジぽよ』。一時は捨てようとすら思っていた、この歪で愛おしい植物。
「今日も元気ね、バジぽよ」
私は霧吹きで優しく水をかける。水滴がキラキラと光り、バジルの葉が誇らしげに揺れた。
ふと、ダイニングテーブルの上に置いた自分のスマートフォンに目をやる。
そこには、ピンクの巨大なファーで覆われ、ゴールドのチェーンがじゃらじゃらと垂れ下がる、あの「派手すぎるスマホケース」が装着されたままだった。
(……結局、これも外しそびれちゃったわね)
かつては「公務員の品位が」と絶望していたはずの物体が、今は自分の一部として、なくてはならないお守りのように感じられる。
私はそのスマホを手に取り、チェーンを指でくるりと回した。
脳内からはもうソニアの声は聞こえない。
けれど、窓口の業務中に「マジ面倒だよね」と後輩に囁きたくなるような遊び心や、健太郎さんの前で思い切り甘えたくなるような情熱は、確かに私の中に息づいている。
「ねえ、健太郎さん」
「ん?」
「今日の仕事帰り、駅前でクレープ食べに行きませんか? 一番甘いやつ」
私の提案に、健太郎さんは驚いたように笑い、それから力強く頷いた。
「いいよ。最高に映えるやつ、食べに行こう」
「あ、それと……」
私は少し悪戯っぽく笑って、言葉を続けた。
「お休みの日にでも、お隣の大河内さんと、会社のお友達の馬場さんにも、正式にご挨拶の機会を作っていただけますか?」
「えっ? 大河内さんと馬場に?」
「ええ。あの時の『ド派手な泥棒猫』も『愛人』も、全部私だったって……今度こそ逃げずに、夫婦揃って誤解を解きに行きましょう」
健太郎さんは一瞬目を丸くした後、肩を揺らして吹き出した。
「あははっ、それはいい! 今の結衣の口から直接聞いたら、二人とも絶対に腰を抜かすよ」
「ふふっ、少しだけ楽しみです」
私は自分の顔をした『誰か』ではなく、ソニアを自分の一部として受け入れた「新しい私」として、一歩を踏み出す。
私の心の中には、今もギャルが住んでいる。
それはかつての防衛機制ではなく、これからの人生を色鮮やかに彩るための、最高の魔法だ。
私はもう一度、窓の外の青空を見上げて、心の中で呟いた。
(見ててね、ソニア。私、マジで幸せになるから!)
鏡の中の自分が、少しだけ悪戯っぽくウインクをしたような気がした。
第1章 完
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